8年前の秋、母が体調をくずして入院した日から、
ほとんど毎日行っていることがあります。
それはお仏壇の前でお経を唱えること。
経典の中の『仏説阿弥陀経』というお経です。このお経は特に難しい節回しもなく、同じ調子で唱えればいいので、全くの素人にもわりと簡単なように思えるので、これに決めました。
自慢じゃありませんが、毎日のように唱えていたら、
いつの間にか覚えてしまって、経本を開かなくても唱えられるようになりました。
夜のひととき、およそ15分位をお仏壇の前で過ごします。
母の入院中は病気の快復を願い、それはもう必死で仏様におすがりしたものです。
もともとお仏壇に手を合わせるのは、ご先祖様のご冥福をお祈りするためであり、生きている者が自分の勝手で、色々とお願いするというのは、少し道に外れているのかもしれません。
が、苦しい時の神、イイエ、仏頼みということで、
毎日毎日その日の病院での出来事を思い出しながらお経を唱えました。
母の病気、何としてもこの私が治してみせる!
というような切羽詰った意気込みのようなものがありました。
そして母が亡くなってからは、読経をする気持ちも変わっていきました。
その日一日の事を母に報告しながら、母と語り合うような感じに・・・
母の事を思い出して、思わず涙しながら読経、なんていう日もありましたっけ・・・
でも、一通りお経を唱え終えると、気持ちもスッキリして
自分の中で、一日の締めくくりができたような気がするのです。
最近、またちょっと心配事ができ、仏様に是非ともお願いしたことがありますので、この頃はそのことばかり心に思って唱えています。
そして今日も一日無事過ごさせて頂いたという感謝の気持ちも忘れないように・・・
読経というこの習慣、きっとこれから先も私が生きている限り、
環境が許す限り、ずっと続けていくだろうと思っています。
ほとんど毎日行っていることがあります。
それはお仏壇の前でお経を唱えること。
経典の中の『仏説阿弥陀経』というお経です。このお経は特に難しい節回しもなく、同じ調子で唱えればいいので、全くの素人にもわりと簡単なように思えるので、これに決めました。
自慢じゃありませんが、毎日のように唱えていたら、
いつの間にか覚えてしまって、経本を開かなくても唱えられるようになりました。
夜のひととき、およそ15分位をお仏壇の前で過ごします。
母の入院中は病気の快復を願い、それはもう必死で仏様におすがりしたものです。
もともとお仏壇に手を合わせるのは、ご先祖様のご冥福をお祈りするためであり、生きている者が自分の勝手で、色々とお願いするというのは、少し道に外れているのかもしれません。
が、苦しい時の神、イイエ、仏頼みということで、
毎日毎日その日の病院での出来事を思い出しながらお経を唱えました。
母の病気、何としてもこの私が治してみせる!
というような切羽詰った意気込みのようなものがありました。
そして母が亡くなってからは、読経をする気持ちも変わっていきました。
その日一日の事を母に報告しながら、母と語り合うような感じに・・・
母の事を思い出して、思わず涙しながら読経、なんていう日もありましたっけ・・・
でも、一通りお経を唱え終えると、気持ちもスッキリして
自分の中で、一日の締めくくりができたような気がするのです。
最近、またちょっと心配事ができ、仏様に是非ともお願いしたことがありますので、この頃はそのことばかり心に思って唱えています。
そして今日も一日無事過ごさせて頂いたという感謝の気持ちも忘れないように・・・
読経というこの習慣、きっとこれから先も私が生きている限り、
環境が許す限り、ずっと続けていくだろうと思っています。
与えられるとか、聞いたことがあります。
でも、不幸の方が多いように思えます。
それは幸せな時より不幸になった時の方が
心に深く感じるからでしょうね。
楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、
と思ってお互い頑張りましょう!
毎日、仏様に手を合わすことさえできかねている私です。きっときっと、心配事がうまく運べますように・・・