もう、父が逝ってから、ずいぶんになる。
父のことをふいに思い出したのは、素敵なブログ「うめと愉快な仲間たち」のおかっぱさんのところで
認知機能が落ちてきたお母様が、電話魔になっていて、という記事を読んだから、だな。
亡父は、74才(数え年で、です、実年齢は72才)の時、いわゆる「中り(あたり)」、平たく言えば脳梗塞で、一ヶ月保たないだろうと言われながら
その後19年7ヶ月生き延び、亡くなったあと、火葬場の方に
『お若かったんですね、骨が、六十代でした。』
と言わしめた、単純に言うと、人の言うに「動けるデブ」だった^^;;
中ったとき、100キロを越える体重で、「家に帰る」と動かない身体で暴れまくり。
だいたい、朝ご飯の時に「病院になんか行かない」と、きかないのを、あたしが、
なんか様子が変だから、試しに診てもらいましょ、なんともなかったら、笑えばいい、だけでしょ?
と、無理矢理車に乗ってもらって、連れてったのだった。
病院の駐車場に着いた時には、降りようと足を伸ばした、けど動けなくなってて、看護師さんたちがストレッチャー持ってきた時には
もう、意識が飛んでしまって、という状態だったもので、本人、病気だという自覚が、無いのだ。
動かないから、ずりずりずり、となんとなくズレ動いて、そのまんま、ベッドからずっどーーん、と、地響き立てて落ちた、そうで。
何度も何度もやらかすから、お医者様も看護師さんたちも、かなり往生なさったらしい。
またベッドに持ち上げるの、どんなにか大変だったことか。
申し訳ありません、と、平謝りしながら、亡母と相談した。
心肥大で、心臓側に中ってる、ということは。
この体重をなんとかせねば、そうでなくても動きづらい心臓が、息切れするんでないだろか。
それをお医者さまに相談したら、体重落としましょ、と。
幸いに入院してますもので、食事管理は、プロにお任せで。
なんと、38キロの減量に成功。85キロになった♪
無事退院の日の、嬉しかったこと。
ぼーーー、っとした状態の父の看護をしながら、あっちが不具合、といえば、その専門病院へ。
こっちが不調と言えば、それを得意とする病院へ、と、父母を乗せて、毎日運転手してたんですわ。
そうこうしてる間に、一年半が経った頃。市内の病院に向かってる途中の車内で。
後部座席で、父がジョークかました時は、何が起こったのか理解できなくて、助手席の母と顔を見合わせ。
おとうさん、何言ってるだ???
あ、さっきのは、冗談なんだ、と、気づいた時は、急ブレーキかけて路肩に停まり、母と手を取り合って涙と笑顔でぐしゃぐしゃになったっけ。
父は、恥ずかしそうに、にこにこしてた。
あのあたりから、どんどん、精神の方も回復していった、のだったけれど。
それが、電話魔になる準備期間だったんだな。
わたしは、一人っ子として溺愛されて育ち、大昔のことで、そこらへの移動には自転車を使ってたので
よく籠に入れられて、父とともに風を切って走ったものだった。
昔の自転車は、前の部分に幼児用の籠を取り付けるんですよ^^
安全ベルトとか無かったな、ヘルメットだって、バイクに乗っててもかぶってない人大勢居たよ。
今思えば、ずいぶんと雑な仕様だが、みんなそうだから、不思議とも思わず。
どこにでも、乗っけてってくれた。まぁ、いつも、くっついてた、ようなもんで。
結局、父が死ぬまで、ずっと一緒だった、ってことだったんだな。
成長してからは、昔のことで、運転免許が16才でとれたもんで、いらい、ずぅっと、学生時代以外、家族の運転手。
亡母が、後に言っていた。
『あの時(あたしが免許取得した時)に、一緒に免許取っておけばよかった。
うっかり、あなたの免許取得の教科書を読んでしまったもので、あー、これはダメだ、と、すくんでしまった。
若い頃みたいに、なにさ、こんなもん、って、挑戦しとくんだったわ~~~。残念!』
あたしも、思ったよ。母さんが免許持ってたら、ずいぶんと楽だったろうな、あたしが(ヲイ・・・)。
ちょっと「そこ」まで、行くのにも、いちいち、あたしを呼び出して、何をやってても中断させて^^;;
あたしは運転は嫌いじゃないけど、運転手をやってると、その間中、家から離れなきゃならんのよ。
置いて帰れば、もう少しなんとかなったかも、だけど、用事が終わるまで待ってろ、って言うんだもん。
家の仕事(掃除洗濯もろもろ)が、毎日真夜中になってしまうでないの。
でも、1度しか、文句言ったこと、無いです。
なんで1度?
