
地方自治論の第2回は、「地方自治は協力、連携である」を取り上げた。授業としては失敗だった。
「地方自治は協力、連携である」を説明するために、アジアモンスーンと稲作を取り上げた。
話したかったことは、アジアモンスーンによって、温暖な気候と大量の雨が降るが、それを使って、私たちは、稲を育てて暮らしてきた。急峻で、河況係数の大きい川の水を有効に利用するために、土木工事をして水路をつくり、水を獲得するための血で血を争う闘争を通して、みんなが共存できる秩序をつくってきた。
この秩序に従わないと(水を独り占めすると)、飢饉が起き、再び紛争が起きる。稲作を通して(田植えも稲刈りも一緒にやる)、私たちは、生活の知恵として、連携と協力の大事さを学んできた。稲作2000年を通した自治の歴史の中で、連携・協力という自治のマインドをDNAとして、私たちは身につけてきたというのが、今回の授業の構想である。
なぜ失敗したのか。まるで日本文化論のような授業になってしまったからである。失敗の原因は、和辻哲郎に深入りしたためである。和辻は、風土をモンスーン型、砂漠型、牧場型に分け、牧場型のヨーロッパを安定的なものと考えたが、私は、そこが違うといい始めてしまったからである。
牧畜を主に、作物といったら麦やジャガイモしかできない大地は、むしろ地味がやせているからで(例えば連作ができない。他方、コメは二期作もできる)、同時に、なだらかな平原は、侵入者の侵入を容易にすることから、決して平穏で安定的な暮らしではないからである。こうした暮らしの中で、必然的に、強い自己主張が生まれ、他者への警戒・防御型の自治が生まれてくる。
そこから、イギリスを代表とする牧畜文化と対比しつつ、稲作がつくる日本の文化(和を尊ぶとか、協力しながら知恵を出す、自己主張をしない)が、協力、連携という日本型自治になるという話を構想したが、中途半端になり、日本文化論に始終してしまった。和辻哲郎がいけなかった。
和辻哲郎と言えば、私が大学時代は、批判の対象だった。当時は、マルクス・エンゲルスのドイツイデオロギーを読み、経哲草稿を読むのが普通の学生だった。しかし、正直に言うと、私には、和辻哲郎の『風土』のほうが、素直に頭に入ったことを覚えている。なるほど、アジアモンスーン型の自然環境や暮らしが、受容的・忍従的な日本社会をつくっていて、そこを打ち破らなければ先へは進めないと考えたのだった(だから、当時は地方自治は、乗り越えるべき対象だった)。当時、頭でっかちで実体験が乏しく、連れ合いのいう「いや♡」は、時には「Yes」だということが分からず、表面的なスジ論、あるべき論だけで物事の正邪を判断していた若者にとっては、環境決定論的な物言いは、とても分かりやすかったのだと思う。
さて、次回であるが、当初は、七人侍をやろうと考えていた。住民は、決して虐げられていたばかりではなく、むしろしたかかで、しぶといものだという話であるが、失敗が2回続くと、学生も迷惑なので、ちょっと、守りに入ろうか、迷っている。