奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)- 1972年(昭和47年))は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖と言われる。
1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現甲賀市)に生まれる。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し、菓子の製造販売業を始めた。
1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社。
1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役した。
1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、奥村綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には45歳の若さで第3代社長に就任した。
証券取引法に基づく証券業者として登録。1951年(昭和26年)に連合国との交渉の末、証券投資信託法を実現させ、委託会社の免許を受ける事に成功し、財閥指定を受けた「野村」の社名を守った。
1959年(昭和34年)に社長の座を瀬川美能留に譲り、会長に就任し、1968年(昭和43年)に相談役に退いた。
その他には東京証券取引所理事、経済団体連合会外資問題委員会委員長、ボーイスカウト日本連盟理事長なども務めた。石坂経団連会長と共に資本自由化促進の旗振り役を務めた。1972年(昭和47年)11月7日死去、享年69。
語録
「ダイヤモンドは、中央の面をかこみ、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまたかくありたい。一人の独裁でもいけないし、悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であって、個あっての全ではない」