あんまり横暴だから。たいしたこともない用事に呼び出すし、「いまやってるあたしの用事が終わるまで待って」って
言ったら、ダメだ、と。先に頼まれた用事を済ませてから、続きをやったらいいでしょ、って言うのよ。
確か、五分くらい先の場所に、何か(たいしたもんでなかったから、忘れた)を買いに行く、かなんかだった。
で。
むっす~~~、っとして、ひとこと、言ったの。ちっっさな声で。
『イヤです。』ぼそっ。
そしたら。
大きな大きな目を、さらに見開いて、固まっちゃって。
その目から、それは大きな涙の粒が、ぼろんぼろんぼろん、落ちるのよ。
こどものくせに、親に、イヤだ、って、言う?言うの?信じられない!!
ずーーーっと、泣くの。延々と、大粒の涙が、出るの。
もう、本気でイヤになっちゃって。
うざったい、っていうことを、身にしみて感じた、初めての反抗は、あたしが42才の時だった。
もう、四十過ぎてるのに、あたしの意見って、言えないの?と尋ねたら
四十が八十でも、親は親、子は子です!ひっくり返ることは、ありません!!
・・・・・(T_T) マジ、うざい。。。。
42までがまんしたんだもの、この先も変化なくても、変わりないわ、きっと。
こんなウザい罪悪感にまみれるの、イヤだ。
で、それ以来、母の言葉にイヤと言ったこと、無いです。
イヤって言わなくても、ちゃんと(?)暮らせた。^^;;
だけど。
亡母の言い分も、わかっちゃうんだな。
昔の免許は、車の簡単な修理くらいはできないと、っていうのよね。
今みたいに「法規」わかってたら良い、なんてもんでなかった。
オートマなんて、ありまっしぇ~~ん。
あたしも、高校生だったから、勉強の合間にちょろっと、では、通らなかったよ。
構造の試験で、一回落ちた。難しかったよ。
車の数そのものが少なかったからねぇ。ガソリンスタンドも、そうそう無くて。
携帯もない、ドライブインも無かった。
もしドライブ中に故障したら、熊に食われて死ぬ前に、自力でなんとかしないといけなかったんだ。
もちろん、タイヤ交換なんて、出来て当たり前、それ以外の、「なにか」のこと、よ。
JAF、なんてのも無かったし。
あたり、山だらけだし。
で、すごく単純なこと、くらいは、基礎知識として、知っとけ、みたいな?
スパークプラグを出かける前に点検、なんか、今の人、やらんでしょ。
しかも。
なんと、自動車運転免許で、ナナハンの免許も一緒にもらえた・らしいのよ。
すっごい、っぺ??
ナナハンって、知ってる?オートバイよ、白バイの、あれよ?
・・・・そんなもんの構造まで、いったい、どうしろと言うだ。ボソ。ないない。
ま。
もう少し前には、警察に出向いて「おら、運転する。」と、口頭で申請すると、
『そっか、気をつけて、な。』と、免許をもらえた、ってさ。あぶねべ~~~。
それが危険と認識されたから、試験なんてもんが出てきたんだべ?
実際がとこ、役立たずだ、っちゅうてんで、あたしが一回落ちたあとに、ナナハンは取得案件から外されたそうで。
青森市まで、半年に一回(学校が長期休暇に入ってないと、遠出できなかった)の免許取得試験に出向いた時は、もう、ナナハンの免許は、もらえなかった。
どんどんどんどん、時代に合わせて進んでく。まさに、昭和そのものだった。
その、めんどかった教科書。
いきなり、あれ(構造の方の教科書)見たら、ねぇ。
わかるわぁ。『見ただけでめんどい』、って気持ち。
脱線、し放題だよ(汗
電話魔の、こと。
中るってね、仲間と話が通じなくなる、こと。
言葉が出ない。頭の中身が、まとまらない。
あぁ、この話題、って、近づいたら、もう、別の話題になってて、っていう。
家の中に、四カ所の子機が、あった。
電話、使ってないのに、電話料が上がってた。
後に、苦情が来て、わかった。
夜中の一時とか、明け方の三時四時とかに、ふっと目覚めた亡父が、知り合い中に電話をかけまくっていた、のだった。
亡父自身ももう「いい年」で、友人知人も療養中とか、入院中とか、亡くなってた方々も多かった、のに。
ご家族の方が『申し訳ありません、今(入院中で、または亡くなっていて)居ないんです。』とお断りしても。
次の夜に、さらにその翌日に、また、もう帰りましたか、と、電話してくる、というのだった。
日中居眠りばかりしてる亡父は、家族が寝静まってしまうと、心細くなって、電話をかけている、らしかった。
取り急ぎ、米つきバッタよろしく、平謝りに謝り倒す。
苦情を言ってこない方も、たぶん、おいでなのだろう。
即刻、業者さんを呼んで、子機を回線ごと全撤去。(今みたいなコードレスとか無かった時代)
親機は、すぐに出られないようなことに、なってまして。
当時は携帯も無かったので、もう、電話は、現在でも留守電のみ。
昔を思えば、電話が無い家庭がほとんどで、よく、遠くから電話が来ると、よそのお宅に走って迎えにいったなぁ。
誰それさんから、お宅当てに、電話が来てますよ~、って。
