近江牛、近江八景、びわ湖ホール、びわ湖浜大津駅-。県内の名所、名産品や、さまざまな施設名には「近江」「びわ湖」が使われることが多い。また、江州音頭にある「江州」(ごうしゅう)、琵琶湖に因んだ「淡海」(おうみ)もある。
県議会でも「近江県に改称しよう」という提案までされた滋賀県。
多くの県では県庁所在地の市の名前が県名になっているが、滋賀県に「滋賀市」はない。
■最初は「大津県」
どうして県名と県庁所在地の名前が違うのか。県政史料室の職員・大月英雄さんに話を聞くと、「県庁所在地の名前を県名にするという原則は変わっていない」と、意外な答えが返ってきた。どういうことだろうか。
江戸時代、当時の近江国は、膳所藩や彦根藩、大溝藩のほか多数の小藩や飛び地があり、幕府直轄領(天領)もあるなど、多数の領主が入り交じっていた。天領は、幕府の代官がいる大津代官所が管理していた。
明治維新が起きると、近江国内では新政府が旧天領の支配を開始した。新政府は1868年、大津代官所に代わる行政機構として大津裁判所を設置。まもなく「大津県」と改称された。県庁舎は現在の浜大津にある代官屋敷をそのまま使った。だから、この所在地の名を取って「大津県」と命名された。
■郡名を取り提案
その後、1871年には廃藩置県が行われ、近江国内は南部の大津県、北部の長浜県に統合された。同年、新たな大津県令(現在の県知事)として官僚の松田道之が赴任した。
松田道之は着任して間もなく、「県名に大津代官所という幕府の名称を残したままでは、文明開化を進めることができない」として、大津県の名称変更を大蔵省(現・財務省)に要請。この時に、松田道之が示した改名案が「滋賀県」であり、これが認められ、翌1872年1月19日、大津県は滋賀県に改称された。同年、長浜県が犬上県に改称され、さらに滋賀県に合併。現在の滋賀県が誕生した。
それではなぜ、松田道之は滋賀県という名称を提案したのだろうか。
明治維新の頃、当時の近江国は、滋賀郡や甲賀郡、犬上郡など12の郡に分かれていた。「滋賀郡」は、現在の大津市の瀬田川以西とほぼ一致する領域にあたり、松田道之が着任した頃には、県庁は滋賀郡別所村にある三井寺円満院(現・大津市園城寺町)に移転していた。だから、松田は県庁所在地の名前を取って「滋賀県」と提案したということだ。
因みに、「シガ」は「石が多い場所」を意味するとの説が有力で、当て字の一つとして「滋賀」の漢字が使われたという。
■「近江」になじみ
なるほど。県庁所在地の名前を県名にするという原則は、確かに守られていた。それではなぜ、「近江」という呼称が、これだけなじみ深い名前として残っているのだろうか。
「滋賀県というのは、あくまで行政機構の名前なんです」と、大月さんは語る。地名としては昭和初期ごろまで「近江国」が使われ続けた(徐々に地名としても「滋賀県」が浸透した)という。
というのも、江戸時代の藩の名前も、地名を表現するものではなかった。藩の領地は細かく分かれ、飛び地があったり、同じ村でも複数の藩の領地に分かれていたりした。そのため、地名を表す言葉としては、国や郡、村が使われていたため、藩が県に代わっても、言い方は変わらなかったのだろうという。
地名として「近江」を使っていたのなら、「滋賀牛」ではなく「近江牛」なのも、納得だ。文明開化の象徴「滋賀」と、なじみ深い地名「近江」。どちらにも、愛着が深まった。
<中日新聞より>