中島 伸男(東近江戦争遺跡の会) <滋賀報知新聞掲載>
昭和20年7月24日午前11時20分、工場で左腕に大怪我を受けた一人の勤労学徒動員の少年が自宅でひっそりと息をひきとった。八日市国民学校高等科2年生(現・中学校2年生に該当)松村忠五郎少年(13歳、旧八日市町大字川合寺)である。
当日は早朝から米艦載機グラマン十数機が八日市町上空に来襲、陸軍八日市飛行場の施設などに猛烈なロケット弾攻撃を加えていた。
心臓・腎臓などに余病を併発したのが死因とされるが、学徒動員で岡崎産業工場に出動、機械に左腕を巻き込まれた事故が引き金となった。
太平洋戦争末期、青壮年層男性のほとんどは兵士として太平洋・中国各地の激戦地に送られ、あるいは本土決戦にそなえその任についていた。
国内の諸工場は、政府指示により平和産業から軍需工場へと変貌していた。働き手の不足は、学業中の少年・少女で埋めることになり、学校から各地の工場へと駆り出された。昭和13年に成立した「国家総動員法」をもとに、国民勤労動員令・勤労学徒動員令などが次々と施行されたのである。昭和20年5月には「戦時教育令」が発令され、国民学校初等科(現・小学校6年生まで)以上の授業は中止になり、12歳以上の少年・少女は軍需工場に「産業戦士」として送り出されることになった(勤労学徒動員令)。
当時、八日市国民学校高等科2年生の松村忠五郎少年も、そのような勤労学徒の一人であった。彼は、昭和20年4月6日に結成されたばかりの八日市国民学校学徒隊第8中隊の一員として、学業をすて岡崎産業工場(元・岡崎製織場、旧・八日市町大字金屋)で働くことになった。十分な訓練もなく6月15日には、はやくも単独操作を行うことになり鍛造班長を命ぜられた。いまでいえば、中学校2年生になったばかりである。
鍛造班長としての事故は、その5日後の20日早朝に起こった。
忠五郎少年はパワープレスの機械操作を担当していたが、始業間もなく、操作機械の圧縮部に左手を挟まれてしまったのである。
事故と聞いて駆けつけた先生に忠五郎少年が発したのは、「申し訳ありません」「ぼく、軍人になれますか。少年飛行兵に行けますか」という言葉であったという。軍需品生産のための大切な機械の作動を止めてしまった「申し訳ありません」という謝罪、そして彼が夢として描いていた少年飛行兵という前途への心配が、まず忠五郎少年の口から出てきたのであった。
忠五郎少年の左腕は、圧縮機械に挟まれたままの状態がつづいた。現場に機械操作のできる工員がいなかったのである。数時間後、ようやく近くの医院に運ばれ、戦時下、十分な医療体制・医薬品もないなかで可能な手当を受けた。
都会の大病院へ緊急搬送するなどの措置も不可能な状態で当日帰宅。忠五郎少年は押しつぶされた左手を抱えたまま、なす術もなく自宅療養を続けるほかなった。当時の診断では左腕の「挫滅創」とされている。
忠五郎少年の左腕は腐敗をはじめ、それは全身症状としてひろがる。父の元吉さん、母のたねさん、そして忠五郎少年より一歳年上でとくに仲の良かった静子さん。家族は苦しむ忠五郎少年を目の前にして、応急的な対応をするほかに術がなかった。
忠五郎少年は、ついに心臓・腎臓に余病を発症した。
少年が息を引き取ったその日は、紀伊半島沖の航空母艦から発進したグラマンF6Fの編隊が、はじめて陸軍八日市飛行場を襲った日でもあった。早朝から爆音を轟かせ、町の中にもロケット弾数発を投下した。しかし、応戦する日本軍機は1機もなく、近隣の町・村民を口惜しがらせた。翌25日も早朝からグラマン13機の空襲があった。この日は当時、陸軍八日市飛行場に移駐していた飛行244戦隊10数機がグラマンとの猛烈な空中戦を展開した。
以後、本格的な米軍機の空襲が県下各地でひんぱんに展開され、ようやく忠五郎少年の葬儀が行われたのは、彼が息をひきとってから一週間後の7月30日であった。なんといっても、軍需品生産のために、わずか13歳の少年に困難な機械操作を押し付けた当時の戦時体制にすべての責任がある。