京都国立近代美術館で開催中の『ラグジュアリー ファッションの欲望』展へ行ってまいりました。
美術館のHPで会場内の様子が見られます。↑
ものは考えようとはよく申しますが、「贅沢」も捉えようでございます。
「ラグジュアリー/贅沢」って、何なんでございましょう。
モノの多さ?手間の多さ?犠牲の多さ?希少価値?あるいは単に、心地よさでございましょうか?
冒頭に飾られているいとも荘厳な上衣は、かのエリザベス一世に献上されたものということでございます。びっしりと刺繍の施された豪華な衣装。しかしそれは果たして、イングランドを治める女王にとって「贅沢」なものであったのでございましょうか?
前半には18世紀から現代にいたる、まさしく贅を尽くした感のあるドレスやスーツが展示されております。
ロココ時代の王侯貴族のお召し物についで,19世紀のブルジョワさんたちが社交界でまとったであろうドレス,いい素材や職人の手間を惜しみなく注ぎ込んだ一点ものがずらりと。ロココの衣服はさすがと申しましょうか、男物も女物も絢爛・華麗でございます。濃い青とエンジのストライプ生地に白糸で刺繍をあしらったスーツなど、どこの王子様が着るのやらと思うほどに優美なものでございました。
もっとも、こういうものが本当に似合う人間がゴロゴロいたかというとそれはまた別の話でございますね。おおかた映画『アマデウス』に見られるような出っ腹のおっちゃんたちが着ていたのかなぁと、想像すると若干げんなりでございます。
近~現代ものでは、たった今空から舞い降りたかのように軽やかでダイナミックな動きを見せるヴィクター&ロルフのドレスが印象的でございました。
ちなみにのろは数年前に彼らをキュレーターに迎えて開催された『COLORS ファッションと色彩』展を見て、ファッションという分野に対する考えを変えたものでございます。長らく、ファッションショーで披露されるような---というよりファッションショーでしか着られないような---奇抜なデザインの衣服について、何でこんなもの作るんじゃろうと思っていたのでございましたが、あれは衣服という媒体を介した一種の表現活動なんでございますね。
たぶん。
バルビエやエルテのイラストレーションそのままのアール・デコの香り漂うドレスや、全身これ金ぴかのドレスも面白うございましたが、何と言っても驚いたのは、玉虫の羽をあしらったドレスでございます。
ごく淡いクリーム色の生地の上,光を受けて青に緑に紫にと輝くさまはまさしく宝石のようでございます。
玉虫の羽はもともとインドでマハラジャの婚礼衣装などに使われていたとのこと。本展に展示されておりますのは植民地時代、イギリスの業者が西欧向けに輸出したもののひとつで、2着のドレスに約5千匹もの玉虫が使われているのだとか。業の深いドレスもあったもんでございます。もちろん業が深いと言えばあらゆる絹製品の影には、煮殺されたたくさんのお蚕様がいらっしゃるわけで。何でも絹の着物一着作るのに約2700のお蚕様が必要なのだとか。
ああ、なんまいだぶ。なんまいだぶ。
さておき。
後半はガラッと雰囲気が変わりまして、素材や見た目の豪華さよりも服そのもののかたちのよろしさに目を引かれる、シンプルなデザインのものが並んでおります。
高価な装飾や制作の手間をあえて誇示しない、シックな贅沢。デザイナー川久保玲氏の作品を集めたセクションでは、左側にはドレスやコートをまとったマネキンが並び,右側の壁にはその服を平面に広げて撮影した、まるで立体の展開図のような写真が展示されております。
複雑な立体の展開図を想像すること---あるいは、展開図から、立体になった姿を想像すること---が難しいように、身につけられた服の姿から、着られる前のかたちを想像すること(あるいはその逆)は困難でございます。デザイナーの想像力の羽ばたきを感じさせる一室でございました。
最後のセクションでは、なんともユニークな作品が展示されております。
ドリンクの王冠やトランプを加工して作られたベストに、クリスマス飾りの金モールで作られたドレス。素材はごくチープなもの、もっと言えば廃品でございますが、デザイナーが感性と手間とを注ぎ込んで作った,まぎれもない「一点もの」でございます。
廃品で作られた衣服が「ラグジュアリー」と題された展覧会のもと、美術館のアクリルケースの中に鎮座している。
『メテオール(気象)』のアレクサンドル叔父さんなら、これを見て何と言ったかしらん。6都市の家庭ごみのかけらをベストのポケットに忍ばせて(いわく「ごみという聖遺物で身を飾り」)、愛用の仕込み杖を片手に街を闊歩する捕食者、いつも地球の自転と反対方向へ回る「ごみのダンディー」たる彼なら。
ともあれ、ここで鑑賞者は改めて問われるのでございます。「ラグジュアリー/贅沢」とは何なのか?私達の価値観、美意識のなかで、時とともに何が変わり,何が変わっていないのだろうか?
