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【滋賀・近江の先人第223回】織田信長二女/蒲生氏郷の正室・相応院/冬姫(ふゆひめ)(愛知県・滋賀県日野町)

 冬姫(ふゆひめ)、相応院(そうおういん、永禄4年(1561年) - 寛永18年(1641年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の二女。蒲生氏郷(近江日野城主)の正室。


ヒストリー
冬姫は永禄元年(1558年)若しくは同4年(1561年)、尾張国の戦国大名・織田信長の二女として誕生。母は信長の側室である北伊勢の豪族坂氏「真紀」らしい。また、信長の四男於次で羽柴秀吉の養嗣子である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる。

*養観院(ようかんいん、生没年不詳)は、安土桃山時代の女性。織田信長の側室。北伊勢の豪族坂氏「真紀」。羽柴秀勝の生母。養勝院(ようしょういん)と同一人物ともいう。永禄12年(1569年)に信長の四男於次(後の羽柴秀勝)を生んだ。

 永禄11年(1568年)、近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が織田氏に臣従したとき、信長は近江日野城主、蒲生賢秀の子・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として取ったが、その器量を早くから見抜いて、
永禄12年(1569年)の大河内城の戦い後に自らの娘を与えて娘婿として迎えた。蒲生氏郷と冬姫の間には嫡男の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている。
 その後、夫・蒲生氏郷は豊臣秀吉に臣従し、伊勢松阪城主から転封となり、陸奥会津92万石の大名になるが、文禄4年(1595年)に40歳で死去。
後継の蒲生秀行は家臣団の統制がままならず会津から宇都宮12万石に減封・移封された。
 冬姫も共に宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで蒲生秀行が東軍に与して功を挙げたことから会津60万石に戻される。
しかし、慶長17年(1612年)に嫡子「蒲生秀行」が30歳で死去し、その跡を継いだ孫の蒲生忠郷」は寛永4年(1627年)に25歳で死去した。
 「蒲生忠郷」には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが、冬姫が信長の娘であることと、蒲生秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから特別に、冬姫の孫にあたる蒲生忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩20万石へ減移封の上で家督を継ぐことを許された。
その蒲生忠知」も、寛永11年(1634年)に嗣子なく30歳で早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった。

 冬姫は晩年、京都嵯峨で過ごし、寛永18年(1641年)5月9日、81歳で死去した。
法名は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼姉。墓所は京都左京区の知恩寺。

実名
院号のみ伝わっており、実名・通称ともに不明である。
冬姫(ふゆひめ)の名がしばしば伝記や小説などで採用されているが、この典拠は不明である。
「通常、この姫の名前を『冬姫』とするが、『永禄12年冬姫』を嫁がせたという記述を誤読したものともいわれる。
永禄12年に『冬姫』が嫁したのではなく、永禄12年の冬に(信長の)姫が嫁したと解すべきというものである。
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