交換手さんが、待っててくれるの。
んで、「どこそこから、誰それさんあてにかかってますが、出ますか?止めますか?」と。
隣近所、仲良くて。
のどかだった。(・・・遠い目・・・)
父が中ったときは、もう、各家庭に電話が設置されてた頃合いで。
それで、たくさん、失礼いたしました。
だけど。
家族からすると、その「かけたい」気持ち、わかるのよね。
病気になって、自分ではどうにもできない、ことだった、のよね。
まだ若かったあたしは、亡父に一言、言おうとしたら、亡母が必死で止めた。
『おとうさんが、やってるんでないの。病気が、そうさせてるの。
お父さんを怒っても、何一つ解決しないの。怒るだけ損なの。自分が惨めになるだけなの。
小さい子どもに、そうするように、大きな気持ちでみてあげて。』
困り果てて、とりあえず子機を撤去したけど、その後のフォローが大変だったよ。
なにせ、介護施設なんて、無かった時代。
親の介護は子どもがやる。それ以外、考えつきもしなかった頃。
他の選択肢がたくさんあって、今の人たちは幸せ。
問題は、幸せなんだということを、自分自身が認識できてないという不幸せ、あたりかな?
温泉に連れてったり、愛車を飛ばして何百キロも走ってマラソン大会見に行ったり、父が望むことを望むように、と、毎日毎日頑張ったさ。
一週間の予定に、12~13個入ってる。よくこなせたもんだ。昔の自分を褒めてあげたい。
一週間に十日来い、って、歌があったくらい、昔の人はエネルギッシュだった。。。。みたいだなぁ(もはや、他人事のように)
満足したら、疲れて、にこにこしながら、夜もぐっすり眠れてたみたいだし。
元々優しい人だったから、豹変したつうても、根性悪くなったわけでない。
思うことを、思うままに表現できない、だけなのだ。
あたしが幼かった頃には、泣きわめいて迷惑かけた、かもしれないし。
記憶には皆無なんだけど、きっと、あるんだろう、そういうこと。
そのお返し、と思えば。
思えばいいけど、これがまた、なかなか難しいっす。
何かのリアクションを起こす前に、まず深呼吸。これ、大事。
お釈迦様の苦行を思えば、きっと、楽なもんなんだから。
怒りは己の内から発するもの。自分で押さえる、のは、必ず出来る、に、違いない。
呪文のように唱えとなえて、二十年も経てば、けっこう気楽に、なった?かな??。。。。みたいな。
悔やまれることが、ひとつだけ、ある。まったくの「ぼやき」なのだが。
あたしは、父が倒れるまえ、太極拳の師範になるべく、懸命に勉強し、鍛錬していた。
ゆくゆくは自宅近くに支部を立ち上げようと、かなり真面目にやっていた。
毎日元気にしてた父が、倒れてしもて。
「介護のために」と覚悟を持ってすべて投げ出して、一人娘の宿命と思って自分に気合いを入れて頑張った。
ごくごくたまに、誰も居ないところで、本気で泣いた。
あれだけは、もう、どうにもならないことだけど、やりたかったなぁ、と、ひそかに、ぼんやりと思ってる。
亡父の介護の時のことを思えば、猫百匹の世話なんか、気持ち的にはたいしたことなかった、ほんと。
実際は、救急車で運ばれて、マジ、死にかけたけど、ね^^;;
自分も老いている、ということまで、気が回らなかった。とほほ。
なにせ、気持ちは「万年八歳」だもんで(--;;
人間は、つながりたい、生き物なんだなぁ、って、しみじみしみじみ。思うよ。
ま、つながりたいからといって、誰彼かまわず噂する(しかも、あらかたがデマ)ってのは、どうかと思うけど、ね。
そういう人は、自分自身に、少しは誇りを持って、と、ちょっとだけ、思っちゃうよ。
うぁ~~~、長くなりすぎて、自分でも飽きてきた。
もっと別のこと、書きたかった、のに。
脱線大臣だもんで、ごめんしてね(冷や汗
ここまで読んでくれて、ありがと。
誰かの、何かの、心の発見や慰めに、なればいいな。
みんなが、やさしい気持ちで過ごせますように。
見出し画像は、亡父の愛した、紫色のクロッカスです。
ここ、書き足し。
父が中った前日。
どなたかの結婚式に出席し、食べ放題飲み放題で大騒ぎした父が帰宅した時。
その顔が、ゆでたカニ、または熟しすぎた柿、みたいな色だった。
おかしな言い方だが、それが一番近いと思う。
あたしの記憶の中では、初めて目にしたもの。
で。
ちょっと飲み過ぎでない?今夜はお風呂に入らないでお休みなさいよ、と声をかけたのに。
いーや、入る♪
と、上機嫌で熱い湯に入浴。
たまたま、果物がなくて、そのまま休んだのだったよ。
いつもなら、飲んで帰ると、リンゴや梨、スイカにミカンなど、なんでもいい、果物をたくさん食べて、休んでた。
今だったら、果実ジュースとかでも良いと思う、加糖してないものなら。
いっそ、ただの水やぬるま湯でも、いいかも。わかんないけど。
果物を摂ったあとの尿は、澄んでいた。
昔のこととて、夜間の排尿はおまるに、だったから、片付ける時に健康チェックできてたんだよ。
なんで、おまる?
