南城市の通称「つきしろの街」にある、「佐敷ようどれ」を訪ねました。県道86号線を「親慶原」から「百名方面」に向かい、「垣花」の標識から左折し、「つきしろの街」方面に向かいます。
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垣花で左折し、「つきしろの街」へ
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「佐敷ようどれ」は、「航空自衛隊知念分屯基地」内にあります。基地入口で参拝したい旨を伝え、手続き(住所・氏名等を記入)をすると、基地内に入り、参拝することができます。体育館向かいに、小高い丘があり、その背後にあり、誘導してきた隊員の監視の下で、参拝することになります。
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体育館(右)と「佐敷ようどれ」のある丘(左)
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「航空自衛隊知念分屯基地」入口
「佐敷ようどれ」には、琉球王国第一尚氏、尚巴志の父である思紹(ししょう)とその家族が葬られていると伝えられており、「『ようどれ』とは夕凪(ゆうなぎ)を指す琉球語と伝えられていますが、極楽を意味するともいわれます。
参照(佐敷ようどれ[ 佐敷=さしき。「ようどれ」] 南城市公式Webサイト
http://www.city.nanjo.okinawa.jp/about-nanjo/movie_ja/2012/02/post-51.html)
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「県指定史跡 佐敷ようどれ 昭和33年1月17日指定…この墓は『佐敷ようどれ』と呼ばれ、尚巴志の父である思紹(ししょう)とその家族が葬られていると伝えられています。尚巴志は1402年に父思紹のあとを継いで佐敷按司(あんじ)となり、やがて中山王となりました。その後1422年に北山を、1429年に南山を滅ぼして三山を統一した人です。佐敷ようどれははじめ、佐敷城(ぐすく)近くの崖下にありましたが、風雨による損壊がめだったので、1764年(乾隆二十九年)にこの地に移葬されたものです。この墓は琉球石灰岩を用いて建造され、半円形の屋根をもった駕籠(かご)型の独特の形をしています。間口(まぐち)3.3m、奥行(おくゆき)2.6m、軒高(のきだか)2.1mとなっています。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。沖縄県教育委員会 佐敷町教育委員会」
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「南城市字つきしろ」が誕生
「南城市佐敷字佐敷、玉城字垣花、知念字志喜屋の3字にまたがる通称「つきしろの街」を、字として新設する案が市議会9月定例会で可決され、平成25年4月1日より「南城市字つきしろ」が誕生することになりました。これにより、字佐敷、字垣花、字志喜屋の一部が字つきしろに変更となります。 - See more at: http://www.city.nanjo.okinawa.jp/about-nanjo/news/2012/11/post-144.html#sthash.XqAYB7pj.dpuf」
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