北中城村字安谷屋の「若松公園」を訪ねました。北中城村荻堂方面から、県道146号線を西方向に行くと、県道81号線にぶつかります。その手前、右手丘の上に、「若松公園」があります。階段を上っていくと、途中に、「邊土大主之墓」がありました。公園の左手に方面は、土砂崩れなのか、「通行禁止」になっていました(5月23日)。園内は広く、「若松の墓」がどこにあるのか見当がつかないので、公園管理室に行き、場所を尋ねると、警備の男性が、「遊具にそって右方向にどんどん行くと階段がある。その階段を上った所に若松の墓がある。道が滑りやすいので、気を付けてください」と、話してくれました。雨あがりの芝生道を、滑らないようにしながら歩き、ゆっくり階段を上ると、「若松の墓」にたどり着きました。小雨がぱらついてきたので、今回は、「若松の墓」の訪問だけにしました。
01-0523 邊土大主之墓
02-0523 拝所
03-0523 若松公園
04-0523 若松公園
05-0523 遊具
06-0523 遊具
07-0523 遊具
08-0523 中城若松の墓へ
09-0523 中城若松の墓
10-0523 中城若松の墓
11-0523 中城若松の墓
12-0523 中城若松の墓
13-0523 中城若松の墓
14-0523 中城若松の墓
15-0523 中城若松の墓
16-0523 中城若松の墓
17-0523 中城若松の墓
「中城若松の墓…若松は、中城若松とも安谷屋の若松とも称され、『おもろさうし』にもあっぱれな少年として謡われている。玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)作・組踊『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』(1719年)でも主人公のモチーフとなった人物とされている。若松は、尚円王(金丸)と安谷屋ノロとの間に生まれたとの伝承もあり、長じて安谷屋城主になり、のち首里に上り、上間村(現在の那覇市上間)の地頭職に就き、『章氏』の始祖となったといわれる。死後、安谷屋のこの地(通称ユナハン岳)に葬られたと伝えられる。 若松に関する歴史的伝承だけでなく墓所の周辺には、安谷屋発祥の地とされる安里原(通称)に若松の屋敷跡や火の神(移設)があり、その隣には安谷屋のグスク、墓の裏には若松の妻と母親の墓もあって、この地は、若松の実在を示す由緒ある場所となっている。岩上に塔型(上に宝珠)のセメント製の祠が設置され、現在、それが墓として拝されている(香炉の後ろを墓とする見方もある)。 1982年(昭和57)年3月18日指定 北中城村教育委員会」
18-0523 中城若松の墓
19-0523 執心鐘入の想像図
20-0523 若松の墓周辺地図
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