当時のトイレは、庭の一番向こう側に、いわゆる「外便所」でしたから。
雪国の外便所。南国の人には、ちょっと理解しづらいだろな~^^;;
摂らなかった翌朝は、尿が白く濁ってたり、色が異常に濃かったりしてたんだ。
詳しい人なら分かると思う。
あたしは、詳しくないから、なんとなく見た目で不快な感触だったから、記憶してる。
片付けながら、思った。
すぐかたすと良いのだが、うっかり一日放置すると、澱のようなものが縁に凝固してたりする。
きっと、身体に良くない状態なのでは?などと思ったが。
父は健康に絶対的な自信を持っていて、「だいじょぶ、だいじょぶ♪」としか言わなかった。
今思うに、あれは、きっと『怖かった』のではないかな、と。
なにかしらの病名がつくとか、そういうこと。それが、イヤだったのではないかしらん。
病院に行くたびに、やせなさいって言われるのが嫌いだった、父。
自分で頑張らないから、強制的に痩せさせられたんだよね。
ぽっちゃり、は愛らしいけど。度を超すのは、やっぱり、心配だよ。
痩せすぎも、良くないけどね、見た目に恐怖だ。
と、長すぎる記事に、さらに追加する根性って、けっこう悪いかもしれん。
ごめん。
書き足し終わり。
父のことをふいに思い出したのは、素敵なブログ「うめと愉快な仲間たち」のおかっぱさんのところで
認知機能が落ちてきたお母様が、電話魔になっていて、という記事を読んだから、だな。
亡父は、74才(数え年で、です、実年齢は72才)の時、いわゆる「中り(あたり)」、平たく言えば脳梗塞で、一ヶ月保たないだろうと言われながら
その後19年7ヶ月生き延び、亡くなったあと、火葬場の方に
『お若かったんですね、骨が、六十代でした。』
と言わしめた、単純に言うと、人の言うに「動けるデブ」だった^^;;
中ったとき、100キロを越える体重で、「家に帰る」と動かない身体で暴れまくり。
だいたい、朝ご飯の時に「病院になんか行かない」と、きかないのを、あたしが、
なんか様子が変だから、試しに診てもらいましょ、なんともなかったら、笑えばいい、だけでしょ?
と、無理矢理車に乗ってもらって、連れてったのだった。
病院の駐車場に着いた時には、降りようと足を伸ばした、けど動けなくなってて、看護師さんたちがストレッチャー持ってきた時には
もう、意識が飛んでしまって、という状態だったもので、本人、病気だという自覚が、無いのだ。
動かないから、ずりずりずり、となんとなくズレ動いて、そのまんま、ベッドからずっどーーん、と、地響き立てて落ちた、そうで。
何度も何度もやらかすから、お医者様も看護師さんたちも、かなり往生なさったらしい。
またベッドに持ち上げるの、どんなにか大変だったことか。
申し訳ありません、と、平謝りしながら、亡母と相談した。
心肥大で、心臓側に中ってる、ということは。
この体重をなんとかせねば、そうでなくても動きづらい心臓が、息切れするんでないだろか。
それをお医者さまに相談したら、体重落としましょ、と。
幸いに入院してますもので、食事管理は、プロにお任せで。
なんと、38キロの減量に成功。85キロになった♪
無事退院の日の、嬉しかったこと。
ぼーーー、っとした状態の父の看護をしながら、あっちが不具合、といえば、その専門病院へ。
こっちが不調と言えば、それを得意とする病院へ、と、父母を乗せて、毎日運転手してたんですわ。
そうこうしてる間に、一年半が経った頃。市内の病院に向かってる途中の車内で。
後部座席で、父がジョークかました時は、何が起こったのか理解できなくて、助手席の母と顔を見合わせ。
おとうさん、何言ってるだ???
