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礎石のある殿舎跡「二の曲輪」、瓦ぶきの建物「一の曲輪」…「世界遺産・勝連城跡」2014-(2)

2014-07-04 | 歴史

 勝連城跡二の曲輪 には、城の中でもっとも重要な建物であったと考えられる、礎石のある大きな殿舎跡が発見されています。「ウミチムン火の神」「ウシヌジガマ」などもあります。「ウシヌジガマ」は、身を隠すだけの場所で、秘密の抜け道などに通じてはいなかったのでしょうか。このような場所では、すぐ捕らえられ、身を凌ぐことは難しいように思いました。

 最後の城主・阿麻和利は、対外貿易を活発に行い、勝連を繁栄させたといわれ、「おもろさうし」で、「勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ……」と謡われています。

01-0628 二の曲輪

02-0628 二の曲輪

03-0628 二の曲輪

「二の曲輪(くるわ)…二の曲輪では、正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡(でんしゃあと)が発見されました。この建物は城の中でもっとも重要な建物であったと考えられています。 礎石(そせき)のあるしっかりした建物で、屋根は板または草葺(くさぶ)きであったと考えられていますが、周辺からは大和系(やまとけい)瓦も発見されることから一部瓦葺きだった可能性もあります。 また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。この石積みは、建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。 また、二の曲輪の西側には地元で『火の神(ひぬかん)』と呼ばれている場所があります。」

04-0628 ウシヌジガマ

「ウシヌジガマ…二の曲輪の北西側の洞穴は『ウシヌジガマ』と呼ばれています。『ウシヌジ』とは、伝説では敵に攻められ、危険なときに身を凌ぐ場所という意味があります。」

05-0628 二の曲輪

06-0628 二の曲輪

07-0628 二の曲輪

08-0628 (ウミチムン火の神)

09-0628 ウシヌジガマ

10-0628 ウシヌジガマ

11-0628 ウシヌジガマ

12-0628 ウシヌジガマ

13-0628 階段

14-0628 城壁

15-0628 一の曲輪

16-0628 一の曲輪

17-0628 一の曲輪

18-0628 金属製品、瓦

19-0628 一の曲輪の概要

「一の曲輪(くるわ)の概要…一の曲輪は、1965(昭和40)年から数回にわたって発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。 岩盤(がんばん)をけずって平坦(へいたん)にするなど大がかりな土木工事を行い、瓦ぶきの建物があったことがわかっています。多くのグスクの中で瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ勝連城のほかには首里城、浦添城だけです。 出入口の門付近から唐草様(からくさよう)の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾(そうしょく)を施(ほどこ)した豪壮(ごうそう)なアーチ門であった可能性があります。」

20-0628 最期の城主 阿麻和利

「最後の城主 阿麻和利(あまわり)…北谷間切屋良(ちゃたんまぎりやら、嘉手納町)で生まれた阿麻和利は、すぐれた才能の持ち主で、勝連按司(あじ)に仕えました。領民の信頼を得た阿麻和利は、9代城主・茂知附(もちづき)にかわって城主となると、本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、この勝連を大いに繁栄(はんえい)させたと伝承(でんしょう)されています。 その様子を沖縄の古謡(こよう)『おもろさうし』に、次のように謡われています。

一 かつれんわ なおにきや たとえる やまとの かまくらに たとえる 又 きむたかは なおにきや (勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる 又 気高き勝連は、なんにたとえよう)

一 かつれんの あまわり とひやくさ ちよわれ 又 きむたかの あまわり 又 かつれんと にせて 又 きむたかと にせて (勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ、又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく 又 きむたかの名にふさわしく) 若くして勝連の按司となった阿麻和利は、1458年、宿敵護佐丸(ごさまる)を討ち、天下の統一を夢見たが王府軍に攻められて落城し、廃城になったといわれています。(護佐丸・阿麻和利の乱)」

21-0628 一の曲輪

22-0628 一の曲輪

23-0628 一の曲輪

24-0628 玉ノミウヂ御嶽

25-0628 玉ノミウヂ御嶽

26-0628 玉ノミウヂ御嶽

27-0628 三角点

28-0628 二の曲輪

29-0628 一の曲輪からの眺望

30-0628 海中道路

31-0628 海中道路

32-0628 浜比嘉島

33-0628 一の曲輪からの眺望

34-0628 一の曲輪からの眺望

35-0628 一の曲輪からの眺望

36-0628 南風原地区

37-0628 南風原地区

38-0628 南風原地区

39-0628 南風原地区

40-0628 城壁

41-0628 城壁

42-0628 勝連城跡

43-0628 南風原古島遺跡、浜川ガー、クトジ御嶽

44-0628 南風原古島遺跡、浜川ガー、クトジ御嶽

「南風原古島遺跡(はえばるふるじまいせき)…南風原御門(ハエバルウジョウ)から南東側に下る石畳道(イシダタミミチ)の南側に大きく展開するグスク時代の集落跡です。 1986年に大規模な宅地造成が計画された際にむ、発見されました。調査の結果、集落の石累遺構(せきるいいこう)が発掘され注目されました。また陶磁器類(とうじきるい)も多数出土しています。 同集落は、廃城後も18世紀前半まで存在しましたが、1726年に前浜親雲上(マエハマペーチン、カッチンバーマー)の活躍により、現在の場所に移動しました。」

「浜川ガー(ハンガーガー)…絶世の美女真鍋樽(マナンダルー)が頭髪を洗髪したことで有名な井戸(カー)です。真鍋樽は、勝連城7代目の城主浜川按司(はまかわあじ)の娘で、彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり、竿(さお)にかけて洗ったという言い伝えがあります。」

45-0628 クトジ御嶽

「クトジ御嶽(うたき)…クトジ御嶽は、『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』に勝連間切(かつれんまぎり)の拝所(はいしょ)として『コト瀬嶽神名(せたきしんみょう)マネヅカサノ御(お)イベ』と記録されています。旅果報(たびがほう)、航海安全(こうかいあんぜん)を願う拝所です。 中国から来た女性が、この御嶽の洞穴(どうけつ)で子供を出産したという言い伝えが残されています。 また、中国から品物を運んできた時は、まずはこの御嶽に置いてから城に運んだと伝えられています。」

46-0628 勝連城跡

47-0628 勝連城跡の立地

「勝連城跡の立地…城は、勝連半島(かつれんはんとう)のつけねに立地する標高60~100mの丘陵上(きゅうりょうじょう)に築かれています。 崖地形(がけちけい)が巧(たく)みに利用され、曲輪(くるわ)の配置は、北西側の一の曲輪から各平場(かくひらば)が階段状に低くなり、南東側の東の曲輪で再び高くなります。最も高い一の曲輪に上ると、北方向は金武湾(きんわん)を囲む北部の山々や太平洋の島々が望まれ、南方向は知念半島(ちねんはんとう)や中城湾(なかぐすくわん)、それを隔てて護佐丸(ごさまる)の居城である中城城が一望できる景勝地(けいしょうち)になっています。 城の南側はかつて南風原(はえばる)集落(南風原古島遺跡、はえばるふるじまいせき)が展開して、海岸には海外貿易の拠点となった港がありました。一方、城の北側は、かつては湿地帯(しっちたい)であり、城の財政をささえる水田などの農地が広がっていました。」

48-0628 Location of Katsuren-jo Site

49-0628 勝連城跡模型


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