「ラグジュアリー/贅沢」は、生きて行くのに必要なものではございません。不必要であるからには、そこには大なり小なり、時間や物の浪費が含まれております。にもかかわらずラグジュアリーなものは所有者を陶酔せしめ,彼/彼女と価値観を同じくする人々にとっては、憧れをかき立てるのでございます。
あるいは浪費こそが、贅沢というもののキモであり、陶酔と憧れの対象なのかもしれません。
風呂桶の中で釣りをする男を指して「身を噛むような贅沢」と呼んだ人もおりましたっけ。*
浪費という言葉が悪ければ遊びと申してもよろしうございます。廃品を材料に、何時間もかけて作られた一着のベストは、王侯貴族がまとったドレスと違って、物質的には何ら贅沢なものではございませんが、遊びの精神という点では実に贅沢な一品でございます。
もちろん現代でも物質的に贅沢な服はございますし,そういうものばかりを展示してもよかったのだろうと思います。しかしあえてそうはせず(予算の都合かもしれませんが)「ラグジュアリー/贅沢」とは何だろうか,と考えさせる構成にしたあたり、美術館の心意気としてまことによろしいではございませんか。
* 「風呂桶の中で釣りをしている狂人というよく知られた物語がある。精神病の治療法に独自の見解をもっている医者が「かかるかね」とたずねたとき、気違いの方はきっぱりと答えた。「とんでもない、馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」。なんとも奇妙な話だが、不条理な効果が過度の論理性とどれほど結びついたものか、この話からはっきりと理解できる。じつを言えば,カフカの世界とは、何も出て来はしないと知りながら風呂桶で釣りをするという身を噛むような贅沢を人間が自分にさせている言語を絶した宇宙なのである。」 『シーシュポスの神話』 カミュ 清水徹 訳 新潮文庫 p.229-230
美術館のHPで会場内の様子が見られます。↑
ものは考えようとはよく申しますが、「贅沢」も捉えようでございます。
「ラグジュアリー/贅沢」って、何なんでございましょう。
モノの多さ?手間の多さ?犠牲の多さ?希少価値?あるいは単に、心地よさでございましょうか?
冒頭に飾られているいとも荘厳な上衣は、かのエリザベス一世に献上されたものということでございます。びっしりと刺繍の施された豪華な衣装。しかしそれは果たして、イングランドを治める女王にとって「贅沢」なものであったのでございましょうか?
前半には18世紀から現代にいたる、まさしく贅を尽くした感のあるドレスやスーツが展示されております。
ロココ時代の王侯貴族のお召し物についで,19世紀のブルジョワさんたちが社交界でまとったであろうドレス,いい素材や職人の手間を惜しみなく注ぎ込んだ一点ものがずらりと。ロココの衣服はさすがと申しましょうか、男物も女物も絢爛・華麗でございます。濃い青とエンジのストライプ生地に白糸で刺繍をあしらったスーツなど、どこの王子様が着るのやらと思うほどに優美なものでございました。
もっとも、こういうものが本当に似合う人間がゴロゴロいたかというとそれはまた別の話でございますね。おおかた映画『アマデウス』に見られるような出っ腹のおっちゃんたちが着ていたのかなぁと、想像すると若干げんなりでございます。
近~現代ものでは、たった今空から舞い降りたかのように軽やかでダイナミックな動きを見せるヴィクター&ロルフのドレスが印象的でございました。
ちなみにのろは数年前に彼らをキュレーターに迎えて開催された『COLORS ファッションと色彩』展を見て、ファッションという分野に対する考えを変えたものでございます。長らく、ファッションショーで披露されるような---というよりファッションショーでしか着られないような---奇抜なデザインの衣服について、何でこんなもの作るんじゃろうと思っていたのでございましたが、あれは衣服という媒体を介した一種の表現活動なんでございますね。
たぶん。
バルビエやエルテのイラストレーションそのままのアール・デコの香り漂うドレスや、全身これ金ぴかのドレスも面白うございましたが、何と言っても驚いたのは、玉虫の羽をあしらったドレスでございます。
ごく淡いクリーム色の生地の上,光を受けて青に緑に紫にと輝くさまはまさしく宝石のようでございます。
