さてと・・・、東京五輪が無観客で開催となるようですね。東京の不自然な陽性者数にはあきれるしかないが、そこまでして五輪で利益を出させないようにするとは、よほど支配者内部でも嫌われ者の派閥が五輪を主催していると見える。
まあ、庶民には気の遠くなるほどの損害が発生するように思えるが、我々が心配してもしょうがない。とにかく早くこのコロナ騒動が収束するのを祈るしか方法はないのだ。
現在、毎日歴史捏造の研究ばかりしていて、そんなことに興味のない皆様には全く申し訳ない気持ちでいっぱいです。しかし人生もあまり残りが少なくなってきている現在、少しでも真実の歴史を知りたいのです。
今日は隋と高句麗の戦争とヒッタイトとエジプトとの闘いの比較作業をしてみます。退屈かもしれませんが、これが私の日課になっています。
少しおさらいしましょう。前にエジプト18王朝でソロモンとハトシェプト女王との子供がアメンヘテプ2世で、宋書では倭国王済、日本史の履中天皇だとしました。
しかしその次は一神教に反対派であるトトメス4世が就き、アメンヘテプ2世の子供であるアメンヘテプ3世が王になるのはその死後になる。そしてその子アメンヘテプ4世が倭王武で雄略天皇と比定する。この武が例の宗教革命を起こし失敗する。死ぬのはBC1330。この後18王朝は弱体化しツタンカーメンのころに多神教に戻る。
要は、このころ倭国はエジプトを離れギリシャ方面へ移動したと考える。従って19王朝はまったく別の国と考えます。
「当時のヒッタイト王シュッピルリウマはエジプト域外における最高権力の調停役としてあり続けたが、間もなく自分の息子とツタンカーメンの未亡人の婚姻を通じてエジプトと同盟することを模索した。だが、その息子は目的地へ到着する前に明らかに殺されており、この同盟が結ばれる事はなかった。」wikiより
ツタンカーメンの未亡人はヒッタイト(高句麗)に婿を要求したものの道中で婿殿を殺されてしまいました。これで怒ったのはヒッタイト側で、それ以後エジプトと争うようになります。この暗殺事件の犯人がエジプト19王朝を開くことになる隋でしょう。倭隋と言うのが宋書に出てますが関連はわかりません。
エジプトとヒッタイトの争いはカディシュの戦いと言い、史上初の公式な軍事記録が残され、さらに成文化された平和条約が取り交わされた史上初の戦いだと言われています。
wikiから「エジプトのラムセス2世は治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。ヒッタイトのムワタリ2世はすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。進軍途上で2人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。
エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハ、セト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの四軍団に分けられていた。ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊2,500両が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。
戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。ラムセス2世が負けることはなかったものの、多くの死傷者を出し、領土も獲得できなかった。また、アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。」
同じ戦いをwiki「隋の高句麗遠征」で調べてみよう・・・ただし、カッコ内に翻訳を入れてみます。
第1次遠征
598年(BC1274年ごろ)、高句麗の嬰陽王(ヒッタイトのムワタリ2世)が遼西(シリア)を攻撃した。隋の文帝(ラムセス2世)は、30万の大軍で陸海両面で高句麗(ヒッタイトの属国アムル)に侵攻したが、周羅睺(?)が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
第2次遠征
612年(BC1288ごろ)正月、隋の煬帝(ラムセス2世)は、113万の大軍(プタハ、セト、アメン、ラーの四軍団)で高句麗(カデッシュ)に侵攻した。高句麗(ヒッタイト)の将軍乙支文徳(?)は、隋軍(エジプト軍)の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。乙支文徳は、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。乙支文徳は、薩水(清川江)(オロンテス川)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。これを韓国では、薩水大捷という。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。
第3次遠征
613年、隋の煬帝(ラムセス2世)は再び高句麗(ヒッタイト)に侵攻したが、隋の国内で楊玄感(?)が反乱を起こしたため、隋軍は撤退した。
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、楊玄感に内通し高句麗に亡命していた斛斯政を隋の将軍来護児に引き渡した。隋も国内が乱れていたため和議を結んだ。高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行せず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のため実行することはできなかった。」
まあ、100%とは言わないまでもこの二つのwikiの記事はほぼ同じことを言っていると言えないだろうか。
紀元前1274年ごろに起きた歴史的な戦争がどうして600年ごろの満州地域で起きた戦いと全く同じだったとはどういうことだろうか。
本当に面白い作業なんですが、ものすごく大変なのです。今回のカデッシュの戦いは比較的簡単な作業ですが、数か国が絡むと作業量は数倍となりかなり大変です。
現在取り組んでいるのは金管加羅国とヘブライ王国の比較です。これが解ければオリエント史、日本史、朝鮮史が一つにつながる可能性があります。ただし、紀元前12世紀に一体何が起きたのかが非常に大きな課題となります。
