モノレール旭橋駅から南西へ徒歩約3分の場所(国道390号線、サンシャイン通り、那覇市東町11)に、那覇市跡(ナーファヌマチアト)の説明板が設置されています。沖縄県下最大の公設市場跡です。現在は、牧志に、肉・魚を中心とした牧志第一公設市場、及び雑貨部、衣料部が置かれています。
参照(第一牧志公設市場 公式サイト http://kousetsu-ichiba.com/)
01-0607 那覇市跡
02-0607 那覇市跡
03-0607 那覇市跡
04-0607 那覇市跡
05-0607 那覇市跡
06-0607 那覇市跡
「那覇市跡(ナーファヌマチアト)那覇市東町11-18地先…この地にあった公設民営の市場跡。『東市場(ひがしマチ)』、また、沖縄県下最大の市場であったため『大市(ウフマチ)』とも呼ばれた。 市場の創設については不明だが、15世紀以降、唐(とう、中国)や南蛮(なんばん、東南アジア諸国)、大和(やまと、日本)と交易を行っていた時代、『市は江辺(こうへん)にあり。南蛮・日本国・中原(中国)の商船来り互市(ごいち)す』〔『李朝実録(りちょうじつろく)』世祖八年条(1463年)〕とあり、港町那覇(なは)の市場のことが記されている。 中国の冊封使(さっぽうし)の記録には、『午後になると、大勢の婦人が頭に物を載せて集まって来て、地面に筵(むしろ)を敷いて列(なら)んで座って商売する。その商品は、油・野菜などで、豆腐と芋が最も多い。』(汪楫、おうしゅう、『使琉球雑録(しりゅうきゅうざつろく)』1683年)とあり、冊封使一行の宿泊所である『天使館(てんしかん)』前の空き地一帯で、野菜・芋・雑貨などの市が開かれていたことが分かる。1782年、東村(ひがしむら、現那覇市東町)の海岸沿いに新たに道路が造られ、『東下(ひがしさが)い』と称し、そこに魚市場ができたという。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、東村・西村(にしむら、現那覇市西)には、他府県からの移入品や米穀・金物・呉服などを専門に扱う本土からの寄留商人(きりゅうしょうにん)の店が軒を連ねたが、野菜などの日常品は、旧天使館(後の那覇市役所)前の市場で売買された。野菜市(ヤーセーマチ)・布市(ヌヌマチ)、雑貨を販売する据笥市(イシゲーマチ)があり、売り手は大きな傘を広げ、その下に品物を並べて販売した。旧天使館の北側には、壺屋市(チブヤマチ)・肉市(シシマチ)があった。 1913年(大正2)2月11日の東町の大火による焼跡整理後、那覇区(1921年に市に昇格)は、1918年(大正7)に魚市があった東下いに、新たに敷地を確保し、布市を除く各市場を移設し、小間ごとに使用料を徴収した。市場は、魚・肉・米・乾物等を販売する区域と、野菜・芋・雑貨を販売する区域に分かれていた。 市場は、午前8時頃から準備と仕入れが行われ、一般の人々の買い物は、午後4時頃が一番賑わったといい、夕方には、松明(たいまつ)が焚(た)かれ、午後8時頃に店仕舞いとなった。生鮮品以外は、売り台として使った箱に収め、市場近くの屋敷にお金を払って預けた。売れ残った生鮮品は、持ち帰り水炊きして、近所に安くで売られたという。 1944年(昭和19)10月10日の空襲や、その後の地上戦により、市場は開かれなくなった。終戦後、市場があった東町や那覇の中心地は、米軍により立ち入り禁止区域となっていた。1945年(昭和20)11月10日、那覇復興のための先発隊は、那覇の街外れにあたる壺屋に入り、日用雑器の生産を始めた。これ以降、壺屋・牧志(まきし)一帯を中心に戦後那覇の復興が始まった。1947年(昭和22)、開南(かいなん)から牧志にいたる坂道に、米軍の横流し物資を中心としたヤミ市が発生し、那覇市はこれを取り締まるため、市役所庁舎があったガーブ川沿いに市場を開設した。戦後の那覇の公設市場の誕生であった。 現在、肉・魚を中心とした牧志第一公設市場及び雑貨部、衣料部が置かれている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」
07-0607 那覇市跡
08-0607 那覇市跡
09-0607 那覇市跡
10-0607 那覇市跡
11-0607 那覇市跡
12-0607 那覇市跡
13-0607 那覇市跡
14-0607 那覇市跡
15-0607 那覇市跡
16-0607 那覇市跡
17-0607 那覇市跡
18-0607 那覇市跡
19-0607 那覇市跡
国道58号線「泉崎」交差点、泉崎橋近く(那覇市久茂地1丁目)に、「那覇役所跡」の説明板が設置されています。旧那覇の行政を担った役所跡です。
20-0413 「泉崎」交差点
21-0413 「泉崎」交差点
22-0607 那覇役所跡
23-0607 那覇役所跡
24-0607 那覇役所跡
25-0607 那覇役所跡
「那覇役所跡(ナハヤクショアト)那覇市久茂地1丁目泉崎橋付近…旧那覇の行政を担った役所跡。 琉球王国時代、港町として発展した那覇は、『那覇四町(ナハユマチ)』とも呼ばれ、東村(ひがしむら)・西村(にしむら)・若狭町村(わかさまちむら)・泉崎村(いずみざきむら)の4つの村からなっていた。各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世(おやみせ)があった。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、旧那覇里主所(なはさとぬししょ、現東町郵便局近辺)に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村(くめむら、久茂地村含む)・泊村(とまりむら)の行政も併せて管轄した。翌年、親見世役所は那覇役所に改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、『里主所前御余地(さとぬしじょメーヌグユチ)』と呼ばれる、久茂地川沿いの材木等の荷物置き場(敷場、しきば)に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。当時の役人は、机・椅子に、欹髻(カタカシラ)・大帯(ウフウービ)の琉装姿で、事務を行っていたという。 1893年(明治26)頃、那覇役所は、東村の旧天使館(てんしかん)跡(現那覇市東町、那覇医師会館一帯)に移転し、1944年(昭和19)10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。 この間、1896年(明治19)に首里(しゅり)とともに区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日には、首里区とともに、市制が施行された。1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一(たけだごいち)の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。 那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初めて発行された新聞『琉球新報』(1893年9月15日創刊)の印刷工場として、1903年(明治36)から1937年(昭和12)まで使用された。 終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線(現国道58号線)として整備された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」
26-0607 泉崎交差点周辺
27-0607 西消防署通り
28-0607 久米大通り
29-0607 国道58号線北向け
30-0607 国道58号線南向け
31-0607 現在の那覇市役所方面
32-0417 現在の那覇市役所
33-0417 現在の那覇市役所
34-0417 現在の那覇市役所
35-0417 現在の那覇市役所
参照(那覇市 いい暮らしより 楽しい暮らしを 那覇市 Naha City http://www.city.naha.okinawa.jp/)
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