久しぶりの更新です。別にさぼっていたわけではなく、一生懸命お勉強をしていました。ただ歴史の翻訳比較作業があまりにも面白すぎて、そしてそれは際限がなく、何よりも答えがないということで、いつまでもきりがないのです。
例えば「卑弥呼はセベクネフィル女王で、邪馬台国はエジプトにあったのですよ」と言ったとして、誰がそれを本気で聞いてくれるだろう。まあ笑われるのが落ちでしょう。では以前記事に書いたようにヒッタイトが高句麗で、ミタンニが百済だったという話はどうだろうか。歴史は単独では成り立たず、相手が存在する以上その歴史に登場する人、場所、国それらすべてが確認されなければ単なる与太話に過ぎない。つまり際限がないというのはそれらすべてを検証しなければならなくなります。
現在調べているのは金管加羅国です。自分としては加羅諸国、伽耶、任那などに関しはその存在自体を疑っていて、さらに新羅、百済、高句麗の歴史も真実などどこにもないと感じていました。しかしここへ来て中国史はオリエント史の翻訳だという話から、日本史は朝鮮史の翻訳だというところに来て、さらに、朝鮮史もオリエントの翻訳だというややこしさ。
これは一体どういうことなのだ?つまり彼らは自分たちの歴史を意外と忠実に再現したと。ただし、その国の歴史ではなく、支配した人が経験してきた地域の歴史?になっているということか・・・?
まあ、こんな話をしていても埒が明かない。とても難しいことですが皆さまにもその悩みを味わっていただきたい。ちょっと長いのですが重要な文章を読んでいただきたい。そして私が毎日悩んでいる苦しみを少しわかっていただきたいのである。
さて、宋書と言う史書があります。宋と言うのはヘブライ王国の中国版と考えるわけで、宋書自体はヘブライ王国の立場から書かれたもののはずです。東洋史ではなくオリエント史として読んでいただけたら幸いです。
「倭国(エジプト18王朝)は高句麗(ヒッタイト)東南の大海の中にあって、その王は代々中国(メソポタミア王朝)に貢物を修めている。永初二年(421年)、高祖(ダビデ・武帝)は詔して言った。
倭国王讃(ハトシェプスト)は、万里(テーベ)の彼方から貢物を修めている。遠くにありながら忠誠を尽くすのは顕彰に値する。よって爵号を与えよ。
太祖(文帝・ソロモン)の元嘉二年(425)、讃はまた司馬の曹達を遣わし、上奏文を奉り土産物を献上した。
讃が死んで、弟の珍(トトメス3世)が王となった。使者を発見して貢献し、使持節・都督 倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称し、上奏文を奉りその官爵を認めて欲しいと求めた。詔して珍帝(トトメス3世)を安東将軍・倭国王(エジプト王)とした。珍はまた倭隋(アバリス王)たち13人に平西・征慮・冠軍・輔国の将軍号を授けて欲しいと願い出た。詔しこれをすべて許した。
元嘉二十年(443)倭国王(エジプト王)の済(アメンへテプ2世)が使者を遣わして奉献した。珍と同じく済もまた安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉二十八年(451)倭国王の済に使持節・都督倭 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 加羅(カリア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事を加え安東大将軍はもとのままとした。また済がすすめた二十三人を将軍・郡太守に任命した。
済が死に後継ぎの興(トトメス4世)が使者を遣わして貢献した。大明六年(462)世祖(ユダ王エアロポポ?)孝武帝は詔して言った。
倭王の後嗣である興(トトメス4世)は累代の倭王の忠誠をついで、外なる海に宋室の藩塀をなし、天子の徳化をうけて境域を寧んじ、このように恭々しく朝貢してきた。今、新たに辺土の守りを嗣いだのであるから爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ。
興(トトメス4世)が死んで弟の武が王位に即いた。武は使持節・都督倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア)加羅 秦韓(イタリア) 慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称した。」
まあ、こんな感じでどうでしょうか。これは「歴史は西から・・・」から引用させてもらったが、倭の五王を天皇に比定してゆくとさらに面白い。
ハトシェプト女王(在位BC1479-1458ごろ)は讃で、日本名では仁徳もしくは履中。
珍はトトメス3世(在位BC1479-1425ごろ)で日本では反正天皇、
済はアメンヘテプ2世(在位BC1453-1419ごろ)で日本では允恭天皇
興はトトメス4世(在位BC1419-1386ごろ)で安康天皇
武はアメンヘテプ4世(在位BC1364-1347ごろ)で雄略天皇となるようだ。
これをさらに進めヘブライ王国は金管加羅国であるという主張があり、これを比定してゆくと朝鮮史と日本史は同根になってゆく。
まあ、細かいことはともかくとして、言えることは日本の歴史や朝鮮の歴史と思われていた出来事が実はオリエントの出来事だったと。つまり彼らはエジプトからギリシャへ移動し、さらにトロイ戦争を経て北へ向かった派閥と海路で東へ向かった派閥があり最終的に日本に集まったと見ています。問題はその経路かな・・・・。海幸と山幸か?
