”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第72回】太宰治の愛人で小説「斜陽」の題材提供・太田静子(愛荘町)

太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年) - 1982年(昭和57年))は、滋賀県出身の歌人、作家。太宰治の愛人の一人。『斜陽』に材料を提供したことで知られている。作家の太田治子は、太田静子と太宰治の娘。

奇しくも太宰治の愛人の一人であった「太田静子」と、玉川上水で太宰治と入水心中死をした「山崎富栄」は共に滋賀の女性である。

それも愛知川町(愛荘町)に生まれ育った太田と、疎開のため1年住んだ山崎は八日市町(八日市市→東近江市)は直線距離で6-7km程度と近い。全くの偶然とは言え太宰を介して滋賀の二人の女性が愛人であったのだ。

太田静子は滋賀県愛知川町(愛荘町)の太田医院に生まれ育ち、生家は今はなく昭和13年(1938年)に東京に引っ越している。元太田医院のあった3000坪もの広い跡地は真宗大谷派勝光寺の前にあり、現在は成宮クリニックという医院がある。

↑元太田医院があったところ

また、太田静子が通った愛知高等女学校(現・滋賀県立愛知高等学校)は愛荘町愛知川の町内にある。

↑愛知高等女学校(現・滋賀県立愛知高等学校)

一方、山崎富栄と父母が住んでいた滋賀県八日市町の借家の建物は今も東近江市八日市本町に残っている。

ブログ筆者が過去に「ウォーキング三昧」ブログで船橋の太宰治を訪ねて歩いた記事は以下。

船橋時代の太宰治 足跡探索ウオーク

船橋時代の太宰治 足跡探索ウオーク パート2

【滋賀・近江の先人第71回】太宰治と入水を供にした近江ゆかりの女人・山崎 富榮(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/2baff3ca0d56effa67b36f3514b39881

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ヒストリー

生い立ち
滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町)にて、開業医太田守・きさの四女として誕生。
実家は代々大分の中津藩の御典医の家系。長崎の医学校を出た静子の祖父・文督の代に、本家の医師一家と共に全く縁もなかった近江愛知川町(現愛荘町)に引越、それぞれ医院を開業した。太田医院は勝光寺の前で3000坪の広い敷地だったらしい。

そもそも御典医を辞めるきっかけは主君との間に事情(主君に美貌の妻を奪われたとか)が生じて御殿医を辞めたという。「太田の一族は以後美しい妻を娶るべからず」の家訓を残している。

父太田 守は現大阪大学医学部の第1回卒業生だった。「医は仁術なり」を地で行く温和な性格の人だったらしい。

昭和13年(1938年)父が亡くなると近江の3000坪の家を売り、一家は東京に出た。

叔父(母きさの弟)は大和田悌二(逓信省次官)で、退官後、日本曹達社長、日本電信電話公社経営委員長を歴任している。


太田静子」は、滋賀県の愛知川小学校を経て、愛知高等女学校(現・滋賀県立愛知高等学校)卒業後、東京の実践女学校家政科に進み(17歳)、専門部に学ぶ。
直後から口語短歌を作り、1934年(昭和9年)、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。

文学青年だった実弟太田通の勧めで内密に国文科への転科手続を進めていたが、郷里の父母に露見して叱責を受け、1年の中途で実践女学校を中退(18歳)。
父母による帰郷要請を拒んで東京に残り、弟と同居しつつ前衛的な詩歌や小品文を創作。傍ら、画塾や琴の稽古にも通った。このころ、フランス帰りで38歳になる独身の画家と恋をしていた。

1938年(昭和13年)5月、父守が死去。医師になっていた兄の馨は近江の太田医院を継いだが病気になり、母(きさ)は太田医院を閉じて一家で東京へ移り、東急電鉄の大岡山駅近くに住んだ。その後、母子で静子の実弟を頼りに上京、11月、実弟太田武の東芝の同僚で友人の計良長雄と結婚。1939年(昭和14年)11月、長女満里子を産むも、1ヶ月足らずで早世。
1940年(昭和15年)2月、協議離婚。

