この寒空の下、アイスバーをもりもりかじりながら歩いているお兄さんを見かけました。
今からあれじゃ夏場はどうするのかしらん。
それはさておき
前回の記事「アヴァンギャルド・チャイナ」展レポートのおしまいの所でちょっとだけ触れました、馬六明/マ・リウミン/Ma Liuming 氏がいろいろと気になりましたので、その後ネットや図書館を漁って調べてみました。
やはりなかなかに興味深い人物でございます。
Ma Liuming | ArtZineChina.com | 中国?志
What Happened to Fen-Ma Liuming? | ArtZineChina.com | 中国?志
Ma Liuming bei artnet
Ma Liuming
以下、経歴など。
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1969年、湖北省黄石市に生まれる。
湖北美術学院で油彩を学んだのち「北京東村
*1」に設立メンバーとして参加。
1993年にイギリスのアーティストギルバート&ジョージが東村を訪れた際、彼自身の企画によるパフォーマンスを始めて公開。
*2これがきっかけでパフォーミングアーティストとして活動することになる。
芬-馬六明/フェン-マ・リウミン/Fen-Ma Liuming
*3と題された一連のパフォーマンスで、馬は化粧をした美しい女性の顔と引き締まった男性の身体を持つ両性具有的な人物として現れる。
架空の人格である「芬-馬六明」は常に全裸、常に無表情で、魚を生きたまま調理するなどの過激なパフォーマンスをとり行う。
あるいは、天井からつり下げられた魚たちが苦しそうにあえぐただ中で,黙々とシャワーを浴び続ける。
あるいは、睡眠薬を飲んでステージに上り、無防備な姿を観客にさらして眠り続ける。
裸で行うパフォーマンスのため1994年、馬は猥褻のかどで当局に逮捕され、2ヶ月もの間勾留された。
釈放された直後にも、極寒の屋外で、生きた魚を真っ黒になるまで揚げる全裸でのパフォーマンスを行った。
1996年以降、東京を皮切りにニューヨーク、ロンドン、トロントほかヨーロッパ・アジア各地で観客参加型のパフォーマンスを行う。
2002年の福岡での公演を最後にパフォーマンス活動を辞め、現在は絵画と彫刻において表現活動を展開している。
*1若手前衛アーティストの活動の中心地となった 北京郊外の村。安い家賃と自由な芸術的活動を求めて、地方から出てきた貧しい芸術家たちが集まったということです。英語表記はニューヨークのそれを彷彿とさせる East Village。
*2その時の写真
Ma Liuming - Asian Art Documentation
*3「芬」は「香り」の意味で、普通は女性の名前に使われる漢字。男性的な名前である「馬六明」と併記することによってジェンダーのあいまいさを強調する意図があります。また、fenという音は分離の「分」と同音であることから、現実の馬自身と、パフォーマンスの素材としての自らの存在を区別する意味もあるということです。実際に馬氏は、インタヴューでは「芬-馬六明」を自分とは別の人格として「彼あるいは彼女」と呼び、「私が◯◯した」とは言わず「芬-馬六明に◯◯をさせた」と言ったりもしています。
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女装ですとか過激なパフォーマンスですとか、裸のせいで捕まったとか聞きますと、我が敬愛する
榎忠さんを連想してしまいますが、この類似はあくまでも外面的なものでございます。
エノチュウさんのアートが、ひとつのテーマをすっと追いかけるといった類のものではないのに対して、馬氏のテーマは一貫しております。
即ち、「境界のあいまいさ」というテーマでございます。
アーティストと観客の境界、大人と子供の境界といったモチーフも扱われるものの、中核をなしておりますのは何と言ってもジェンダー、男性と女性の境界でございます。
馬氏がジェンダーのあいまいさをテーマに選んだ訳は、子供の頃からその風貌のせいで男か女かと尋ねられることがしょっちゅうだった、という、氏自身の体験によっております。
なぜ人々は見かけだけで、男らしいとか女らしいとか決めつけてしまうのだろうか?
男性と女性の明確な境目はいったいどこにあるのか?
そもそも、そんな境目など存在するのだろうか?
何が男を男たらしめ、女を女たらしめているのだろうか?
馬氏は実体験にもとづくそうした疑問から、自分自身の中性的な身体を活用して表現することを思いついたということでございます。
生をあらゆる制度から解放せよ。私達は往々にして衣服から受ける印象や、社会的地位などの外的条件のみを基準として、互いを判断してしまう。---馬六明(「デ・ジェンダリズム/回帰する身体」展図録より)
全裸になることで服装も社会的地位も剥奪され、さらには顔に化粧を施すことで男性と女性の特徴を併せ持ち、何者にもカテゴライズされない人物として現れる「芬-馬六明」。
彼/彼女は、そのいわばどっちつかずの姿によって、私達の無意識的で日常的な判断基準に揺さぶりをかけます。
私達は「◯◯のように見えるものは、実際に◯◯である」という定式に基づいた暗黙のラベル付けを、日常的に行っております。そして自分自身もまた「◯◯のように見える」という外面的な印象によって、他者からラベル付けをされております。
そのラベルとは当然、ある種の固定観念に基づいたものでございます。
化粧をしているから女性だ。
男っぽい体つきだから男性だ。
立派な服を着ているから偉い人だ。信用できる。
ボロい服を着ているから貧乏人だ。怪しい人だ。
対象が実際に何者であるかを見極めるという作業をすっ飛ばし、定式化された枠に当てはめて、カテゴライズし、ラベルを貼る。
この意味でラベルとは便利なものではございますが、その同じ意味で、見る者にとっては認識作業の怠慢であり、見られる者にとっては一種の牢獄、拘束具であると言えましょう。
そうしたラベル付けの一切を拒否する「芬-馬六明」はカテゴライズできない存在に対する私達のとまどいや、批評家のお歴々による自己愛的だという非難に対して、そのひたすら無表情で端麗な顔によって、無言のまま答えます。
「だったら、どうなのさ」
げにも
「芬-馬六明」の姿は有無を言わせぬ、妖しいほどの美しさが備わっております。
この人物が男性であるか女性であるか、などということは、彼/彼女の蟲惑的な美しさの前にはどうでもいいことでございます。
ほっそりとした平らかな身体、鋭い眼差し、全く感情を表さない、無表情な顔。
今年50歳を迎え、すでに7年前からパフォーマンス活動を辞めている馬氏は身体をさらすパフォーマンスからの引退について、インタヴューでこう語っておられます。
私は「芬-馬六明」が年老いることなく、いわば永遠に美的なものとして留まっていてほしいと思います。残念ながら私の身体言語はもはや「芬-馬六明」の特徴を備えてはいないのです。
けだし、馬氏が自身の身体によって「境界はあいまいなものであり、ラベルなどは定式化された瑣末なものにすぎない」というメッセージを伝達するには、あの美しい肢体の放つ有無を言わせぬ説得力が、必須だったのでございましょう。
ああ、のろはまたしても、現場に間に合わなかったというわけか。
幸い馬氏はアート活動自体は続けておいでですし、絵画や彫刻作品もたいへんのろごのみでナイスなものでござます。
絵画・彫刻作品なりとも、パフォーマンスの記録映像や写真なりとも、もっと日本で見る機会があってほしいものだと、のろは切に願う次第でございます。
おまけ
馬氏のかなり長いインタヴューをこちらから読むことができます。(英語)
Performing bodies: Zhang Huan, Ma Liuming, and performance art in China - Interview | Art Journal | Find Articles at BNET
ambiguity(あいまいさ、両義性)という言葉をしきりに使っているのが印象的でございます。