存在するものは全て消滅の途上にあるという事実と、その一方でひとたび存在したものは何をもってしても取り消し得ないという事実、それらはなかなか面白いことではないかと思う今日この頃。
それはさておき
ヤン・シュヴァンクマイエルの新作『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』を観てまいりました。
映画『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』予告編
今年で御年77歳を数えるシュヴァンクマイエルでございますが、あの神経を紙ヤスリで逆撫でするような映像感覚は健在でございます。このあたり、方向性は異なるものの、デジタル技術を多様するようになってから画面ばかりでなく作品全体の手触りがさらっと薄味なものになってしまった感のあるテリー・ギリアムにはちと見習っていただきたい所。(そうはいってもワタクシ『ブラザーズ・グリム』は好きですけどね)
シュヴァンクマイエルの作品はとりわけ恐怖やショックを売りにしているわけでもないのに、安心して見ていられないという点ではホラー映画以上のものがございますね。短編の特集上映で観た『フローラ』なぞほんの30秒足らずの作品だというのに、展開されるイメージの強烈さに打ちのめされて、次の作品が始まっても全く集中できなかったものでございます。
『サヴァイヴィング ライフ』でもニワトリ頭の裸婦やペニスのついたテディベアなど、グロテスクで猥雑でありつつも妙に乾いたイメージは相変わらず。しかし振り返ればストーリーそれ自体には不合理な所がほとんどなく、むしろ最後に全てのピースがぴちっと嵌まるミステリーといった趣きすらあり、『オテサーネク』以上に普通に楽しめる映画となっておりました。
しかも冒頭にシュヴァンクマイエル本人が登場して「これは精神分析コメディです。何故なら、精神科医が出て来るから」と大真面目な顔でのたまうように、本作は喜劇でもあります。シュヴァンクマイエルの言葉は「でも、あんまり笑えません。作ってる間も笑えなかった」と続くのでございますが、半ば実写、半ば切り絵アニメーションと化したアーティスト本人が仏頂面でこんなこと言ってる時点で笑ってしまいました。
精神分析コメディというふざけた命名はしかし、実際正鵠を射たものであると申せましょう。ストーリーは主人公であるしがないサラリーマン、エフジェンが夜な夜な見る(一見)支離滅裂な夢を軸に、その夢に対する精神分析的解釈、そしてその夢と解釈とがエフジェンの現実の生活にもたらす大小の悲喜劇とをからめつつ進んでまいります。
夢の世界よりもむしろ現実世界の描写の方が悪夢じみていたり、シチュエーションとしては笑いどころなのに描き方がエグすぎて笑いが引きつってしまうようなイメージを持って来るあたり、実にもってシュヴァンクマイエルでございます。
もちろん冒頭の前口上どうりに精神科医もご登場。診察室の壁にいともわざとらしく掲げられているフロイトとユングの肖像写真が、目の前で展開することの成り行き、即ちエフジェンと精神科医とのやりとりに対していちいち反応するのが、ワタクシにはものすごくツボでございました。
初めは彼らの「弟子」たる精神科医の応答を見守りつつ、仲良く拍手したりうなずいたりしていたのが、エディプス・コンプレックスの話が出て来た辺りから意見の相違が表面化し始め、リビドー云々にフロイトが拍手喝采してもユングはムスッとしたまま、逆にアニマや元型の話になるとユング大喜びでフロイトはおかんむり、しまいには額縁を超えた殴り合いに発展したすえに共倒れという期待どうりの展開笑。
ひとつ物足りないと感じたことは、エフジェンの夢に現れる諸々の現象、即ちストーリーの本筋を構成する魅惑と謎の全てが、心理学的解釈の範疇にきちんと収まりすぎるという点でございます。『ジャバウォッキー』での黒猫のように、パズル完成と思いきや最後に何もかもぶちこわす存在があっても良かったと思うのですが。
ジャバウォッキー 1971
しかしまあ、「きちんと収まりすぎ」ということ自体、フロイトとユングの甚だベタなケンカ同様に、シュヴァンクマイエル流の皮肉なのかもしれません。彼が創造性の源泉として重視する無意識の世界を、学問という名のメスで腑分けしようとする、精神分析や心理学といった理知的なものへの。
分析のおかげをもって夢に現れる全ての謎は解明されたものの、それによって主人公エフジェンに残されたのは、家庭的・社会的生活が崩壊した現実と、もはや「謎の美女との逢瀬」という甘美な様相を剥がされた夢の世界とのみなのですから。
