”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第78回】日本初の民間飛行場(沖野ヶ原飛行場)の開設・熊木九兵衛(東近江市)

熊木九兵衛(くまき くへい)、1888年(明治21年)ー1944年(昭和19年)、66歳没。滋賀県八日市村(現東近江市)生まれ。日本初の民間飛行場の夢に全資産を賭けた人物。

■幼名は亀之助
熊木九兵衛は明治21年(1888)、八日市町金屋大通りに面した油商「油九」の長男として生まれた。幼名を「亀之助」といった。
油九は80軒余の借家を所有する資産家であった。亀之助は県立第一中学校(現・彦根東高校)を卒業後、
一年間軍務に服し、予備役少尉の肩書きを得たのち家業に励んだ。
1910年(明治43年)亀之助22歳のとき父が亡くなり、「九兵衛」を襲名した。翌年、23歳で坂田郡六荘村室(現・長浜市室町)の旧家から妻・志津を迎えた。



荻田常三郎と九兵衛
熊木九兵衛の運命を大きく変えたのは、日本初の民間パイロットで同じ滋賀の八木荘村(現愛荘町)出身の「荻田常三郎」が八日市町郊外の「沖野ヶ原」での飛行会である。当時、九兵衛26歳、常三郎28歳。
二人の最初の出会いが、いつどこで会ったのかは分からない。恐らく、荻田がフランス留学帰りの新進飛行家として京都で活動を始めた頃、八日市に来た際、九兵衛は荻田に積極的に接近していったのであろう。このとき、荻田は、沖野が原を離着陸場として郷土訪問飛行の計画を持っていた。

九兵衛は直ぐ荻田の理解者・支持者となり、鳴尾競馬場(西宮市)から近江鉄道八日市駅まで、「翦風号(せんぷうごう)」を貨車輸送する際の責任者になり、飛行大会成功の片腕になり活動した。

大正3年(1914年)10月22日、沖野ヶ原での荻田常三郎の飛行会は、数万という大観衆を集め成功裏に終わった。祝賀会席上、横畑耕夫(よこはた・たがお)八日市町長が「沖野ヶ原を民間飛行場とする」ことを主唱、その場で「熊木九兵衛」は幹事に選ばれた。
11月には「翦風飛行学校設立期成同盟会」が結成され、飛行場用地の買収が始まった。
しかし、翌大正4年(1915年)1月3日、深草練兵場(京都市伏見区)から翦風号で飛び立った荻田常三郎は、エンジン不調のため高度40メートで失速し地上に激突、助手の大橋繁治と共に墜死した。

■「復元」を宣言
この悲報の中、熊木九兵衛は翦風号を「改修復元する」ことを宣言した。設計図が残っていた上に、プロペラをはじめ翼の布やエンジン部品など、荻田が予備を用意していたことが分かったのである。
八日市町でも事業継続の是非につき、飛行場計画委員全員の協議を行い「継続する」ことを決議した。

大正4年(1915年)2月22日付けの新聞に、次のような記事が出ている。
「来る4月1日、八日市の新飛行場で、第二翦風号の起工式を挙げることとなった。第二翦風号の再興は熊木九兵衛氏と、荻田飛行士の助手、伊崎省三氏の二人がこれに当たり、翦風号の残骸は荻田氏の遺族から両氏に任されることになった。」

■見事に完成はしたが
翦風号復元作業について熊木九兵衛は、荻田常三郎の元助手・伊崎省三やその友人(平岡達蔵・岩名政次郎)など、青年数名を協力者として雇った。
当時の飛行機は木造・布張りである。主骨として北海道産のトネリコ、桁はシラカバ、中骨にアメリカマツを取り寄せた。エンジンの修理は、大阪でオートバイの発動機を製作していた大阪島津鉄工所に発注した。作業場は、八日市町役場に付随する八日市修交館(現・東近江市八日市コミュニティセンター付近)が使われた。


機体復元のための諸材料費・エンジン修理費、更に青年たちの雇用経費などについて、町費からの支出はなく、これら一切を負担したのは熊木九兵衛であった。
また、沖野ヶ原を飛行場にするため自己保有の沖野ヶ原の山林を提供した。
大正4年(1915年)4月19日、飛行場地鎮祭が行われ、飛行場用地買収費・整地費は、町長をはじめ町議会議員全員の連帯責任で借り入れを行った。6月初旬、第二翦風号の機体が完成し、エンジン修理も7月に完了した。
但し、根本的な問題があった。熊木九兵衛や元助手の伊崎省三らは、試験飛行は勿論のこと滑走する技術すら持っていなかったのである。第二翦風号は、数ヶ月間、いたずらに沖野ヶ原の仮設格納庫に収容されたままになっていた。

■ナイルスを呼ぶ
その頃、アメリカの民間飛行家チャールス・ナイルスが来日し、各地で航空ショーを実施していた。大正5年(1916年)1月、ナイルスが西宮・鳴尾競馬場で航空ショーを開催しているとき、熊木九兵衛は鳴尾に出掛けナイルスに出会って第二翦風号への試乗を依頼した。
大正5年(1916年)1月29日、九兵衛の強い要請でチャールス・ナイルスが来町。彼は、3時間以上かけて機体の点検を行い安全を確認、試験飛行を実施した。
当時の町会議員・清水元治郎はそのときの様子を次のように日記に記している。
「午後5時より5分間、飛行場の上空を2回旋回して見事着陸したり。万歳の声、喝采の響き天地を震動せしむ。」