あ、さっきのは、冗談なんだ、と、気づいた時は、急ブレーキかけて路肩に停まり、母と手を取り合って涙と笑顔でぐしゃぐしゃになったっけ。
父は、恥ずかしそうに、にこにこしてた。
あのあたりから、どんどん、精神の方も回復していった、のだったけれど。
それが、電話魔になる準備期間だったんだな。
わたしは、一人っ子として溺愛されて育ち、大昔のことで、そこらへの移動には自転車を使ってたので
よく籠に入れられて、父とともに風を切って走ったものだった。
昔の自転車は、前の部分に幼児用の籠を取り付けるんですよ^^
安全ベルトとか無かったな、ヘルメットだって、バイクに乗っててもかぶってない人大勢居たよ。
今思えば、ずいぶんと雑な仕様だが、みんなそうだから、不思議とも思わず。
どこにでも、乗っけてってくれた。まぁ、いつも、くっついてた、ようなもんで。
結局、父が死ぬまで、ずっと一緒だった、ってことだったんだな。
成長してからは、昔のことで、運転免許が16才でとれたもんで、いらい、ずぅっと、学生時代以外、家族の運転手。
亡母が、後に言っていた。
『あの時(あたしが免許取得した時)に、一緒に免許取っておけばよかった。
うっかり、あなたの免許取得の教科書を読んでしまったもので、あー、これはダメだ、と、すくんでしまった。
若い頃みたいに、なにさ、こんなもん、って、挑戦しとくんだったわ~~~。残念!』
あたしも、思ったよ。母さんが免許持ってたら、ずいぶんと楽だったろうな、あたしが(ヲイ・・・)。
ちょっと「そこ」まで、行くのにも、いちいち、あたしを呼び出して、何をやってても中断させて^^;;
あたしは運転は嫌いじゃないけど、運転手をやってると、その間中、家から離れなきゃならんのよ。
置いて帰れば、もう少しなんとかなったかも、だけど、用事が終わるまで待ってろ、って言うんだもん。
家の仕事(掃除洗濯もろもろ)が、毎日真夜中になってしまうでないの。
でも、1度しか、文句言ったこと、無いです。
なんで1度?
あんまり横暴だから。たいしたこともない用事に呼び出すし、「いまやってるあたしの用事が終わるまで待って」って
言ったら、ダメだ、と。先に頼まれた用事を済ませてから、続きをやったらいいでしょ、って言うのよ。
確か、五分くらい先の場所に、何か(たいしたもんでなかったから、忘れた)を買いに行く、かなんかだった。
で。
むっす~~~、っとして、ひとこと、言ったの。ちっっさな声で。
『イヤです。』ぼそっ。
そしたら。
大きな大きな目を、さらに見開いて、固まっちゃって。
その目から、それは大きな涙の粒が、ぼろんぼろんぼろん、落ちるのよ。
こどものくせに、親に、イヤだ、って、言う?言うの?信じられない!!
ずーーーっと、泣くの。延々と、大粒の涙が、出るの。
もう、本気でイヤになっちゃって。
うざったい、っていうことを、身にしみて感じた、初めての反抗は、あたしが42才の時だった。
もう、四十過ぎてるのに、あたしの意見って、言えないの?と尋ねたら
四十が八十でも、親は親、子は子です!ひっくり返ることは、ありません!!
・・・・・(T_T) マジ、うざい。。。。
42までがまんしたんだもの、この先も変化なくても、変わりないわ、きっと。
こんなウザい罪悪感にまみれるの、イヤだ。
で、それ以来、母の言葉にイヤと言ったこと、無いです。
イヤって言わなくても、ちゃんと(?)暮らせた。^^;;
だけど。
亡母の言い分も、わかっちゃうんだな。
昔の免許は、車の簡単な修理くらいはできないと、っていうのよね。
今みたいに「法規」わかってたら良い、なんてもんでなかった。
オートマなんて、ありまっしぇ~~ん。
あたしも、高校生だったから、勉強の合間にちょろっと、では、通らなかったよ。
構造の試験で、一回落ちた。難しかったよ。
車の数そのものが少なかったからねぇ。ガソリンスタンドも、そうそう無くて。
携帯もない、ドライブインも無かった。
もしドライブ中に故障したら、熊に食われて死ぬ前に、自力でなんとかしないといけなかったんだ。
もちろん、タイヤ交換なんて、出来て当たり前、それ以外の、「なにか」のこと、よ。
JAF、なんてのも無かったし。
あたり、山だらけだし。
で、すごく単純なこと、くらいは、基礎知識として、知っとけ、みたいな?