それにしても・・・・紀元前15世紀ころの出来事が日本では紀元後の話になっている。もしこれが本当なら我々が習ってきた日本史ってのは一体なんなんだ?
お疲れさま。
例えば「卑弥呼はセベクネフィル女王で、邪馬台国はエジプトにあったのですよ」と言ったとして、誰がそれを本気で聞いてくれるだろう。まあ笑われるのが落ちでしょう。では以前記事に書いたようにヒッタイトが高句麗で、ミタンニが百済だったという話はどうだろうか。歴史は単独では成り立たず、相手が存在する以上その歴史に登場する人、場所、国それらすべてが確認されなければ単なる与太話に過ぎない。つまり際限がないというのはそれらすべてを検証しなければならなくなります。
現在調べているのは金管加羅国です。自分としては加羅諸国、伽耶、任那などに関しはその存在自体を疑っていて、さらに新羅、百済、高句麗の歴史も真実などどこにもないと感じていました。しかしここへ来て中国史はオリエント史の翻訳だという話から、日本史は朝鮮史の翻訳だというところに来て、さらに、朝鮮史もオリエントの翻訳だというややこしさ。
これは一体どういうことなのだ?つまり彼らは自分たちの歴史を意外と忠実に再現したと。ただし、その国の歴史ではなく、支配した人が経験してきた地域の歴史?になっているということか・・・?
まあ、こんな話をしていても埒が明かない。とても難しいことですが皆さまにもその悩みを味わっていただきたい。ちょっと長いのですが重要な文章を読んでいただきたい。そして私が毎日悩んでいる苦しみを少しわかっていただきたいのである。
さて、宋書と言う史書があります。宋と言うのはヘブライ王国の中国版と考えるわけで、宋書自体はヘブライ王国の立場から書かれたもののはずです。東洋史ではなくオリエント史として読んでいただけたら幸いです。
「倭国(エジプト18王朝)は高句麗(ヒッタイト)東南の大海の中にあって、その王は代々中国(メソポタミア王朝)に貢物を修めている。永初二年(421年)、高祖(ダビデ・武帝)は詔して言った。
倭国王讃(ハトシェプスト)は、万里(テーベ)の彼方から貢物を修めている。遠くにありながら忠誠を尽くすのは顕彰に値する。よって爵号を与えよ。
太祖(文帝・ソロモン)の元嘉二年(425)、讃はまた司馬の曹達を遣わし、上奏文を奉り土産物を献上した。
讃が死んで、弟の珍(トトメス3世)が王となった。使者を発見して貢献し、使持節・都督 倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称し、上奏文を奉りその官爵を認めて欲しいと求めた。詔して珍帝(トトメス3世)を安東将軍・倭国王(エジプト王)とした。珍はまた倭隋(アバリス王)たち13人に平西・征慮・冠軍・輔国の将軍号を授けて欲しいと願い出た。詔しこれをすべて許した。
元嘉二十年(443)倭国王(エジプト王)の済(アメンへテプ2世)が使者を遣わして奉献した。珍と同じく済もまた安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉二十八年(451)倭国王の済に使持節・都督倭 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 加羅(カリア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事を加え安東大将軍はもとのままとした。また済がすすめた二十三人を将軍・郡太守に任命した。
済が死に後継ぎの興(トトメス4世)が使者を遣わして貢献した。大明六年(462)世祖(ユダ王エアロポポ?)孝武帝は詔して言った。
倭王の後嗣である興(トトメス4世)は累代の倭王の忠誠をついで、外なる海に宋室の藩塀をなし、天子の徳化をうけて境域を寧んじ、このように恭々しく朝貢してきた。今、新たに辺土の守りを嗣いだのであるから爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ。
興(トトメス4世)が死んで弟の武が王位に即いた。武は使持節・都督倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア)加羅 秦韓(イタリア) 慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称した。」
まあ、こんな感じでどうでしょうか。これは「歴史は西から・・・」から引用させてもらったが、倭の五王を天皇に比定してゆくとさらに面白い。
ハトシェプト女王(在位BC1479-1458ごろ)は讃で、日本名では仁徳もしくは履中。
珍はトトメス3世(在位BC1479-1425ごろ)で日本では反正天皇、
済はアメンヘテプ2世(在位BC1453-1419ごろ)で日本では允恭天皇
興はトトメス4世(在位BC1419-1386ごろ)で安康天皇
武はアメンヘテプ4世(在位BC1364-1347ごろ)で雄略天皇となるようだ。
これをさらに進めヘブライ王国は金管加羅国であるという主張があり、これを比定してゆくと朝鮮史と日本史は同根になってゆく。
まあ、細かいことはともかくとして、言えることは日本の歴史や朝鮮の歴史と思われていた出来事が実はオリエントの出来事だったと。つまり彼らはエジプトからギリシャへ移動し、さらにトロイ戦争を経て北へ向かった派閥と海路で東へ向かった派閥があり最終的に日本に集まったと見ています。問題はその経路かな・・・・。海幸と山幸か?
それにしても・・・・紀元前15世紀ころの出来事が日本では紀元後の話になっている。もしこれが本当なら我々が習ってきた日本史ってのは一体なんなんだ?
お疲れさま。