それはさておき
ヤン・シュヴァンクマイエルの新作『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』を観てまいりました。
映画『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』予告編
今年で御年77歳を数えるシュヴァンクマイエルでございますが、あの神経を紙ヤスリで逆撫でするような映像感覚は健在でございます。このあたり、方向性は異なるものの、デジタル技術を多様するようになってから画面ばかりでなく作品全体の手触りがさらっと薄味なものになってしまった感のあるテリー・ギリアムにはちと見習っていただきたい所。(そうはいってもワタクシ『ブラザーズ・グリム』は好きですけどね)
シュヴァンクマイエルの作品はとりわけ恐怖やショックを売りにしているわけでもないのに、安心して見ていられないという点ではホラー映画以上のものがございますね。短編の特集上映で観た『フローラ』なぞほんの30秒足らずの作品だというのに、展開されるイメージの強烈さに打ちのめされて、次の作品が始まっても全く集中できなかったものでございます。
『サヴァイヴィング ライフ』でもニワトリ頭の裸婦やペニスのついたテディベアなど、グロテスクで猥雑でありつつも妙に乾いたイメージは相変わらず。しかし振り返ればストーリーそれ自体には不合理な所がほとんどなく、むしろ最後に全てのピースがぴちっと嵌まるミステリーといった趣きすらあり、『オテサーネク』以上に普通に楽しめる映画となっておりました。
しかも冒頭にシュヴァンクマイエル本人が登場して「これは精神分析コメディです。何故なら、精神科医が出て来るから」と大真面目な顔でのたまうように、本作は喜劇でもあります。シュヴァンクマイエルの言葉は「でも、あんまり笑えません。作ってる間も笑えなかった」と続くのでございますが、半ば実写、半ば切り絵アニメーションと化したアーティスト本人が仏頂面でこんなこと言ってる時点で笑ってしまいました。
精神分析コメディというふざけた命名はしかし、実際正鵠を射たものであると申せましょう。ストーリーは主人公であるしがないサラリーマン、エフジェンが夜な夜な見る(一見)支離滅裂な夢を軸に、その夢に対する精神分析的解釈、そしてその夢と解釈とがエフジェンの現実の生活にもたらす大小の悲喜劇とをからめつつ進んでまいります。
夢の世界よりもむしろ現実世界の描写の方が悪夢じみていたり、シチュエーションとしては笑いどころなのに描き方がエグすぎて笑いが引きつってしまうようなイメージを持って来るあたり、実にもってシュヴァンクマイエルでございます。
もちろん冒頭の前口上どうりに精神科医もご登場。診察室の壁にいともわざとらしく掲げられているフロイトとユングの肖像写真が、目の前で展開することの成り行き、即ちエフジェンと精神科医とのやりとりに対していちいち反応するのが、ワタクシにはものすごくツボでございました。
初めは彼らの「弟子」たる精神科医の応答を見守りつつ、仲良く拍手したりうなずいたりしていたのが、エディプス・コンプレックスの話が出て来た辺りから意見の相違が表面化し始め、リビドー云々にフロイトが拍手喝采してもユングはムスッとしたまま、逆にアニマや元型の話になるとユング大喜びでフロイトはおかんむり、しまいには額縁を超えた殴り合いに発展したすえに共倒れという期待どうりの展開笑。
ひとつ物足りないと感じたことは、エフジェンの夢に現れる諸々の現象、即ちストーリーの本筋を構成する魅惑と謎の全てが、心理学的解釈の範疇にきちんと収まりすぎるという点でございます。『ジャバウォッキー』での黒猫のように、パズル完成と思いきや最後に何もかもぶちこわす存在があっても良かったと思うのですが。
ジャバウォッキー 1971
しかしまあ、「きちんと収まりすぎ」ということ自体、フロイトとユングの甚だベタなケンカ同様に、シュヴァンクマイエル流の皮肉なのかもしれません。彼が創造性の源泉として重視する無意識の世界を、学問という名のメスで腑分けしようとする、精神分析や心理学といった理知的なものへの。
分析のおかげをもって夢に現れる全ての謎は解明されたものの、それによって主人公エフジェンに残されたのは、家庭的・社会的生活が崩壊した現実と、もはや「謎の美女との逢瀬」という甘美な様相を剥がされた夢の世界とのみなのですから。