スパークプラグを出かける前に点検、なんか、今の人、やらんでしょ。
しかも。
なんと、自動車運転免許で、ナナハンの免許も一緒にもらえた・らしいのよ。
すっごい、っぺ??
ナナハンって、知ってる?オートバイよ、白バイの、あれよ?
・・・・そんなもんの構造まで、いったい、どうしろと言うだ。ボソ。ないない。
ま。
もう少し前には、警察に出向いて「おら、運転する。」と、口頭で申請すると、
『そっか、気をつけて、な。』と、免許をもらえた、ってさ。あぶねべ~~~。
それが危険と認識されたから、試験なんてもんが出てきたんだべ?
実際がとこ、役立たずだ、っちゅうてんで、あたしが一回落ちたあとに、ナナハンは取得案件から外されたそうで。
青森市まで、半年に一回(学校が長期休暇に入ってないと、遠出できなかった)の免許取得試験に出向いた時は、もう、ナナハンの免許は、もらえなかった。
どんどんどんどん、時代に合わせて進んでく。まさに、昭和そのものだった。
その、めんどかった教科書。
いきなり、あれ(構造の方の教科書)見たら、ねぇ。
わかるわぁ。『見ただけでめんどい』、って気持ち。
脱線、し放題だよ(汗
電話魔の、こと。
中るってね、仲間と話が通じなくなる、こと。
言葉が出ない。頭の中身が、まとまらない。
あぁ、この話題、って、近づいたら、もう、別の話題になってて、っていう。
家の中に、四カ所の子機が、あった。
電話、使ってないのに、電話料が上がってた。
後に、苦情が来て、わかった。
夜中の一時とか、明け方の三時四時とかに、ふっと目覚めた亡父が、知り合い中に電話をかけまくっていた、のだった。
亡父自身ももう「いい年」で、友人知人も療養中とか、入院中とか、亡くなってた方々も多かった、のに。
ご家族の方が『申し訳ありません、今(入院中で、または亡くなっていて)居ないんです。』とお断りしても。
次の夜に、さらにその翌日に、また、もう帰りましたか、と、電話してくる、というのだった。
日中居眠りばかりしてる亡父は、家族が寝静まってしまうと、心細くなって、電話をかけている、らしかった。
取り急ぎ、米つきバッタよろしく、平謝りに謝り倒す。
苦情を言ってこない方も、たぶん、おいでなのだろう。
即刻、業者さんを呼んで、子機を回線ごと全撤去。(今みたいなコードレスとか無かった時代)
親機は、すぐに出られないようなことに、なってまして。
当時は携帯も無かったので、もう、電話は、現在でも留守電のみ。
昔を思えば、電話が無い家庭がほとんどで、よく、遠くから電話が来ると、よそのお宅に走って迎えにいったなぁ。
誰それさんから、お宅当てに、電話が来てますよ~、って。
交換手さんが、待っててくれるの。
んで、「どこそこから、誰それさんあてにかかってますが、出ますか?止めますか?」と。
隣近所、仲良くて。
のどかだった。(・・・遠い目・・・)
父が中ったときは、もう、各家庭に電話が設置されてた頃合いで。
それで、たくさん、失礼いたしました。
だけど。
家族からすると、その「かけたい」気持ち、わかるのよね。
病気になって、自分ではどうにもできない、ことだった、のよね。
まだ若かったあたしは、亡父に一言、言おうとしたら、亡母が必死で止めた。
『おとうさんが、やってるんでないの。病気が、そうさせてるの。
お父さんを怒っても、何一つ解決しないの。怒るだけ損なの。自分が惨めになるだけなの。
小さい子どもに、そうするように、大きな気持ちでみてあげて。』
困り果てて、とりあえず子機を撤去したけど、その後のフォローが大変だったよ。
なにせ、介護施設なんて、無かった時代。
親の介護は子どもがやる。それ以外、考えつきもしなかった頃。
他の選択肢がたくさんあって、今の人たちは幸せ。
問題は、幸せなんだということを、自分自身が認識できてないという不幸せ、あたりかな?
