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【身近な昔探訪】第54回・八日市金屋通り(旧八風街道)にあった時計製造ルーツの「灰谷平章堂」

 
↑今も店舗だけ残る「平章堂」
 
 旧八日市市金屋通り(旧八風街道)の旧湖東信用金庫本店の右隣に老舗の「灰谷平章堂」があった。

灰谷平章堂」は元々時計店であったが昭和40年代当時、市内ではLPレコードを置くレコード店を兼ねていた。クラシックのLPレコードは数多くの種類は置いていなかったが何度か買ったことがある。いつ頃まで存在したか不正確だが1970年代までは存在していたのではないかと思う。今も建物は残るがその面影はない。
平章堂は元々、明治24年(1891年)に中野村で創業しており、いつ金屋通りに移ったかは不明である。
 
灰谷平章堂」のルーツ
 筆者が知る昭和の「灰谷平章堂」時計兼レコード店だったが明治24年(1891年)に「平章堂」時計製造販売所として「灰谷伊右衛門」が滋賀県蒲生郡中野村162(旧八日市市中野町・現東近江市)で創業した。
 
 「灰谷伊右衛門」はこの地で「平章堂」と称して発明所を設立していた。この平章堂、色々な発明をしていたとも言われ、無尽灯らしきものを製造していたり、顕微鏡などの製品も手懸けていたらしい。
 明治29年(1896年)には、既に耐震装置付き時計を発明している。滋賀の田舎で孤軍奮闘した「灰谷伊右衛門」。地元でこんな発明家がいたことも殆ど知られていない。
 
 尚、中野地区に灰谷家があり、「灰谷保右衛門」(天保11年(1831年)-明治26年(1893年))は滋賀県蒲生郡中野村の初代村長を明治22年(1889年)に務めた名家であった。
 「灰谷家」の祖先は中世近江守護の佐々木家の被官で谷氏と名乗り、明智光秀にも仕えたが明智滅亡の後、近江の中野村に落延び「灰谷」に改性した。
徳川初期、本家「灰谷東衛門」が仙台藩に仕え、肥料、穀物問屋、金融、醤油製造、薬屋などを営む近江商人であった。
 
初代中野村村長「灰谷保右衛門時計製造の平章堂を創業した「灰谷伊右衛門の関係が定かでないが名前が「伊右衛門」と「保右衛門」と同じ「右衛門」であり、年恰好から推測して灰谷伊右衛門は「灰谷保右衛門」の親子関係が濃厚である。
 
灰谷保右衛門:天保11年(1831年)生まれ
灰谷伊右衛門:生年月日は不明だが「平章堂」時計製造業の創業が明治24年(1891年)であり、20-30歳代位の時と仮定すれば明治初め頃生まれとなる。
 
 また、「灰谷伊右衛門」が近江の田舎の八日市で時計製造を始めるには資金が必要であり、当時、富商であった灰谷家のバックアップがあれば可能だったであろう。
 灰谷保右衛門と灰谷伊右衛門の関係が解明できていないのでまだ推測の域は出ないが今回、【身近な昔探訪】で「平章堂」の歴史から推測・発見である。
 いずれにせよ、明治期に八日市の片田舎で発明家がいたのだ。埋もれた歴史の1つの掘り起こしである。
今や楽器が主流となった東近江市東浜町の「昭和堂」も同じ灰谷家であり一族繋がりであろう。
 
<『ふるさと中野』誌より引用>
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