夜の間に
見ず知らずの人の
自転車のタイヤに
画鋲でぷすぷす穴をあける人というのは
いったい他にストレスの発散方法が無いんでございましょうかね?
この10日ばかりの間に2度目でございます。
自転車が日常の足であり薄給でもあるワタクシには、これは痛い。
チューブ交換および交通にかかる費用も馬鹿になりません。
何より、直してもそのうちまたやられるのかと思うと
憂鬱至極でございます。
さておき
若冲展 承天閣美術館 へ行ってまいりました。
いやはや、おそろしい混みようでございました。
あちらこちらで扇子がはたはたとはためき
全然進まへんわー交通整理してあげたいわーとマダムが露骨に愚痴り
スタッフの「なるべく立ち止らずにお進みくださーい」の声にも
疲労感と苛立ちが色濃くにじんでおりましたが
それでも、ええ、よろしうございましたねえ。
メインである『釈迦三尊像』と『動植綵絵』の他、水墨画もいろいろ展示されておりました。
イトーさんの水墨画はどれもこれもほんとに瑞々しいですね。
生きとし生ける物はすべからく体内に水分を宿しておりますが
イトーさんの水墨画に描かれた鳥や魚や野菜や草花もまた、
しばしば装飾的であるにもかかわらず、その体内に水源を宿しているように生き生きとしております。
水墨画その他のセクションを出て(再入場はできないようです)
廊下をずっと辿っていくと『動植綵絵』の展示室が。↑のリンク先から、室内の様子が見られます。
おお、動植綵絵。
イトーさんがどっちも得意とするところの装飾性と写実性が
他に類を見ないような仕方でひとつの画面上で統合されており
鮮やかな色彩と相まって、独創的でただならぬ空間を生み出しております。
「過剰なまでに緻密」という形容がぴったりの本作。
その過剰さと緻密さに先立ってあるのは
ひとつひとつのモチーフにイトーさんが注ぐ眼差し、
敬意と愛情のこもった、かつ形態の捉え方においては鋭く客観的な眼差しです。
なにせ大根を仏陀に見立てて ↓ 涅槃図を描くお人でございます。(本展では展示されていません)
果蔬涅槃図
イトーさんにとって、絵を描くということは
「すべてのものに仏性が宿る」ということの表現であり、
鳥や魚や野菜や草花、即ちこの世にある全ての「仏」たちに対して
「ありがたい」と祈りを捧げる行為だったのでございましょう。
その祈りは『動植綵絵』において、この上なく高い密度で結晶しているのでござました。
以上の文を午前中に書いて
さて午後からの仕事に出かけようと
駐輪場に降り立ったところ
またやられておりました。
何だかもう
何もかもどうでもよくなってまいります。
見ず知らずの人の
自転車のタイヤに
画鋲でぷすぷす穴をあける人というのは
いったい他にストレスの発散方法が無いんでございましょうかね?
この10日ばかりの間に2度目でございます。
自転車が日常の足であり薄給でもあるワタクシには、これは痛い。
チューブ交換および交通にかかる費用も馬鹿になりません。
何より、直してもそのうちまたやられるのかと思うと
憂鬱至極でございます。
さておき
若冲展 承天閣美術館 へ行ってまいりました。
いやはや、おそろしい混みようでございました。
あちらこちらで扇子がはたはたとはためき
全然進まへんわー交通整理してあげたいわーとマダムが露骨に愚痴り
スタッフの「なるべく立ち止らずにお進みくださーい」の声にも
疲労感と苛立ちが色濃くにじんでおりましたが
それでも、ええ、よろしうございましたねえ。
メインである『釈迦三尊像』と『動植綵絵』の他、水墨画もいろいろ展示されておりました。
イトーさんの水墨画はどれもこれもほんとに瑞々しいですね。
生きとし生ける物はすべからく体内に水分を宿しておりますが
イトーさんの水墨画に描かれた鳥や魚や野菜や草花もまた、
しばしば装飾的であるにもかかわらず、その体内に水源を宿しているように生き生きとしております。
水墨画その他のセクションを出て(再入場はできないようです)
廊下をずっと辿っていくと『動植綵絵』の展示室が。↑のリンク先から、室内の様子が見られます。
おお、動植綵絵。
イトーさんがどっちも得意とするところの装飾性と写実性が
他に類を見ないような仕方でひとつの画面上で統合されており
鮮やかな色彩と相まって、独創的でただならぬ空間を生み出しております。
「過剰なまでに緻密」という形容がぴったりの本作。
その過剰さと緻密さに先立ってあるのは
ひとつひとつのモチーフにイトーさんが注ぐ眼差し、
敬意と愛情のこもった、かつ形態の捉え方においては鋭く客観的な眼差しです。
なにせ大根を仏陀に見立てて ↓ 涅槃図を描くお人でございます。(本展では展示されていません)
果蔬涅槃図
イトーさんにとって、絵を描くということは
「すべてのものに仏性が宿る」ということの表現であり、
鳥や魚や野菜や草花、即ちこの世にある全ての「仏」たちに対して
「ありがたい」と祈りを捧げる行為だったのでございましょう。
その祈りは『動植綵絵』において、この上なく高い密度で結晶しているのでござました。
以上の文を午前中に書いて
さて午後からの仕事に出かけようと
駐輪場に降り立ったところ
またやられておりました。
何だかもう
何もかもどうでもよくなってまいります。