wikiには前1200年のカタストロフとして記事があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D1200%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95#
紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。
この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば
1.ヒッタイトの崩壊
2.エジプトにおける海の民の襲撃
3.ギリシャのミケーネ文明の崩壊
以上の3項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。
興味のある方はぜひ見てください。
結局この時期に明らかにできない真実が隠されている可能性が高い。海の民とは何だろう・・・まあ、恐らくだが・・・ペリシテ人とアッシリアが主人公なのではないかと疑っているのだが‥‥解けるかどうかはわかりません。
まあ、庶民には気の遠くなるほどの損害が発生するように思えるが、我々が心配してもしょうがない。とにかく早くこのコロナ騒動が収束するのを祈るしか方法はないのだ。
現在、毎日歴史捏造の研究ばかりしていて、そんなことに興味のない皆様には全く申し訳ない気持ちでいっぱいです。しかし人生もあまり残りが少なくなってきている現在、少しでも真実の歴史を知りたいのです。
今日は隋と高句麗の戦争とヒッタイトとエジプトとの闘いの比較作業をしてみます。退屈かもしれませんが、これが私の日課になっています。
少しおさらいしましょう。前にエジプト18王朝でソロモンとハトシェプト女王との子供がアメンヘテプ2世で、宋書では倭国王済、日本史の履中天皇だとしました。
しかしその次は一神教に反対派であるトトメス4世が就き、アメンヘテプ2世の子供であるアメンヘテプ3世が王になるのはその死後になる。そしてその子アメンヘテプ4世が倭王武で雄略天皇と比定する。この武が例の宗教革命を起こし失敗する。死ぬのはBC1330。この後18王朝は弱体化しツタンカーメンのころに多神教に戻る。
要は、このころ倭国はエジプトを離れギリシャ方面へ移動したと考える。従って19王朝はまったく別の国と考えます。
「当時のヒッタイト王シュッピルリウマはエジプト域外における最高権力の調停役としてあり続けたが、間もなく自分の息子とツタンカーメンの未亡人の婚姻を通じてエジプトと同盟することを模索した。だが、その息子は目的地へ到着する前に明らかに殺されており、この同盟が結ばれる事はなかった。」wikiより
ツタンカーメンの未亡人はヒッタイト(高句麗)に婿を要求したものの道中で婿殿を殺されてしまいました。これで怒ったのはヒッタイト側で、それ以後エジプトと争うようになります。この暗殺事件の犯人がエジプト19王朝を開くことになる隋でしょう。倭隋と言うのが宋書に出てますが関連はわかりません。
エジプトとヒッタイトの争いはカディシュの戦いと言い、史上初の公式な軍事記録が残され、さらに成文化された平和条約が取り交わされた史上初の戦いだと言われています。
wikiから「エジプトのラムセス2世は治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。ヒッタイトのムワタリ2世はすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。進軍途上で2人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。
エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハ、セト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの四軍団に分けられていた。ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊2,500両が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。
戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。ラムセス2世が負けることはなかったものの、多くの死傷者を出し、領土も獲得できなかった。また、アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。」
同じ戦いをwiki「隋の高句麗遠征」で調べてみよう・・・ただし、カッコ内に翻訳を入れてみます。
第1次遠征
598年(BC1274年ごろ)、高句麗の嬰陽王(ヒッタイトのムワタリ2世)が遼西(シリア)を攻撃した。隋の文帝(ラムセス2世)は、30万の大軍で陸海両面で高句麗(ヒッタイトの属国アムル)に侵攻したが、周羅睺(?)が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
第2次遠征
612年(BC1288ごろ)正月、隋の煬帝(ラムセス2世)は、113万の大軍(プタハ、セト、アメン、ラーの四軍団)で高句麗(カデッシュ)に侵攻した。高句麗(ヒッタイト)の将軍乙支文徳(?)は、隋軍(エジプト軍)の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。乙支文徳は、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。乙支文徳は、薩水(清川江)(オロンテス川)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。これを韓国では、薩水大捷という。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。
第3次遠征
613年、隋の煬帝(ラムセス2世)は再び高句麗(ヒッタイト)に侵攻したが、隋の国内で楊玄感(?)が反乱を起こしたため、隋軍は撤退した。
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、楊玄感に内通し高句麗に亡命していた斛斯政を隋の将軍来護児に引き渡した。隋も国内が乱れていたため和議を結んだ。高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行せず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のため実行することはできなかった。」
