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【滋賀・近江の先人第81回】東近江の地元民に「石門心学」の普及に尽くした・小島伝兵衛(東近江市)

 小島伝兵衛繁則(こじま でんべい)、別名「一音。1735年(享保20年)近江国蒲生郡中野村(東近江市西中野町)生まれ、1817年(文化14年)82歳没。近江・八日市で心学を広めた江戸期の人
 
小島家は、近江源氏佐々木9代(源三秀義の3男)盛綱を祖とし、備前の児島高徳とも繋がると言われている。
近江守護だった佐々木・六角氏没落(1568年)後、蒲生郡中野村に土着、酒造業(1788年・天明8年)を経て、薬種業で成功した。
 小島家の中興の祖、「伝兵衛高安」以来、中野村にあって代々薬種問屋の豪商で「薬伝(ヤクデン)」を営んでいて歴代篤信博学の当主が多く、特に、一音の祖父一閑繁賢は彦根の儒者沢村琴所と親しく、仙台藩士片倉小十郎とも交友があった。父一吸繁泰も博学の人で、当時小島家は地方文化の一中心的存在だった。
 
 このような文化的な雰囲気の中で、神学、仏学、儒学の深い教養を持った6代当主「一音(いちおん)」が、その頃、隆盛し始めた「石門心学」に傾斜していった。
江戸期の8代将軍吉宗が行った享保の改革は経済界にも波及し、町人階級は大きなダメージを受けた。
儒教を中心とした御用学者は商人無用論を唱え、志ある商人は町人の道、如何に家業を永続させるか、その存在理念を考えざるを得なかった。
京都の「石田梅岩」が始めた「石門心学」は商人達の渇望に応えるものであった。
梅岩の死後、弟子達により石門心学は発展し、功績のあった京都・「手島堵庵」(儒学者でもあった)の生家の本貫地が御園郷寺村(現東近江市今代町)で、和庵の後釜の淇水も今田居村(現東近江市今代町)出身であり、故郷八日市に出講したので、地縁で一音らにも心学学習の意欲を刺激したに違いない。
 
八日市の心学講舎は「好善舎」と呼ばれ、都講(責任者・講師)は九里宇左右衛門と小島一音が務めるなど八日市地方での心学普及に中心的な役割を果たした。
小島一音の働きにより石門心学は八日市地方で多くの門下生を持つなどの広がりを見せ、地域文化の振興に大きく寄与した。
しかし、小島伝兵衛一音の没後、強力な指導者がいなくなったことや幕末の動乱の中で新しい時代の思想が展開されてきたことによるなど、八日市地方での心学は衰退し、幕末・維新の時代の思想へと変貌して行く。

↑好善舎」があった「薬伝」
 
心学舎でありサロンであった「好善舎」は「薬伝」小島伝兵衛一音の家であり、商人道徳を説いた「石門心学」ゆかりの地でもある。現在も小島家の庭には「ししゃんぼ(気になる樹)「一音の梅」がある。
建物はウダツ造り(火よけ)が現存するたたずまいを残している。
尚、歴代の小島伝兵衛家は蒲生郡中野村(現東近江市)の15代村長(明治36年)、25代村長(大正7年)を務めている。
 
今も東近江市の中野地区の旧家には多くの心学書が残されていると言う。このように八日市には江戸中期から末期にかけて熱心な心学研修の市井の人びとが多くいたのである。小島家は一音が生誕前から彦根の儒学者沢村琴所との交友があった。
 
<「近江を築いた人びと・上」(出目弘)、「ふるさと中野」引用>
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