”スローライフ滋賀” 

【身近な昔探訪】第45回・東近江・御代参街道(栄町地区)にあったよろず店「市辺屋」

 
↑東近江・御代参街道(栄町地区)にあった日用雑貨店・よろず店の「市辺屋」

 日用雑貨店・よろず店の「市辺屋」は東近江・御代参街道(栄町地区)にあった。
現在は廃業し、建物はなくなり更地になっている。
 
 「市辺屋」は田舎の生活に必要な日用雑貨・よろず品を扱い、こんなものが今の時代まで保有しているのかと思うほど、細々した生活商品、古い物を扱い大変重宝されていた。しかし、今日においては生活様式も変わり長年需要が減っていたと思われる。
 恐らく平成20年代の近年まで営業していたと思われる。今となっては詳しいこの店の歴史は分からぬが100年は軽く超えていただろう。多分、「市辺屋」は御代参街道(栄町地区)で頑張って営業していた最後の老舗だったに違いない。
現在市内には荒松商店と川吉荒物店の荒物店しか残っていない。

↑「市辺屋」があった場所(現在は空き地)

コメント一覧

Unknown
歴史の一端
大正座と八日市シネマの跡地は住宅地になっているが、かなり長期間、建物は存在した。そこに忍び込む輩が多かったらしく、解体時、避妊具が大量に発見されたと聞く。こんなことを書くのはためらわれたが、歴史の一端は何時もこのようなものとも思えるので記しておこう。
Unknown
商売人の工夫が感じられた市辺屋
市辺屋というのは、面白い店だった。店主がボール紙に商品名などを書いて商品と一緒にぶら下げていた。商売人の工夫が感じられる印象の良い店だった。

市辺屋から南進少しで小路の角、つまり薬師寺(正確には地蔵堂)の対面には名前は失念したが魚屋があったが、閉店され、主人はカネトラフードセンターで刺し身などを作る仕事に就かれたと思う。建物はその後、読売新聞販売所になったと思う。小路を東進野々宮神社方面)すると、2軒の仏壇工房が並んであり、仏壇のお洗濯もされていたはず。新道角には麻原?酒店(屋号はひのや?)があり、この店にはツボイリがあった。他にツボイリはミヤキ酒店にあったと思う。ツボイリは「角打ち(かくうち)」のこと。

この角を右折して新道(しんみち)を少し南進すると、大正座(東映系)八日市シネマ(日活系、洋画系)の2館があった。北に100m戻ると一時期ビリヤード場(初音)もあったし、八日市地区は映画館4館を擁する娯楽充実の地であった。ビリヤード場は更に100m東進して金屋会館(関電跡、滋賀報知)にもあったと思う。後に金屋会館前が、s初代「飛び出し坊や」設置場所2箇所のうちの1ヶ所となった。社会福祉協議会に行けば写真が残っていると思う。

この付近には折箱(折詰の箱)の製造所などもあったし、うたや(西澤豆腐店)の豆腐は「食べやすい美味しさ」(有名ではないが毎日食べるのに美味しい豆腐)で、江戸屋のドジョウの蒲焼とともに、もう一度食したいものと思う。

豆腐の話では先年閉店した金屋3丁目の湯葉屋が人気だったが、栄町、薬師寺の裏の方の細い道沿いにあった伊藤屋も美味しかったと思う。店売りもあったが、午後になると、主人が自転車に乗って、あのラッパを鳴らしながら売り歩くのである。ただし、その自転車は結構な速さで、ラッパの音を聞いてから、買いに出ても、すでに彼方に背中を見るだけである。ではいかにして買うかというと、玄関に白旗を掲げておくのである。昔は祝祭日に日章旗を掲げることも多かったため、各家の玄関にはブリキの旗差がつけてあることが多かった。それで、ハンカチなどで白旗を自作し差しておくと、豆腐が買えるのである。京都などにもこういう習慣があると聞く。

さて、市辺屋に戻って、北進すると、栄町北口近く、井村茶屋の南に1軒の旅館(名前は記さないが、その名前のヒントは金屋大通りによく似た名前の麺屋があった)があったが、昭和時代に火事で全焼した。更に近くに行き止まりの小路があってホルモン屋など怪しい雰囲気が漂っていた。反対側の木戸をくぐると前田珠算塾が子どもたちを集めていた。

栄町で記しておかねばならないのは北のドンツキは親玉、お正月のお餅などをついてくれるし、いが饅頭が美味しかった。この店は親戚関係などで滋賀県中に親玉を名乗る店が点在している。大津、能登川、八日市、長浜など。パソコン通信、湖鮎ネットの投稿を編集した「親玉の謎」という冊子がある。長浜図書館あたりにはあると思う。

八日市で正月のお餅をついてくれる店はいくつかあったと思うが、個人的には、この親玉の他、金屋3丁目(先述の湯葉屋とは一筋西の道)にあったのを覚えている。

なお、住居表示に関する法律が昭和37年5月に交付、即日施行されるまでは、金屋〇〇○番地であり、○丁目はなかったことは、しっかり確認しておきたい。例えば、現市長は○○から小学校高学年のときに上ノ町(北小学校区)に転入していると思われるが、その近所の同学年の人たちは南小学校に通っていたと思われる。なぜなら、入学時そこは東本町だったからだ。これは神崎郡川合寺村?の一部が東本町だったが、蒲生神埼郡境はハート食堂の交差点と一致していなかったので、住居表示法前は元の郡境で区域分けされていたところ、法律施行でメイン道路に合わせて区域が移されたためである。
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