新庄 直頼(しんじょう なおより)天文7年(1538年)- 慶長17年(1613年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は新三郎。官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。近江国坂田郡朝妻(米原市)生まれ。
摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、高槻城主。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから、徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主とされた。
ヒストリー
天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主「新庄直昌」の長男として生まれた。母は久我大納言の娘というが、久我家の系図の方には名前がなく、詳細は不明。
天文18年(1549年)、父が27歳のときに江口の戦いで戦死し、11歳で後を継いだ。『浅井三代記』によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていたが、最終的には戦国大名・浅井長政に従った。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して軍門に降った。
織田家では江北を任された羽柴秀吉の与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第に家臣化された。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に封じられていたというが、時期ははっきりしない。
天正19年(1591年)に近江大津城1万2,000石に移封されるが、嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう。秀吉の馬廻を務め、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共に秀吉に随従した。また、伏見城普請を分担。
文禄元年(1592年)、文禄の役には、直定(新三郞)が兵300を率いて朝鮮へ渡海した。
文禄3年(1594年)5月23日、肥前名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、直頼は長谷川守知、尼子三郎左衛門、三上与三郎と共に御酌通之衆として次室の末席に控えていた。同年10月、大和宇陀城主に移封され、同4年(1595年)、摂津高槻城に移封され、3万石に加増されたが、この頃、秀吉の御伽衆にも列する。
慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金十枚を受領。
慶長4年(1599年)、徳川家康が上洛した際に、加藤清正、浅野幸長と共に家康の伏見屋敷を警護した。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の筒井定次の留守部隊を押しのけて伊賀上野城を占拠し、そのまま籠城した。『寛政重修諸家譜』には、当初は東軍に与しようとしたものの、周囲の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属したと書かれている。急を知らされた筒井定次が帰国し対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去した。(『伊乱記』)
戦後処理にて改易となり、新庄父子の身柄は蒲生秀行の預かりとなった。
慶長9年(1604年)1月15日、家康に召されて駿府に入り、赦免を受け、江戸の徳川秀忠に拝謁して、常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂郡、下野国芳賀郡・都賀郡・河内郡の8郡において、3万300石を与えられ、後に行方郡麻生に立藩した。
慶長13年(1608年)12月26日、法印に叙され、宮内卿を称す。慶長17年(1613年)12月19日に死去。享年75。直定が跡を継いだ。
戦国大名浅井氏の家臣団は、小地域をまとめた「国人(こくじん)」とよばれる上層家臣と、村落単位の有力者「土豪(どごう)」である下層家臣に分かれていたといわれている。米原市内にも多くの家臣が拠点を置いていて、前者には堀氏・今井氏・大野木氏など、もともと京極氏家臣から浅井氏家臣になった者などがある。土豪は上層家臣に仕える形で浅井氏に仕えた。米原市内では箕浦を拠点とした今井氏に属した、岩脇(いおぎ)氏・井戸村氏・嶋氏など天野川流域の土豪が知られている。
これらの家臣団は、戦国乱世のなかで多くが衰退・変転し、また江戸幕府成立とともに有力大名家の家臣になったり、帰農を余儀なくされた。
唯一、米原市域に拠点を置いた国人で、江戸幕府に大名に取り立てられたのが新庄氏です。清滝・上平寺に館を構えた京極氏は、もともと北近江の守護・戦国大名であることから、幕藩大名になったのは別格として、村落の領主から大名になった新庄氏とそのお城について紹介する。
新庄氏は、三上山のムカデ退治で知られた俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔(こうえい)といわれ、二代将軍足利義詮(よしあきら)に仕えた俊名(としな)が、坂田郡新庄に居住して新庄氏を名乗ったのが始まり。
後年、居城を朝妻城(あさづまじょう)に移した新庄直昌(なおまさ)は浅井氏に仕え、戦国期の当主直頼(なおより)は、姉川の合戦で第4陣を構成し奮戦している。
浅井氏滅亡前後に信長、のち秀吉の馬廻り(警護役)として仕え、山崎城(大阪府)・大津城・宇陀城(うだじょう)(奈良県)・高槻城(大阪府)の城主を歴任する。
関ヶ原合戦では、やむなく西軍に属し、東軍の伊賀上野城を占拠するが、奪還され、身柄を会津の蒲生氏に預けられた。しかし、4年後に赦免されて常陸国麻生藩(茨城県行方(なめかた)市)3万3百石の初代藩主となり、明治維新まで続いた。