
集団的自衛権をめぐる安保法制が衆議院で可決された。採決の日、授業が始まる前に、学生から質問受けた。
「先生、どうみてもおかしいではないですか?」。「先生は、横浜市役所の時に、菅官房長官(元横浜市議)と一緒に仕事をしたのだから、安倍さんには言えないだろうけど、菅さんには、おかしいと言ってくれませんか」と言われた。いつもは、ファッションやデズニ―ランドの話をしている学生からである。
憲法論から言えば、個別的自衛権については何とか説明できないわけではないが、同盟軍を守るような集団的自衛権は、説明が難しい。憲法学者の数ではないというが、多くの憲法学者や歴代の法制局長官が、憲法違反とするのは自然のことである。
他方、国際政治学の立場で言えば、国際政治は警察官も裁判所のいないアナーキーの(要するに、力の優劣で決まる世界、ドラエモンで言えば、ジャイアンが支配する)世界なので、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」(憲法前文)というのは、あまりに空想的で、楽観的だと考えることになる。
両者の乖離をどのように調整し、どこに決着点を置くのかが論点である。
ちなみに集団的自衛権の説明として、ホルムズ海峡やISがあげられている。しかし、この地域の紛争は、日本にとってさほどの現実的脅威ではない。第一、ホルムズ海峡が封鎖されたら、多くの国にとって脅威なので、日本が集団的自衛権などを持ち出すまでもないだろう。
安倍総理が本当に言いたいのは、中国の脅威だろう。南シナ海で、中国が自国だとする国境線は、そこまでやるかと唖然とする内容だし、占有した南沙諸島を躊躇なく埋め立てる姿を見ると、隙を見せると、日本も同じようにされてしまうという心配である。国際政治の本質である「力による支配」を素直に体現する大国のまさかの出現で、にわかに集団的自衛権がクローズアップされてきた。
当初は、中国を刺激するようなことを言わないで、何とか済まそうと考えていた政府も、ここにきて、余裕をなくし、日中境界線における中国のガス開発に様子など、それとなく、中国が脅威の対象であると、わからせるようになってきた。政府も、相当苦しいのだろう。
さて、この両者の乖離の中で、どこかに着地点を見つけなければならず、それは、国民一人一人の決意があってはじめて、落ち着きどころとなる。
(1)片務的な日米安保条約を使い、今のまま個別的自衛権で行く方式は、今までの延長線なので、憲法改正の論議は必要ないだろう。ただ、アメリカの力が弱体化しているなか、本音は、中国とことを構えたくないアメリカは、いざというときに、どこまでやってくれるのか。今のままでは、日本近海まで中国の国境が押し寄せ、尖閣諸島は占有されて、埋め立てられるというリスクが高くなったというのが、安倍政権の見立てだろう。ついこの前まで、憲法9条があって、日本は外に出れないといって、アメリカにパスを回していたが、アメリカがこのパスを受けられないくらいに、世界状況が変わってきたということである。
そこでアメリカを引っ張り込むための手段が集団的自衛権である。これ以上経済的負担は負えない日本とすると、コスト的に安く、効果的であるというのが判断の決め手である。他方、同盟国の紛争に巻き込まれるリスクもあるが、比較衡量すると、こちらが得という判断である。この場合は、憲法にふれるので、憲法改正の国民投票も必要である。
(2)これに対して、そんなことはない、今のままでも行けるというのが、多くの憲法学者の考え方である。憲法学者は、文理だけで判断しているよう言われるが、そんな法律学者はおらず、こうした実態的な判断のうえで、憲法解釈を行っている。
(1)と(2)のどちらが正解なのだろうか。おそらく、微妙で、拮抗しているからこそ、大きな対立が起こっているのだろう。きちんとした議論を行って、どちらが得なのかを冷静に判断すべきであるが、住民投票前夜と同じようなレッテルの張合いになってしまって、本当に知りたいところが、よくわからず、論点がちっとも深まっていかない。そこが多くの国民が、もやもやしている理由だろう。
政権担当者が、集団的自衛権でいくしかないと考えたら、きちんと打って出て、国民的な議論をしたうえで、憲法改正の話をすべきである。それで自分たちの未来に関することを、国民が一人ひとりが考え、判断することができる。どちらに転んでも、大事なのは私たちの覚悟である。ところが安倍さんは、解釈改憲を採用した。これは、はしご外しのようなもので、せっかく当事者として考える機会をスルーさせることになってしまった。国民一人一人がよくわからず、覚悟ができないまま、先に進むことになった。
このあいまいな決着のつけは大きい。憲法があっても、時の状況で、いくらで変更できるという具体例は、私たちを不安に陥しいれる。法による支配もあったものではないからである。なによりも、解釈改憲という方法は、あまりにセコく、卑怯な感じは否めない。男らしくないというのが率直な印象である。このずるいという感情は、精緻な理論より、人々の心に深く沈殿し、人の判断に微妙に影響する。正面からぶつからずに、裏口入学のような手法を採用することで、安倍さんは、その意に反して、多くの人々を反対側に追いやったことになったと思う。オウンゴールのようなものである。
件の学生には、授業前の限られた時間なので、結論部分しか言えず、うまく趣旨が伝わらなかったと思う。ここに記して、補足としよう。