2023、12、13
〜「どうする家康」も終盤に差し掛かっている〜
一昨日、豊田ライフ3日目、松平郷を散策して来た
生憎の曇り空だったが、同行の妻と娘にとってはノープロブレム
ウォーキングが出来さえすれば何処でもOKみたいだった
😅
大河ドラマの影響か、いつもより車🚘多かった
帰り時にはバス🚌も2台!
当地は松平氏発祥の地
その始祖松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)の銅像とか墓所🪦とか居所など忍ことは
可能だが、家康の影を求めても不思議と手答えが無い。
大河ドラマのPRの幟やポスターなども???見当たらない。
以前にも何度か来た事があるので初めてのコース取りで
松平氏の墓所を訪ねる事にした。
3人ともにウォーキングシューズ
多少の山道でも十分に対応可能だ。
徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏の銅像
親氏は近隣の村を手中に納め勢力拡大の端緒を開いた。
親氏の弟泰親(やすちか)は、その子信広、信光を従え岩津城を落とした。
この戦いで怪我をした信広を松平郷に残し、信光と共に岩津を居城とする。
松平宗家三代信光の代に岡崎・安城に勢力を広げ
戦国時代の一大勢力となっていった。
松平太郎左衛門墓所🪦、
七代清康は安城から岡崎に居城を移し、
三代信光の再来を思わせる活躍をし、三河一国を支配した。
尾張守山を攻めた清康(当時25歳)は近臣に殺され、兵は総崩れとなった。
八代広忠はこの時まだ10歳
清康の死により松平一族の支配圏は弱体化し東の今川氏、西の織田氏から攻められ
支配圏は縮小していった。
八代広忠もまた近臣の者に殺されたことを知った今川義元は、岡崎城を手中にした。その時、後継ぎ竹千代(8歳)は、織田信秀の元にあった。
このようにして松平家初代親氏の天下泰平の願いは、
竹千代(家康)に託される事となる。
参考:パンフ「MATSUDAIRAーGO」、案内板
展望テラス
ガスが晴れると、三河湾伊勢湾が望めるそうだ。
これより引き返すことにした。
途中の分岐点で高月院へ進路変更した
激下る、、、
松平氏の菩提寺で裏が墓所🪦となっていた。
中央が 初代松平太郎左衛門親氏
手前が 二代目泰親
奥が 第四代親忠、第五代長親
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高月院からの沿道250mの「室町塀」や「冠木門」は
室町期の歴史景観を醸し出すとの事だが、、
「天下茶屋」の方に食指が動いた
松平東照宮に戻った。
紅葉🍁の名残りが強かった。
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