3月16日(日)恩納村谷茶の「沖縄科学技術大学院大学」で、「オープンキャンパス2014(科学×夢=ムゲンダイ!!~キミの夢が未来をかえていく!~)」が開催されました。開始時刻の10時前から、小中高の児童生徒や小さい子を連れた親子などで混んでいました。団体で見学に来た人もいました。…「講堂」で資料入りの袋をもらい、「エントランス」から「トンネルギャラリー」に入り、エレベーターに向かっている途中、「テレビの収録」をしている場面にぶつかりました。テレビでよく見かける魅川憲一郎がいます。隣人と話しながら、収録に気付き、「あっ!魅川憲一郎がいる。」といい、手をふっている人もいました。…「沖縄科学技術大学院大学」は、世界的な独自の研究をしている研究室が多く、セキュリティ対策で、大部分は「Staff Only」や「No Entry」ですが、第1研究棟、第2研究棟、センター棟のいくつかの研究室が一部を開放し、説明コーナーを設けていました。そこでは、小さい子やお年寄りにも分かるように、説明の工夫がなされていました。…… . . . 本文を読む
「名護のひんぷんガジュマル(平成9年国指定天然記念物)」は、名護の移り変わりを見てきた『市民の木』として、親しまれています。名護市城2丁目の「ガジュマル緑地」には、「ひんぷんガジュマル」の説明板や「徳田球一記念碑」「宮城輿徳」生誕百年を記念する会の説明板、「2000年九州・沖縄サミット記念写真」などがありました。周辺には、「悪いことはしません」「ここは神様のいる場所ですよ」など、コメント付き・キジムナーのイラストがあちこちに隠れていました。…… . . . 本文を読む
戦後沖縄の教育は、うるま市石川の「城前小学校」で始まり、同校には、「戦後教育発祥之地」の碑があります。うるま市田場には、「沖縄文教学校」「沖縄外国語学校」などが設立され、学校跡地に、「戦後高等教育発祥之地」の碑が建立されています。「沖縄文教学校」「沖縄外国語学校」は、「琉球大学」の開学により吸収されました。「田場小学校」は、「沖縄文教付属小学校」として創立し、その後、「田場初等学校」として独立しました。…… . . . 本文を読む
私たちの周りには、地域の歴史・文化を伝える、数多くの遺跡・史跡があります。「首里市跡」は、琉球王国時代から明治期にかけて、首里地域最大の市場で、かつては「町端」と呼ばれ、その後、「池端」と改称された場所にあります。近くには、「山城まんじゅう」もあります。…かつての「崎山馬場」に向かう一帯は、「崎山ギャラリー」と呼ばれ、芸術的な彫像が設置されています。…赤田町には、弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」が伝えられており、わらべ歌「赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)」として、親しまれています。…… . . . 本文を読む
うるま市与那城伊計の「仲原遺跡(なかばるいせき)」を訪ねました。同遺跡は、伊計島のほぼ中央に位置する、縄文時代晩期の遺跡で、学術的価値が高い遺跡として、国の史跡に指定されています。訪ねたときは、遺跡の環境整備工事中で、屋根の骨組み作成や、チガヤで屋根を葺く作業をしているところでした。近くには、復元作業に用いる材料が置かれていました。各住居址の説明板を読み、しばらくの間、縄文人の生活に思いをはせました。…… . . . 本文を読む
うるまし石川の「宮森小学校」を訪ねました。事務室で来校趣旨を説明し、教頭先生の許可を得て、校内に設置されている「仲よし地蔵」などを参拝し、撮影しました。…「ジェット機墜落事故」が起きたのは、小学校6年の時です。給食時間に、廊下にいた数人の生徒が、大声で、「アーッ、落ちる、落ちる」と叫んでいました。ジェット機が、城前小学校の校舎すれすれに飛び、隣の宮森小学校に落ちたのです。墜落直後に、ものすごい音とともに、炎が空高く上り、教科書で見た「原爆」のキノコ雲のようでした。… . . . 本文を読む
那覇市首里平良町は、もともとと西原間切平良町でしたが、首里に編入され、平良町となりました。かつては、浦添・西原などから首里へ来る人々に、「憧れの古都首里への玄関口」として親しまれていました。…… . . . 本文を読む
