すみません、ちょっともどって__
5/1に箱根旧街道を歩いてきた話、を これから何回かに分けてUPしていきますね。
亭主が「GWは箱根の旧街道を歩いてみよう」と言う。
んー 歩いてみたいけど 箱根と言えば 天下の険。
山歩き初心者の私には厳しいのでは?
と思ったのですが「大丈夫。畑宿(はたじゅく)からスタートすれば 登りはほんのちょっとで あとはだーっと楽な下り坂だから」(←あとでこれがガセとわかる・・・)と言われ、
んー それじゃあー
と__ついて行ってみました。
「箱根湯本」から「元箱根」行きのバスに乗り、「畑宿」の一つ手前、箱根の中腹「本陣跡」で下車。(「畑宿」と「本陣跡」は 歩いてほんのちょっとの距離なので どうせだから と「本陣跡」からトレッキングをスタートする事にしたのです。)
本陣 というからにはきっとここに立派なー__
と思ったのですが、 旧本陣 茗荷屋・畑右衛門の屋敷は 大正元年の火災で焼失し、今は庭の跡地と それがどんなに立派だったか(あのハリスも目を見張った、そう) を語る看板があるのみ、でした。((なんでも 山から水を引いて瀧をおとし、池には沢山の鯉を泳がしていた、のですって))
「本陣跡」から「畑宿」までの道脇には 寄木細工の工房が幾軒もありました。
お店を覗きながら歩くうちに あっさり「畑宿」に到着。。。
いよいよ「旧街道 石畳を歩く旅」がスタート。
ここには、江戸から23里目であることを示す「一里塚」があります。
文字通りの「塚」です。
教科書で習ってはいたけれど 見るのは初めて。
道の両脇に一基ずつ「対」で築かれています。
思っていたよりずっと大きな物だ。
(直径9m!)
雨が降れば ヒザまで泥に埋まる、という箱根越えの道__。物流のためにも重要な道ゆえ、最初は竹を敷いていたそうですが (竹を敷く話は16世紀・北条時代の文章にもあるのですって)、この費用がバカにならない。というので石畳が敷かれたのは1680年の事、らしい。(文章として残っているのは 箱根から三島宿への石畳についてのみ。箱根から小田原への石畳がいつ敷かれたか、は不明だそうです)
赤穂浪士も新撰組も ここを通ったんだなあー・・・。
___ つ づ く
5/1に箱根旧街道を歩いてきた話、を これから何回かに分けてUPしていきますね。
亭主が「GWは箱根の旧街道を歩いてみよう」と言う。
んー 歩いてみたいけど 箱根と言えば 天下の険。
山歩き初心者の私には厳しいのでは?
と思ったのですが「大丈夫。畑宿(はたじゅく)からスタートすれば 登りはほんのちょっとで あとはだーっと楽な下り坂だから」(←あとでこれがガセとわかる・・・)と言われ、
んー それじゃあー
と__ついて行ってみました。
「箱根湯本」から「元箱根」行きのバスに乗り、「畑宿」の一つ手前、箱根の中腹「本陣跡」で下車。(「畑宿」と「本陣跡」は 歩いてほんのちょっとの距離なので どうせだから と「本陣跡」からトレッキングをスタートする事にしたのです。)
本陣 というからにはきっとここに立派なー__
と思ったのですが、 旧本陣 茗荷屋・畑右衛門の屋敷は 大正元年の火災で焼失し、今は庭の跡地と それがどんなに立派だったか(あのハリスも目を見張った、そう) を語る看板があるのみ、でした。((なんでも 山から水を引いて瀧をおとし、池には沢山の鯉を泳がしていた、のですって))
「本陣跡」から「畑宿」までの道脇には 寄木細工の工房が幾軒もありました。
お店を覗きながら歩くうちに あっさり「畑宿」に到着。。。
いよいよ「旧街道 石畳を歩く旅」がスタート。
ここには、江戸から23里目であることを示す「一里塚」があります。
文字通りの「塚」です。
教科書で習ってはいたけれど 見るのは初めて。
道の両脇に一基ずつ「対」で築かれています。
思っていたよりずっと大きな物だ。
(直径9m!)
雨が降れば ヒザまで泥に埋まる、という箱根越えの道__。物流のためにも重要な道ゆえ、最初は竹を敷いていたそうですが (竹を敷く話は16世紀・北条時代の文章にもあるのですって)、この費用がバカにならない。というので石畳が敷かれたのは1680年の事、らしい。(文章として残っているのは 箱根から三島宿への石畳についてのみ。箱根から小田原への石畳がいつ敷かれたか、は不明だそうです)
赤穂浪士も新撰組も ここを通ったんだなあー・・・。
___ つ づ く