苦しみから逃れるための山登り・・・・・・・
金曜日、会社が引けると、その足で会社の地下室の倉庫に(不法に?)置いていた山登りの道具、服装、リュックで登山着に着替え、そのまま新宿駅に出て・・・
少しばかりスナックで飲み、その後、夕食を済まし夜行の最終列車(鈍行23時58分?)で中央線の沿線の山に向かったものだ。
列車では通路に新聞紙を敷き広げてその上に寝た。
この列車は登山列車と言われるくらい登山者でいつも一杯だった。
他の乗客の方には随分と迷惑なことだったと思う。
そのためトイレに行く方は通路に寝ている我々をまたぎながらトイレを往復されたみたい?思い出の列車である。
鳳凰三山、北八が岳、白馬・・・・尾瀬、苗場、等 一泊2日か?2泊3日の山小屋泊まりの山行である。
寮に帰り着くのは何時も日曜日の午後10時を過ぎていた。
この時間になると静かな世田谷の会社の独身寮の近くでは食事をするお店はない。
幸い近くにラーメン屋が一軒開いていた。
だから何時もそこで夕食を取ったものだ。
山登りは以後 Y市に転勤するまで10数年続いた。
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仕事でもお付き合いが深かった友にある日の休日に山登りを誘った。
彼は山登りの経験は全くなかった。然し興味を示したので共に行くことにした。
そして彼と共に登ったのが、この鳳凰三山であり、夜叉人峠から入り薬師岳を登り坊主から鳳凰小屋に行き青木鉱泉に下ったコースだった。
このブログを読んでいたのか?と思うほど、この時期に当時 私と一緒にこの
鳳凰三山を共に縦断した仲間から葉書がつい先日来たので掲載するつもりだった。
残念今、その葉書が見当たらない。先日来探していたが遂に見つからない。
彼が高所恐怖症だったとは、その時(登山当時)まで知らなかったものだ。
彼の名誉の為に詳しい内容は記載しないが?よほど懲りたものと伺える。
そうして、今もって(あれから今は既に30年近く経っている)時折こうして様子を報せた葉書が来る。
この葉書にも「もう危険な山登りは止めました」と書いてある。
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彼は私と異なり仕事は生真面目そのものだった。
趣味も書道(竜峡書道会)、詩吟、謡(宝生流)、を嗜み、その教室は常に私と共にしたものだ。
私は、これらの他に囲碁、将棋、登山、と勤務時間が過ぎても一週間 暇なしのためこれらは、よく休んだ。
その上に映画、音楽、絵画、鑑賞にも、何故か?よく誘われた。
飲み屋は別格で、これは毎夜であった。
そのようなわけで趣味は休むことが多く特に「能」の会では専務からも、時に直接 デスクに電話があった。
「仕事ばかりが能でない!今日は出て来い」だった。否応(イヤオウ)なしだ!
こんな時の言葉ではないが「サラリーマン」は辛いな~と思うのは我侭か?
仲間が 私が休む言い訳に仕事が忙しいためと繕(ツクロ)っていたようだった。
(実際は新宿の“養老の滝”などで飲んで居たりして・・・・)
電話のあった、その時は仕方なく少し遅れて参加して太った身体を更に膨らませて、30分くらい、先生の前で、うんうん唸ったものだった。
冬でも唸った後は全身が汗でビッショリと出る。
暖房の所為だけではない。
下っ腹に力を入れて声を出すことが如何にエネルギーを使うか?だ。
それでも山登りとなると別格だった。この山登りはまたの機会に・・・・。
次回はこの山登りです
然し、幸せなことに、いい上司と仲間に恵まれていました。今、振り替えますと、いい時代だったと思います。
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
何時も心に”青い山”を求めて登っていたのでは?
寸暇を惜しんで趣味に打ち込んでいらしたのですね。
登山は趣味を超えていますよ。
私の近くに大雪連山があるのに、登山は2度体験しただけです、感動より辛さだけが残りました。
osamuさんの膝の痛みは登山の無理が出たのではないでしょうか。