おはようございます。
櫻も咲き、よい季節になりました。
連載「イマジネーション・トレーニング法」の時間です。
よろしくお願い致します。
ここのところでは、
例によってわたしはこつこつと勉強して、
また画面に取り組んでいました。
そして、
ここで取り上げたいなというテーマがあり、
「なにかがそだつこと」です。
わたしは「イメージやパターンの探求」として画面を稽古していて、
それが要するに「イマジネーション・トレーニング」です。
その「イメージやパターン」について、
繰り返しになることも多く、
うまく書けるかわかりませんが、
そろそろ書いてみたいなと思っています。
よろしくお願いします。
わたしのしている「画面の稽古」は
「コンポジション」などの意図はほとんどなく、
もちろん「稽古育て」や「メチエ」は、いろいろ工夫していますが、
これを「絵」とよんでいいか、ちょっとためらいます。
それで「画面の稽古」と呼んでいて、
即興的に、
ある「イメージだし」を具体的な「パターン」で行っています。
「パターン」というものの、考えと方して、
「ベーシック・パターン」や「プリミティブ・パターン」があり、
「画面」、「記録」というものの宿命として、
はっきりした「すがた」というものを通して「イメージ」を探求しています。
またそういう「具体的」なかたちにしてみないと
「イメージ」というものを捕まえるのはかなり難しいと感じます。
これは「音楽」が「楽譜」という「パターン」を使っているのと同じで、
「瞑想でビジョンを見る」
などとははっきり違うやり方です。
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ここでおもいだすのは、
これは仏壇屋さんかなにかの看板で読んだのですが、
「こころはかたちを求め、かたちはこころをすすめる」
という有名なことばです。
わたしの感覚としてはこつこつと稽古してゆくうちに
ひょいひょいと「気づき」や「思いつき」
が重なって、
「かたち」がだんだん育ってゆき、
画面の仕事が進むような感じです。
だいたいいま、
一日3枚程度の画面を稽古していますが、
具体化したものとわたしのなかのなにかが触発され育ってゆき、
それは「こころ」といっていいのかもしれません。
わたしもときに「脩養」というものを考えますが、
この稽古を通して、
「人間的な成長」があるなら、すごく嬉しいと思います。
理想を言えば「境涯」のようなものが、
将来、あらわせたらいいと願っています。
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以前にも「展開」という用語を使って、
このプロセスを書きましたが、
「イメージだし」とか「展開」とかは
理屈でうまく説明するのは難しく
実際、やってみないとよくわからないのではと思います。
「イメージだし」とは
要するに「具体的にかたちにしてみる」ことで、
たとえば、文章のこういう原稿でも、
ある程度は書いてみないと考えも進みません。
それが「イメージ」といえば「イメージ」でしょう。
つまり、
これがわたしなりの「イメージとパターンの探求」
ということになります。
ですから「知的生産の技術」として、
「思考してゆく方法」としての「ある一般性」があると思います。
だいたい誰でもこういうことは、
多かれ少なかれ、やっているのではないかと思っています。
○
そういうわけで、わたしの場合、
イメージとパターンは同時に即興的に育ってゆき、
モーツァルトの場合には
交響曲の全体が一瞬で見渡せたそうですが、
わたしの場合、そういう「離れ技」とはぜんぜん違うわけです。
毎日の勉強や稽古の日々で、「なにかが育っているな」
と感じられる瞬間があり、
それが一番楽しみな感覚です。
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今回は「なにかがそだつ」
という出発点から考えて
「文章の即興」のようなことを行ってみました。
うまく行ったかあまり自信がないのですが
読んでいただき
ほんとうにありがとうございました。
ぽつぽつ書いてゆきます。
また次回お会いしましょう。
( つづく )
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