1570年(元亀元年)、長浜市南東部の「姉川」を挟み、浅井・朝倉の連合軍と、織田・徳川の連合軍が戦った「姉川合戦」の450周年記念展「信長苦戦す! 元亀争乱と湖北」が始まる。
↑写真:中日新聞より(馬上で大太刀を振るう真柄十郎左衛門直隆などを描いた「姉川合戦図屏風」(一部)=福井県立歴史博物館蔵提供)
姉川合戦の450周年記念展「信長苦戦す!元亀争乱と湖北」
開催期間: 1月23日~3月7日
*2月7日は展示説明がある。2月8日休館。
場所: 長浜城歴史博物館(長浜市公園町10−10)
入場料: 高校生以上410円、小中学生200円。
その他: 透かし加工を施した限定千枚の「御城印」(700円)も発売する。
問い合わせ: 長浜城歴史博物館=0749ー63ー4611
長浜市を拠点とした浅井氏が合戦後も県南西部に影響力を維持したことを示す書状など計54点を展示。合戦の実態を解き明かし、「浅井・朝倉側が大敗した」というイメージを覆す内容になっている。このほか、通常の2倍以上の長さの刀を操ったとされる朝倉氏の家臣・真柄十郎左衛門直隆のものと伝わる刃渡り約2mの「真柄の大太刀」二振り(2月14日までは一振り)や、直隆の奮戦の様子など姉川合戦を描いた現存唯一のびょうぶ「姉川合戦図屏風(びょうぶ)」もある。
「姉川合戦」は江戸時代の軍記物の影響で、テレビなどでは、織田側が圧勝して浅井氏の滅亡につながったと位置付けられることが多かった。しかし、長浜城歴史博物館の福井智英学芸員は「浅井・朝倉側は大きな損害を受けず、その後も織田側としっかりと渡り合っていた」とする。
その根拠として浅井氏が合戦の5ヶ月後に京都の寺に送った「安堵(あんど)状」を紹介。昨夏に京都市の勝林院で見つかり、同院以外では初公開となる。旧滋賀郡(大津市北部)にあった寺の領地を認める書状で、浅井氏が合戦後も県南西部で影響力を保っていたことがわかるという。
浅井氏では姉川合戦を「辰鼻(たつがはな)表合戦」や「野村合戦」と呼んだことを示す書状なども展示する。
一般的な姉川合戦の名称は、元は徳川氏での呼び方で、福井学芸員は「勝者の歴史観が今も影響していることを示している」と話す。
<中日新聞より>