「オオゴマダラ」が那覇市の蝶に選定されたのを記念して、3月9日、午後1時30分から、那覇市首里公民館で、「記念式典・7講演会・放蝶・祝賀会」等が行われ、終了後、食草「ホウライカガミ」の無料配布がありました。アトラクションとして、城南小学校吹奏楽部による「吹奏楽(ひこうき雲・他)」があり、祝賀会では、かぎやで風節の踊りや松城太鼓の演舞(松城中学校)などがありました。 . . . 本文を読む
琉球王国時代、踊奉行として、「執心鐘入」「二童敵討」「女物狂」「孝行の巻」「銘苅子」などの組踊を創作した「玉城朝薫」生誕之地は、桃原2丁目から儀保2丁目の石畳道の間にありました。近くには、那覇市指定史跡の「加良川」があります。…琉球王国時代の三司官で、教訓的な琉歌を数多く残し、「君子親方」と称され、和文学にもすぐれ、沖縄三十六歌仙の一人に数えられている、「与那原良矩」の生家跡です。…琉球処分期の三司官で、処分反対運動のリーダーとして、抵抗の姿勢を崩さなかった「亀川盛武」の生家跡です。…… . . . 本文を読む
うるま市石川(旧石川市)は、戦後沖縄最初の市で、沖縄諮詢会設置、沖縄民政府スタート、戦後学校教育の発祥など、戦後沖縄は、石川の捕虜収容所から始まったといわれます。「世栄津森」には「闘牛場(ウシナー)」がありました。市内には、「映画館」や「劇場」もいくつかありました。「大衆芸能に貢献した舞天(ブーテン)」と「闘牛」は、終戦直後の石川市を象徴するものだといえます。…石川は「闘牛の里」として知られ、沖縄県で唯一のドーム型闘牛場「うるま市石川多目的ドーム」が建設され、年間を通して、各主催団体による闘牛大会が開催されています。…「多目的ドーム」の近くには、「石川地域活性化センター舞天館」があります。…… . . . 本文を読む
うるま市石川嘉手苅にある「嘉手苅観音堂」のお堂には、戦前まで『邦海済宏(沖縄をひろく救う)』の扁額が掲げられていたそうです。「嘉手苅ガー」は、「王様より賜ったカー」で、生活用水として使用され、ウブガーとしても崇められていました。「ぬちしぬじガマ」は、沖縄戦で、嘉手苅、伊波の住民約300人が避難し、全員が助かったガマとして知られています。…… . . . 本文を読む
那覇市首里には、数多くの遺跡・史跡があります。琉球王国時代、政治制度の整備とともに、宗教的な面から国王を支えるために、神女(ノロ)の組織を整備しました。その中心となったのが「聞得大君」です。「聞得大君御殿跡」の案内板は、「首里中学校」の正門わきにありました。… 「蔡温」は、琉球王国時代の著名な政治家です。中国留学後、尚敬王のもとで、三司官の一人として、農林業・治水などの殖産興業や行政制度の整備に貢献し、いくつかの著書を残しています。…… . . . 本文を読む
うるま市石川伊波には、「伊波貝塚」「伊波城跡」「伊波ヌール墓」などの遺跡や史跡があります。「伊波貝塚」は、南島の先史文化を考える上で欠かすことのできない遺跡で、国指定の史跡となっています。「伊波城跡」は、野面積でつくられた城で、未整備のままでしたが、今後の整備計画が作成されています。「伊波ヌール墓」の周辺には多くの古墓が点在しているので、バイパスを造る際、トンネルを通して、遺跡を保護しました。…… . . . 本文を読む
うるま市石川は、戦後、各地の難民(捕虜)収容所の中心で、戦後沖縄の「政治・経済・教育・文化」などの発祥地であり、「沖縄諮詢委員会堂跡」、「戦後教育発祥之地」碑、「東恩納博物館跡」などがあります。「うるま市立石川歴史民俗資料館」を訪ねると、各種史料や写真などを通して、終戦直後の石川の様子について知ることができます。…「東恩納博物館跡」は、「東恩納公民館」の近くにあり、その近くには、「金謝敷嶽嶽(カンジャシチウタキ)」「神下毛(カンサギモー)」「雲古御嶽(クモコウタキ)」などの拝所がありました。…… . . . 本文を読む
戦前、旧美里村の石川地区には、石川・伊波・嘉手苅・楚南・東恩納・山城の6字がありました。戦後、石川に造られた難民(捕虜)収容所を基盤として石川市が発足しました。その後、市町村合併を経て、うるま市石川となっています。… 「前ヌ川」の近くに、戦後沖縄の大衆娯楽に多大な貢献をした「小那覇舞天(本名・小那覇全孝)」の「小那覇歯科跡」があります。…川沿いの柵パイプを支えている石柱は、「ハイビスカス、サンダンカ、ムラサキカタバミ、ゴクラクチョウカ、ゲットウ、アロエ、デイゴ、ルリハコベ、オオタニワタリ」などの植物の絵で飾られていました。…… . . . 本文を読む