太宰治との出会い
洗足の実家に帰ったとき、太宰の愛読者である弟通の勧めで太宰の『虚構の彷徨』を読む。
1941年(昭和16年)、静子の長女満里子の死にまつわる日記風告白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞお遊びにいらして下さい」という返事が届く。
同年9月、2人の女子大生と共に東京三鷹の太宰宅を訪問。12月15日、太宰から電報で呼び出される。既婚者の太宰と恋に落ちる。

太宰との関係が深まるにつれて太宰夫人・美知子から疑惑の目を向けられるようになったため、太宰の窮余の一策として、太宰の門人・堤重久との逢引を世話されたこともあるが、静子は「結婚を考えない男の方とお付き合いしたくない」と拒絶した。

1943年(昭和18年)秋、家主の加来金升の親友であった叔父(母きさの実弟・大和田悌二:日本曹達㈱社長)の世話で、母と静子は、神奈川県足柄下郡下曾我村の「大雄山荘」に疎開した。「大雄山荘」は、火災で焼失し現存しないが豪勢な造りだったという。
1944年(昭和19年)1月10日から13日まで、太宰は熱海のホテルに泊まり、脚本家と共に映画『佳日』の脚色に当たる。帰途、太宰は大雄山荘を訪れ静子と再会。

戦後
1947年(昭和22年)1月6日、三鷹の太宰の仕事部屋を訪れる。
小説の題材として日記の提供を依頼され、「下曾我までおいでになったら見せます」と返答。
2月21日から2月24日まで太宰を下曾我に迎える。約束通り日記を提供、この日記が斜陽』の材料となった。このとき太宰の子を受胎する。

同年5月24日、生まれて来る子の相談で弟通と共に三鷹の太宰宅を訪問。
太宰からの冷たい態度に傷つき、自分に接近し来たのは小説の材料だけが目当てだったのではないかとの疑念を抱く。このとき、山崎富栄と鉢合わせする。
5月25日、肝心の相談から逃げ廻る太宰の態度に対して涙ながらに抗議。静子をモデルに描いた太宰作の油絵を贈呈されて下曾我に帰る。この日が、生きた太宰を見た最後となる。

1947年11月12日、太宰の子(太田治子)を出産。11月15日、弟・通が三鷹を訪れ、太宰に新生児の命名と認知を願い出る。
太宰は「この子は/私の可愛い子で/父をいつでも誇つて/すこやかに育つことを念じてゐる」との認知書を認めた上、自らの本名・津島修治から一字採って「治子」と命名。
静子の側は、太宰の子を産んだために親類縁者から義絶を受けたが、太宰からは月額1万円の養育費を送られることを約束された。12月15日、『斜陽』が新潮社より刊行される。

1948年(昭和23年)6月13日、太宰が愛人山崎富栄と入水自殺。8月1日、井伏鱒二、今官一、伊馬春部の訪問を受け、「太宰治ノ名誉及ビ作品ニ関スル言動(ヲ傷ツケルヤウナ言動)(新聞・雑誌ニ談話及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。
しかし、津島家(太宰の本名の本家)からの冷遇に耐えかね、
10月、この誓約を破る形で『斜陽日記』を刊行。この日記の内容に『斜陽』と重なる部分があまりに多かったため、太宰死後の捏造ではないかとの説を唱えられて悲しんだ。

1950年(昭和25年)11月、『あはれわが歌』をジープ社から刊行。以後は炊事婦や寮母として生計を立て、津島家からの差別待遇に苦しみながらも、静子の男兄弟らの支援・協力も得て娘・治子を育て上げた。静子は倉庫会社の炊事婦を11年、独身社員寮の寮母を8年、60歳迄働いたと言う。晩年、静子は少女時代を過ごした故郷滋賀県の愛知川の地蔵祭りを懐かしんだ。

晩年肝臓癌、しかも当時の医療では手のつけられない状態であったことが発覚。治子らの看護むなしく、1982年(昭和57年)11月24日、死去。69歳没。

<Wikipediaより>

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