熊木九兵衛をはじめ、飛行機については全くの素人たちが造った第二翦風号である。本当に飛ぶことができるのか、疑問視されても仕方がなかった。それが見事に飛び立ったのである。試験飛行の現場にいた人たちが大喝采をしたのも当然であった。
チャールス・ナイルスは、その後、近江兄弟社のヴォーリス邸を宿舎として、3月中旬まで沖野ヶ原で第二翦風号による様々な飛行を試みている。ナイルス招聘の費用は全て熊木九兵衛の負担となっていたものと思われる。

■チャンピオン来町
ナイルスは再訪を約束し帰国したが、その年の6月、ウイスコンシン州で催された航空ショウで搭乗の飛行機が空中分解し事故死した。
飛行場と第二翦風号は残っている。しかし、誰も飛ぶことのできない無用の飛行場であった。
その頃、陸軍では所沢飛行場(埼玉県)についで、各務原台地(岐阜県)をわが国第二番目の飛行場として整備し、さらに第三番目の飛行場設置についても検討を行っていた。八日市町では、このニュースを聞くと、直ちに陸軍飛行場の誘致に取り組んだ。
時期は明確ではないが、大正座(八日市金屋一丁目、現存せず)で陸軍飛行場誘致の是非につき町民大会が開催されている(奥井仙蔵『八日市と飛行場』)。誘致計画をすすめる町当局に対し、熊木九兵衛は飛び入り弁士として次の通り述べた。
「わが飛行場に、米国一流の民間飛行家たるフランク・チャンピオン氏を得たるなり。我等は氏と連携、死力を尽くして沖野ヶ原をひとかどの民間飛行場となし、民間飛行学校期成を明言す。」
九兵衛は、当時、全国各地で飛行会を催していた米国飛行家、フランク・チャンピオンと交渉中であった。チャンピオンを中心に、沖野ヶ原での飛行学校運営を軌道に乗せようと模索していたのである。


大正6年(1917年)5月、チャンピオンが八日市に来た。歓迎会の席上、チャンピオンは、「将来の日本飛行界のため、この八日市での事業にぜひ貢献したい」と抱負を語った。
しかし、その年の10月、チャンピオンは高知市の飛行大会で宙返りを試みたとき第二翦風号の翼が根元から折れ、高度1200メートルから機体とともに墜死した。「人」も「飛行機」も失われ、飛行場のみが残った。

九兵衛の「夢」は完全に潰え去った。第二翦風号の製作費用、チャールス・ナイルスやフランク・チャンピオンの招聘費用、さらに彼らの活動にかかわる諸費用など、ほとんどすべてを九兵衛が負担してきた。
先祖代々、所有していた借家は全て売却、自宅も他人の手に渡った。この頃、妻・志津の実家から「絶縁」を言い渡されたという話が伝わっている。

■郷里を去る
大正8年(1919年)版『彦根中学校同窓会名簿』を見ると、熊木九兵衛の住所は「東京市神田区」になっている。
チャンピオン墜死後、彼は単身上京、間もなく妻子を東京に呼んでいる。民間飛行場の夢が絶たれた上、全ての資産を失った九兵衛として、そのまま郷里に踏み留まる気になれなかったのは当然であろう。
九兵衛の東京での職業は「松永フォード自動車販売所勤務」(昭和10年(1935年)版『同窓会名簿』)になっている。
第二翦風号に携わっていた彼の知識が、少しは生かされる職業であったのか。但し、家族に飛行機の話は一切しなかったという。


昭和19年(1944年)4月15日、熊木九兵衛は脳溢血のため死去。55歳であった。
たった一つ、東京に持ってきた嗚呼第二煎風号のプロペラも昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で消失しまったらしい。

一方、八日市町をはじめ御園・玉緒・中野の各村は滋賀県と連携し、陸軍航空第三大隊誘致活動を強力に展開した。
1922年(大正11年)1月11日、旧民間飛行場の10倍(50万坪)という広大な面積を誇る陸軍八日市飛行場が開設された。

■熊木九兵衛の夢
九兵衛の夢は「無謀すぎた」というべきか、或いは時代が彼に追いつかなかったのか。翦風号飛行100周年に当たり、草創期の民間飛行家・荻田常三郎の業績と併せ、飛行学校や民間飛行場の開設という大きな夢を追い続けた熊木九兵衛の足跡をも、私たちは忘れてはならないと思う。
 (荻田常三郎・熊木九兵衛に関する詳しい情報は、中島伸男『翦風号が空を飛んだ日』=八日市図書館蔵=をご覧下さい。)

 

民間飛行場発祥地碑・八日市飛行場

https://blog.goo.ne.jp/ntt00012/e/1819693bf50a8bee6df7d454112c5c07

荻田常三郎慰霊記念碑

https://blog.goo.ne.jp/ntt00012/e/7213f2a902be30e3bd8905b169f98de5

<滋賀報知新聞、近江を築いた人びと・上(中島伸男記)引用>

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