今日は先日お邪魔した三原のお店に加工品をお届けに。
三原は毛利元就公の三男で、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が築城し発展していった城下町。1567年頃から、三原沖の岩小島を繋いで1580年代には「備後の浮城」と呼ばれ、両脇の河川と潮の干満を巧みに利用した天然の要塞として、その偉容は日本国中に広がったそうです。
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当然、水軍の拠点として海から城内には満潮時水路を伝い入ることも出来、貿易港としての機能もあったはず。
干潮時せめようにも、河口の堆積物は粘土質で進軍は不可能。船を繰り出し攻めれば、水軍の餌食と。。目の前に広がる瀬戸内の他水軍が加勢してきた事でしょう。
この地図の暗い部分が当時の海面及び、城掘り。完璧なまでの水城。機能的で無駄がなく世界にも例のない城郭だったことがわかります。
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現在の三原市は三原駅付近が本丸のあった場所で、ほぼ、その当時は海か水路だった場所。私が宿泊したホテルは三原港の付近でしたが海の底です。
肝心な城壁の画像なんですが、タブレットで記事を書いてるのでデジタルカメラから取り込むケーブルがありませぬ。
次の機会にでも。次回はゆっくり自転車で市内探索したいもんです。
paikaji