東近江市御代参街道沿いにあった「銀扇」の「髙田蛭子堂」(西中野)、和菓子の「一二三堂」(栄町)、和菓子の「大森屋」(本町通り)、お餅・饅頭の「菓子久」(東中野)は平成年代で閉店してしまった。
現存するのはお餅・饅頭の「親玉本店」(八日市清水)のみである。
高田蛭子堂 「銀扇」<廃業>
高田蛭子堂は、明治初期ごろ創業の老舗だった。私が小さい頃の店主は髙田一造さんで明治後期生まれの人だったので2代目か3代目と思われる。
高田蛭子堂は、明治初期ごろ創業の老舗だった。私が小さい頃の店主は髙田一造さんで明治後期生まれの人だったので2代目か3代目と思われる。
一造さん没後、暫く店は休業していたが確か娘さんの夫が京都の菓子職人で後年再興されたと聞いていた。
しかし、その方も高齢と継続する人がなかったようで近年閉店されたと聞く。
髙田蛭子堂は看板商品銀扇のみのお店(麩焼煎餅専業の和菓子店は全国的にも大変珍しい)だったが閉店は大変惜しい。今となっては懐かしい味である。いつか又再興されるのを期待したい。
そんな近江では、地元で取れたもち米を活かした最中の種(皮)作りも盛んだった。
東近江市西中野の高田蛭子堂(たかだえびすどう)は、そんな環境が生んだ近江らしいお店で、最中の種と作り方が類似した麩焼せんべいの「銀扇」だけで商いをしていた。
麩焼せんべいは、お茶席用のお菓子を扱う和菓子店では大抵1つは置いてあるお菓子だ。しかし、最中同様にお店で煎餅から作るところはほとんど無く、種屋さんから仕入れそれに砂糖を付けたり焼印を付けて商品にするのが殆どだそうだ。
それが、高田蛭子堂では、麩焼煎餅から自家製で(もち米を石臼でひいて粉にする工程から)、それにすり蜜のはけ塗りを施し、完成したのが銀扇だ。
直径は約16cmと麩焼煎餅の中ではスーパーサイズ。厚みも7~8mmと普通の3倍以上である。
そのお煎餅を綺麗に4分割して、それが扇のようなので名前が銀扇となっている。 (重さを感じないくらい軽い)生地は、”サックサク”という表現以外思いつかないくらい超軽やかな食感である。
しかし、製法上、割れやすく商品として出すには歩留まりが悪いと聞いたことがある。
口に入れた途端、麩焼煎餅独特の上品な香ばしさともち米の風味がふわーと広がって、砂糖の切れの良い甘味が追いかけてくる。そして、口の中で溶けて無くなってしまう。また、隠し味の醤油の僅かな辛味とコク、それに真ん中に小さくちょこんと貼られた海苔も良い仕事をしている。シンプルなお菓子ながら、完成度の高さを感じさせる一品だった(大人のお菓子)。700円(5枚 20片入)