昔の資料を探していたら、古いメモの束が出てきました。
紙が黄ばんでいるところを見ると、かなり昔にメモったもののようです。
リタイアしたばかりで、ヒマを持て余していた頃でしょうか。
自由とは何ものにも支配されないことである。
同時に、何ものをも支配しないことである。
なぜなら、何かを支配することは、支配したい欲望に支配されていることだから。
リタイア後の2年ほど、毎日のように図書館通いして、大量の本を読みました。
その頃に読んだ本からメモをしたのかもしれません。
あるいは本を読んで思いついたことを書いたか・・・どちらかは定かではなくなっています。
わたしはわたし、あなたはあなた。
あなたがいなければ、わたしはわたしではない。
わたしがいなければ、あなたはあなたではない。
わたし、わたしと書く言葉は、わたしが作った言葉ではない。
誰か知らない人が作った言葉で分かり合えるのはなぜなのか。
これも自分が書いたものか、他人が書いたものをメモしたのか・・・。
どちらにしても、共有できるものは「言葉」ではなく、「考え」なのかもしれません。
以下は、たぶん、本からメモしたもの。
科学を生んだ西欧では、日常語がそのまま学術用語になる。
日本では翻訳されるため、日常語と学術用語が乖離する。
すなわち、日常語で次々と事柄を関連づけて推論することができない。
それが日本人の独創性の無さの一因か。
このあたり、日本の大学ランキングの凋落傾向ともつながっているのかも。
次のメモもありました。科学哲学の本を読んだ時期のものでしょう。
西欧の科学は、もともと神の存在を証明するための手段。
自然法則は神の作ったものと考える神学者たちが、自然の振る舞いとキリスト教解釈をすり合わせてきた。
そこから科学が独立した。
なるほど。日本だと、幸福の科学、なんて形で宗教と科学がドッキングするけれど。
いま、しきりに思うことは、人は自分が自然現象であることを忘れているということ。