那覇市泉崎1丁目 バス停「旭橋」付近に、「松田橋跡」があります。松田通信氏が久茂地川の中州を埋め立てて造成した「仲毛」と対岸の泉崎を結ぶため、久茂地川に架けられた橋跡です。
01-0706 那覇バスターミナル
02-0706 旭橋バス停
03-0706 旭橋バス停
04-0706 旭橋駅
05-0706 松田橋跡
06-0706 松田橋跡
07-0706 松田橋跡
08-0706 松田橋跡
09-0706 松田橋跡
10-0706 松田橋跡
「松田橋跡(マツダバシアト)那覇市泉崎1丁目 バス停「旭橋」付近…久茂地川(くもじがわ)に架けられた橋跡。仲毛(なかもう、現那覇市東町の一部)と対岸の泉崎(いずみざき)を結んだ。 仲毛は、この一帯に広がっていた久茂地川の中州のことで、1884年(明治17)頃、第百五十二国立銀行副頭取の松田通信(まつだみちのぶ)氏によって埋め立てられ、埋立地の地名にもなった。 埋立後、木橋が架けられたが、1888年(明治21)1月、松田氏によって石橋に改められ、これに因んで、松田橋と命名された。 1917年(大正6)、電車軌道敷設の道路拡張により、橋は取り壊され、改めて木橋(橋脚はコンクリート製)が架けられた。橋の長ょさは約16m、幅5m余であった。 1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲により、橋は橋脚を残して焼失した。戦後、木橋が架けられたが、1970年(昭和45)頃、久茂地川の護岸整備により、橋は撤去された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」
11-0706 久茂地川
12-0706 久茂地川
かつて「那覇」は、大小の小島からなる「浮島」でした。久茂地川が漫湖に合流する河口の中州は「仲島」と呼ばれ、その後、埋立により陸続きとなった地域です。旧那覇一帯は、埋立によりしだいに陸地・住宅地部分を増やしていったのです。
13-0514 仲島小堀跡
「仲島小堀跡(ナカシマグムイアト) 那覇市泉崎1-9…この地にあった人工の溜(た)め池跡。 かつてこの一帯は、久茂地川(くもじがわ)が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積した中州は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村(いずみざきむら)在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀、クムイ)とした。小堀は王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記、なんとうふどき』)。 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに遊郭(ゆうかく)が開かれた(仲島遊郭)。歌人として有名な遊女(ゆうじょ)「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。また、泉崎村から仲島遊郭へは小矼(こばし、仲島小矼)が架けられており、遊郭への出入り口であった。仲島遊郭は1908年(明治41)に辻遊郭に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。 遊郭廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」
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