温泉に連れてったり、愛車を飛ばして何百キロも走ってマラソン大会見に行ったり、父が望むことを望むように、と、毎日毎日頑張ったさ。
一週間の予定に、12~13個入ってる。よくこなせたもんだ。昔の自分を褒めてあげたい。
一週間に十日来い、って、歌があったくらい、昔の人はエネルギッシュだった。。。。みたいだなぁ(もはや、他人事のように)
満足したら、疲れて、にこにこしながら、夜もぐっすり眠れてたみたいだし。
元々優しい人だったから、豹変したつうても、根性悪くなったわけでない。
思うことを、思うままに表現できない、だけなのだ。
あたしが幼かった頃には、泣きわめいて迷惑かけた、かもしれないし。
記憶には皆無なんだけど、きっと、あるんだろう、そういうこと。
そのお返し、と思えば。
思えばいいけど、これがまた、なかなか難しいっす。
何かのリアクションを起こす前に、まず深呼吸。これ、大事。
お釈迦様の苦行を思えば、きっと、楽なもんなんだから。
怒りは己の内から発するもの。自分で押さえる、のは、必ず出来る、に、違いない。
呪文のように唱えとなえて、二十年も経てば、けっこう気楽に、なった?かな??。。。。みたいな。
悔やまれることが、ひとつだけ、ある。まったくの「ぼやき」なのだが。
あたしは、父が倒れるまえ、太極拳の師範になるべく、懸命に勉強し、鍛錬していた。
ゆくゆくは自宅近くに支部を立ち上げようと、かなり真面目にやっていた。
毎日元気にしてた父が、倒れてしもて。
「介護のために」と覚悟を持ってすべて投げ出して、一人娘の宿命と思って自分に気合いを入れて頑張った。
ごくごくたまに、誰も居ないところで、本気で泣いた。
あれだけは、もう、どうにもならないことだけど、やりたかったなぁ、と、ひそかに、ぼんやりと思ってる。
亡父の介護の時のことを思えば、猫百匹の世話なんか、気持ち的にはたいしたことなかった、ほんと。
実際は、救急車で運ばれて、マジ、死にかけたけど、ね^^;;
自分も老いている、ということまで、気が回らなかった。とほほ。
なにせ、気持ちは「万年八歳」だもんで(--;;
人間は、つながりたい、生き物なんだなぁ、って、しみじみしみじみ。思うよ。
ま、つながりたいからといって、誰彼かまわず噂する(しかも、あらかたがデマ)ってのは、どうかと思うけど、ね。
そういう人は、自分自身に、少しは誇りを持って、と、ちょっとだけ、思っちゃうよ。
うぁ~~~、長くなりすぎて、自分でも飽きてきた。
もっと別のこと、書きたかった、のに。
脱線大臣だもんで、ごめんしてね(冷や汗
ここまで読んでくれて、ありがと。
誰かの、何かの、心の発見や慰めに、なればいいな。
みんなが、やさしい気持ちで過ごせますように。
見出し画像は、亡父の愛した、紫色のクロッカスです。
ここ、書き足し。
父が中った前日。
どなたかの結婚式に出席し、食べ放題飲み放題で大騒ぎした父が帰宅した時。
その顔が、ゆでたカニ、または熟しすぎた柿、みたいな色だった。
おかしな言い方だが、それが一番近いと思う。
あたしの記憶の中では、初めて目にしたもの。
で。
ちょっと飲み過ぎでない?今夜はお風呂に入らないでお休みなさいよ、と声をかけたのに。
いーや、入る♪
と、上機嫌で熱い湯に入浴。
たまたま、果物がなくて、そのまま休んだのだったよ。
いつもなら、飲んで帰ると、リンゴや梨、スイカにミカンなど、なんでもいい、果物をたくさん食べて、休んでた。
今だったら、果実ジュースとかでも良いと思う、加糖してないものなら。
いっそ、ただの水やぬるま湯でも、いいかも。わかんないけど。
果物を摂ったあとの尿は、澄んでいた。
昔のこととて、夜間の排尿はおまるに、だったから、片付ける時に健康チェックできてたんだよ。
なんで、おまる?