玉虫の羽はもともとインドでマハラジャの婚礼衣装などに使われていたとのこと。本展に展示されておりますのは植民地時代、イギリスの業者が西欧向けに輸出したもののひとつで、2着のドレスに約5千匹もの玉虫が使われているのだとか。業の深いドレスもあったもんでございます。もちろん業が深いと言えばあらゆる絹製品の影には、煮殺されたたくさんのお蚕様がいらっしゃるわけで。何でも絹の着物一着作るのに約2700のお蚕様が必要なのだとか。
ああ、なんまいだぶ。なんまいだぶ。
さておき。
後半はガラッと雰囲気が変わりまして、素材や見た目の豪華さよりも服そのもののかたちのよろしさに目を引かれる、シンプルなデザインのものが並んでおります。
高価な装飾や制作の手間をあえて誇示しない、シックな贅沢。デザイナー川久保玲氏の作品を集めたセクションでは、左側にはドレスやコートをまとったマネキンが並び,右側の壁にはその服を平面に広げて撮影した、まるで立体の展開図のような写真が展示されております。
複雑な立体の展開図を想像すること---あるいは、展開図から、立体になった姿を想像すること---が難しいように、身につけられた服の姿から、着られる前のかたちを想像すること(あるいはその逆)は困難でございます。デザイナーの想像力の羽ばたきを感じさせる一室でございました。
最後のセクションでは、なんともユニークな作品が展示されております。
ドリンクの王冠やトランプを加工して作られたベストに、クリスマス飾りの金モールで作られたドレス。素材はごくチープなもの、もっと言えば廃品でございますが、デザイナーが感性と手間とを注ぎ込んで作った,まぎれもない「一点もの」でございます。
廃品で作られた衣服が「ラグジュアリー」と題された展覧会のもと、美術館のアクリルケースの中に鎮座している。
『メテオール(気象)』のアレクサンドル叔父さんなら、これを見て何と言ったかしらん。6都市の家庭ごみのかけらをベストのポケットに忍ばせて(いわく「ごみという聖遺物で身を飾り」)、愛用の仕込み杖を片手に街を闊歩する捕食者、いつも地球の自転と反対方向へ回る「ごみのダンディー」たる彼なら。
ともあれ、ここで鑑賞者は改めて問われるのでございます。「ラグジュアリー/贅沢」とは何なのか?私達の価値観、美意識のなかで、時とともに何が変わり,何が変わっていないのだろうか?
「ラグジュアリー/贅沢」は、生きて行くのに必要なものではございません。不必要であるからには、そこには大なり小なり、時間や物の浪費が含まれております。にもかかわらずラグジュアリーなものは所有者を陶酔せしめ,彼/彼女と価値観を同じくする人々にとっては、憧れをかき立てるのでございます。
あるいは浪費こそが、贅沢というもののキモであり、陶酔と憧れの対象なのかもしれません。
風呂桶の中で釣りをする男を指して「身を噛むような贅沢」と呼んだ人もおりましたっけ。*
浪費という言葉が悪ければ遊びと申してもよろしうございます。廃品を材料に、何時間もかけて作られた一着のベストは、王侯貴族がまとったドレスと違って、物質的には何ら贅沢なものではございませんが、遊びの精神という点では実に贅沢な一品でございます。
もちろん現代でも物質的に贅沢な服はございますし,そういうものばかりを展示してもよかったのだろうと思います。しかしあえてそうはせず(予算の都合かもしれませんが)「ラグジュアリー/贅沢」とは何だろうか,と考えさせる構成にしたあたり、美術館の心意気としてまことによろしいではございませんか。
* 「風呂桶の中で釣りをしている狂人というよく知られた物語がある。精神病の治療法に独自の見解をもっている医者が「かかるかね」とたずねたとき、気違いの方はきっぱりと答えた。「とんでもない、馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」。なんとも奇妙な話だが、不条理な効果が過度の論理性とどれほど結びついたものか、この話からはっきりと理解できる。じつを言えば,カフカの世界とは、何も出て来はしないと知りながら風呂桶で釣りをするという身を噛むような贅沢を人間が自分にさせている言語を絶した宇宙なのである。」 『シーシュポスの神話』 カミュ 清水徹 訳 新潮文庫 p.229-230