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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

「シッタンガラガラ、アフィー・アフィー」…ケービン、那覇駅跡、軽便鉄道線路跡

2014-05-19 | 歴史

 ユイレール旭橋駅と「那覇バスターミナル」(那覇市泉崎)の間に、「那覇駅跡」があります。かつて、沖縄県には、線路幅762mmの軽便鉄道を敷設した、那覇~与那原線、那覇~嘉手納線、那覇~糸満線、那覇~那覇港線(貨物専用)があり、人や物の輸送に役だっていました。軽便鉄道は、「ケービン」の愛称で親しまれ、沿線地域の子どもたちは、「シッタンガラガラ、アフィー・アフィー」と、ケービンの姿や汽笛を真似て遊んだといわれます。

01-0514 旭橋駅

02-0514 旭橋駅

03-0514 那覇駅跡

04-0514 那覇駅跡

05-0514 那覇駅跡

06-0519 那覇バスターミナル

07-0519 那覇バスターミナル

08-0519 那覇バスターミナル

09-0519 那覇バスターミナル

10-0519 那覇駅跡

11-0519 那覇駅跡

12-0519 那覇駅跡

13-0519 那覇駅跡

「那覇駅跡(ナハエキアト)…沖縄における軽便(けいべん)鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。 日本の鉄道は、近代化への象徴として、明治新政府により推進され、1872年に始めて新橋~横浜間が開通した。沖縄県でも、本土から来た寄留商人(きりゅうしょうにん)を中心に、鉄道事業の計画が何度かなされたが、資金調達等で目途が付かず、計画中止が相次いだ。 通常の線路幅である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道設置を認め、建設費や維持費の抑制を図った『軽便鉄道法』(1910年)の成立を受け、沖縄県では、1913年(大正2)に線路幅762mmの軽便鉄道の敷設を決定した。 1914年(大正3)12月1日に、那覇と与那原(よなばる)を結ぶ与那原線(全長約9.8km)の操業が開始され、その後、1922年(大正11)に那覇~嘉手納(かでな)線(約23.6km)、1923年(大正12)に那覇~糸満(いとまん)線(約18.3km)が開業した。那覇港への引き込み線(約0.7km)も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は、『アギフィーグルマ』(陸火車:陸蒸気船)とも呼ばれたが、人々からは『ケービン』の愛称で親しまれた。 那覇駅は、与那原線開業時に整備され、線路増加とともに拡充された。赤瓦葺(あかがわらぶ)きの木造平屋建ての易者には売店もあり、隣接して鉄道管理所や交番が置かれた。構内には転車台・機関庫・石炭置き場、北端には職員住宅もあった。 車両は、蒸気機関車12両、ガソリン動車6両、客車51両あったといい、1930年(昭和5)に始めて導入されたガソリン動車では、快速運転も行われ、乗客から人気があったという。那覇からは、それぞれ30分(与那原)、60分(嘉手納)、50分(糸満)程で結ばれていた。普段は3両編成であったが、キビの収穫時期や盆・正月、波上祭(ナンミンサイ)の時期には、5~8両編成になったちいう。沿線地域の子どもたちは、『シッタンガラガラ』と音を立てて走る『ケービン』の姿や、『アフィー・アフィー』と聞こえる汽笛を真似て、遊んだという。 那覇駅は、1944年(昭和19)10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヵ月後には運行が再開され、沖縄守備隊の兵站(へいたん)輸送や、住民の本島北部への疎開に利用された。しかし、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され運休となった。 終戦後の1947年(昭和22)には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路の整備が優先された。さらに1950年(昭和25)の朝鮮戦争勃発による鋼材不足のため、スクラップ(くず鉄)ブームが起こり、車両やレールの残骸もスクラップとなった。 那覇駅周辺は、1953年(昭和28)から区画整理が始められ、1959年(昭和34)には那覇バスターミナルとなった。かつての那覇駅構内の北端に位置した仲島(なかしま)の大石(ウフイシ)は、ターミナル内の出入り口付近に遺されている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

14-0519戦前の那覇駅構内

15-0519 那覇駅跡

16-0519 沖縄県営鉄道及びバス路線図

 那覇市字国場、国道507号線、モスバーガー国場店向かいに「軽便鉄道線路跡」があります。前に訪ねたときは説明がなかったので、説明板設置を確かめ、再度訪ねました。沖縄の軽便鉄道は、通常より狭い線路を用い、建設費や維持費を抑えていることがわかります。「軽便鉄道線路跡」は、現在も、レンガ造りの橋脚の一部が残されている貴重な遺構です。

17-0514 モスバーガー国場店

18-0514 軽便鉄道線路跡

19-0514 軽便鉄道線路跡

20-0514 軽便鉄道線路跡

21-0514 軽便鉄道線路跡

「軽便鉄道線路跡(ケイベンテツドウセンロアト)那覇市国場地内…かつて、この地を走っていた軽便鉄道与那原(よなばる)線の線路跡。軽便鉄道は、正式には、沖縄県営鉄道、または沖縄県鉄道というが、人々からは『ケービン』の愛称で親しまれた。 軽便鉄道は、鉄道の建設費や維持費を抑制するため、通常の線路幅(軌道軌間)である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道をいい、沖縄の軽便鉄道は762mmの線路幅が用いられた。 1914年(大正3)12月1日に那覇(なは)と与那原を結ぶ与那原線が開通し、その後、1922年(大正11)に嘉手納(かでな)線、1923年(大正12)に糸満(いとまん)線が開業した。 与那原線は、全長約9.8Kmで、1904年(明治37)に竣工した那覇と馬天(ばてん、現南城市佐敷津波古、なんじょうしさしきつはこ)を結ぶ佐敷街道(現国道330号・507号・329号・331号の各一部)にほぼ沿う形で、敷設された。停車場は、那覇駅(現那覇市泉崎バスターミナル)から古波蔵(こはぐら)駅-真玉橋(まだんばし)駅-国場(こくば)駅-一日橋(いちにちばし)駅-南風原(はえばる)駅-宮平(みやひら)駅-大里(おおざと)駅の各駅を経由し、与那原駅を終点とした。 この地から東に350m程行った所に、スレート葺き平屋一棟の国場駅(現那覇市国場221番地一帯)があり、駅長以下6名が勤務し、構内には売店もあったという。糸満線が開業した1923年からは、国場駅を出てすぐの場所(現国JAおきなわ国場支店裏手場)から、与那原線と糸満線の線路が二手に分かれていた。 軽便鉄道は、1945年(昭和20)の沖縄戦により破壊され、戦後、再興されることなく今日に至っている。掲示板の下を通る水路には、現在もレンガ造りの橋脚の一部が残され、軽便鉄道の貴重な遺構となっている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

22-0514 軽便鉄道線路跡

23-0514 軽便鉄道線路跡

24-0514 軽便鉄道線路跡

25-0514 軽便鉄道線路跡

26-0514 軽便鉄道線路跡

 記事を整理しながら、前に与那原町「綱曳資料館」を訪ねた際、軽便鉄道関連資料が展示されていたことを思い出しました。

27-131228 軽便鉄道(与那原、綱曳資料館)

28-131228 軽便鉄道(与那原、綱曳資料館)


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