当時のトイレは、庭の一番向こう側に、いわゆる「外便所」でしたから。
雪国の外便所。南国の人には、ちょっと理解しづらいだろな~^^;;
摂らなかった翌朝は、尿が白く濁ってたり、色が異常に濃かったりしてたんだ。
詳しい人なら分かると思う。
あたしは、詳しくないから、なんとなく見た目で不快な感触だったから、記憶してる。
片付けながら、思った。
すぐかたすと良いのだが、うっかり一日放置すると、澱のようなものが縁に凝固してたりする。
きっと、身体に良くない状態なのでは?などと思ったが。
父は健康に絶対的な自信を持っていて、「だいじょぶ、だいじょぶ♪」としか言わなかった。
今思うに、あれは、きっと『怖かった』のではないかな、と。
なにかしらの病名がつくとか、そういうこと。それが、イヤだったのではないかしらん。
病院に行くたびに、やせなさいって言われるのが嫌いだった、父。
自分で頑張らないから、強制的に痩せさせられたんだよね。
ぽっちゃり、は愛らしいけど。度を超すのは、やっぱり、心配だよ。
痩せすぎも、良くないけどね、見た目に恐怖だ。
と、長すぎる記事に、さらに追加する根性って、けっこう悪いかもしれん。
ごめん。
書き足し終わり。
そんなさっきも、かずこから電話が。
凄く和やかだった。
チャー坊(実家に保護してる猫)は元気?と聞いたら
「それ、誰や?」て(笑)。
私も、今を後悔せぬよう、大切に過ごしたいと
拝読しながら思いました。
あれ、本人、けっこう「理解してる」んですよね。
たぶん、あちこちなんだろうけど。
大人の尊厳ってあるから、うっかりなことも言えないし、言ったらかなりの確率で根に持つし。
赤の他人には、とんでもないデマ吹くし。
「ご飯を食べさせてもらえません」って。
何言うだ、食べ盛りの高校男子くらい食べてるくせに、と思うけど
他人様の目の前で、親を嘘つき呼ばわりもできず。
客が帰ってから、「おとうさん、あれは酷いではありませんか」とべそをかくと、
いや、わたしが思うようには、食べさせてもらえてない、という意味だったのですが
などと、しらを切る始末で。
泣いてくってかかりたい場面、たっくさん、ありました。
歯を食いしばって食いしばって暮らしていたら、あたしの歯は、みんな縦割れしちまいました^^;;
いつも笑ってるね、って言われてたけど。
母が、あたしが幼い時に、白鳥は他人の目に見えない水の下で、懸命に水をかいて生きているんだ、って
こんこんと諭されて、それがトラウマになってたみたいで。
おかっぱさんみたいに、生きられたら、と、今更ですが、尊敬しています。
学ぶことがたくさんあって。
もっと早くに、知りたかったです。
いつも、ありがとうございます。学びを、ありがとうございます。^^
会社を畳んで畑仕事を始めた途端、母が警察に保護されてパトカーで自宅まで送り届けてもらったとか。警察から認知症の疑いを指摘されて一人暮らしでは心配でしょ?とも言われ。兄と妹に連絡しても仕事があるからと断られて無職になった私に母の事を押し付ける。やがて糖尿病が進行して食欲もないとほとんど食べず1か月で体重が20kg程減り、病院への送迎と付き添いで疲れてくると母にきつい言葉を投げつけるように。兄が大学病院の予約を入れるも連れて行くのは私。初めての収穫を終えて母を病院へ連れて行こうと迎えに行ったら玄関で亡くなってました。死後5日ほど経過してたらしい。12月の事なので遺体に腐敗もなく。母の世話を私に押し付けた兄と妹は精神的に病んでしまいどちらもその後離婚してます。兄弟を責める前に自らを省みるのが大切ですよね。親が死んで初めてあの時ああしていれば良かったと反省する人も多いと思います。
思い出すのも悲しかったでしょうに。。。
言葉を選べません。。。。お辛かったでしょう、と、ありきたりに言ってみても
悲しみや後悔の念のふかさに、呆然とする、のみです。
誰だって、老いていきたくて老いるのではない。
親子の愛情は、今よりもずっと深く重かったと、感じます。
保育所がなんたら、いうて騒ぎますが、あるだけ、まし、と罰当たりなこと、思ってしまう。
野良仕事に、赤ん坊をいんつこ(籠のように編んだ、赤ん坊の入れ物)に入れてあぜ道に置き
農作業の合間に乳を飲ませ。
運が悪いと、野良豚に、その赤ん坊をかじられた(食われた)、なんて事故もありましたよね、
スーパーもコンビニも無くて、それどころか電灯も存在せず
ランプがあるのは金持ちの家だけで、なんて、今の人たちには考えられないでしょうし
その暮らしに戻ることは不可能だしイヤですよね。
働くこと、お金を稼ぐこと、って、いったい、何なのでしょうか。
人間の幸せの根源って、どこをどう捉えたら、足りるのでしょうか。
何が正解で何がまちがっているのか、とらえることって、できるのでしょうか。
いま、はたして、言葉が心を伴って通じるってこと、どのくらいあるのでしょうか。
しゃちくんさんに、幸あれ、と。
とりあえず、再発だけは無いように、と、強く祈ります。
みんなが、敵だとか味方だとか考えずに暮らせる世の中に、なることって、あるのかなぁ、と、漠然と不安です。