まあ、100%とは言わないまでもこの二つのwikiの記事はほぼ同じことを言っていると言えないだろうか。
紀元前1274年ごろに起きた歴史的な戦争がどうして600年ごろの満州地域で起きた戦いと全く同じだったとはどういうことだろうか。
本当に面白い作業なんですが、ものすごく大変なのです。今回のカデッシュの戦いは比較的簡単な作業ですが、数か国が絡むと作業量は数倍となりかなり大変です。
現在取り組んでいるのは金管加羅国とヘブライ王国の比較です。これが解ければオリエント史、日本史、朝鮮史が一つにつながる可能性があります。ただし、紀元前12世紀に一体何が起きたのかが非常に大きな課題となります。
wikiには前1200年のカタストロフとして記事があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D1200%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95#
紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。
この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば
1.ヒッタイトの崩壊
2.エジプトにおける海の民の襲撃
3.ギリシャのミケーネ文明の崩壊
以上の3項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。
興味のある方はぜひ見てください。
結局この時期に明らかにできない真実が隠されている可能性が高い。海の民とは何だろう・・・まあ、恐らくだが・・・ペリシテ人とアッシリアが主人公なのではないかと疑っているのだが‥‥解けるかどうかはわかりません。
鹿島氏が前から記述されていましたが、
ホントかいな?と、殆どスルー状態で^^;
実は先日、古本屋さんへ行ったら
何と「卑弥呼とセベクネフェル女王」を見つけ
「歴史は西から東へ」も古書で購入出来ましたが
まだ読んでなくて、マヨさん説を参考に読んでみますわ。
鹿島さんと稲羽さんとは随分見解が違います。両者を比較しながら検証をしています。
ミタンニ王国、つまり百済は意外に大きな国だったようですね。フルリ人、これが今研究課題です。でも、資料が少ない。
<「千の神々の民」と名乗ったヒッタイトが再び発見されるまでの数千年もの間、ただ聖書だけがその消えた民族の記憶をとどめていたのである。>
再び発見と言うのが、20世紀初頭の考古学的発見
トルコのボガズキョイにある廃墟で出た粘土板。
それはエジプト王ラムセス二世がヒッタイト王に
あてた手紙であり、ガデシュの戦いのあとに結んだ
平和条約の批准書だった。
メソポタミアにあると思われていたヒッタイトの首都を発見し、ヒッタイト語も発見されたと。
日本で秦氏は”勝部”に配属された。
秦氏が建てた広隆寺は、最初は蜂岡寺と呼ばれ
「勝」と「蜂」発音に似たような漢字を当てはめ
で、Khattiとはハッティ、ヘテ…
ヒッタイト人のことではないか。
「秦」という姓が聖書のヘテ人を意味するのではないか?と。
稲羽説だと、秦はペルシャでしたかね。
鹿島氏はそこまでは考えていませんが、秦は前半はペルシャ史で後の方はバクトリア王が実際に中国でコロニーを作ったと考えたようです。
どちらが正しいかはまだ分かりませんが、僕の興味はフルリ人、つまりミタンニやヒッタイトに向かっていてまだペルシャまで到達していません。
秦氏ですが、ヘテ人ね・・・発想としては悪くないかも。ただ、神官や職人の親玉、あるいは官僚などあらゆる知識集団をさしたんじゃないかとかんがえていますが・・・まだ結論を出せません。
この秦と始皇帝の秦とはそれぞれ別の国であり
「史記」にみられる始皇帝以前の秦の記事は
アレキサンダーが戦ったアケメネス朝ペルシャの
歴史であって、始皇帝の秦とはアレキサンダーが
建てたグレコ・バクトリアの植民地のシナのことだと。
大秦景教の大秦がそのグレコ・バクトリアである…
と言う事ですよね。
私もフルリ人が気になりますね。
梅雨開けたんでしょうか?暑いです!!
エジプトと日本
このblogの方が
>エジプトのトゥト・アンク・アメンが、日本人であり、「古事記」「日本書紀」の「天稚彦」であると述べたことを思い出してくださるはずです。
このエジプトこそが、木村鷹太郎の唱えた「邪馬台国エジプト説」の究極の舞台なのです。
http://21seikinokadai.blog15.fc2.com/blog-entry-49.html
のようなことを書かれてまして、木村鷹太郎氏って出てきてましたっけ?
また突然ですみません...(汗)
そういえば、ボストン圧力鍋爆弾事件でチェチェン人の青年が捕まりましたが
チェチェン呼びは他称で自称はノフチー(ノアの民)というのだそうです。
木村鷹太郎氏の説が確信に…とありました、読みが浅く失礼しました。
ボストンの続き…
監視カメラシステムの強化を止めるか緩めるんでしょうか?ボストングローブの先日の記事(元々はリチャード・ストールマン氏のblogにあったので拾ってきました)
twitterには犯罪者が喜ぶだけという意見もありましたが、ちょっと違うような。ボストンは独特ですね。
City of Boston nixes proposal for vast surveillance network - The Boston Globe
Acting Mayor Kim Janey’s administration has scrapped a proposal that sought bids for a company to assemble a surveillance network that would link more than 1,000 cameras in nine Greater Boston...
bostonglobe.com
ボストン市は広大な監視ネットワークの提案を否定します-ボストングローブ
キム・ジェイニー市長代理政権は、9つのグレーターボストンで1,000台以上のカメラをリンクする監視ネットワークを構築するための企業への入札を求める提案を破棄しました...
bostonglobe.com
古代中国王朝の一般的な順序ではなく
周、秦が隋と唐の後の時代に来て、
現在の中国大陸の歴史は、北宋・南宋、AD960年
から始まって、元、明、清、中華民国、中華人民共和国と。
で、宋とヘブライ王国が同じ王朝ではないか?
と言っても、次作第三巻が「宋とヘブライ王国」(仮称)らしいので詳しくは分かりませんが。
まあ、何と言っても今のところ理解出来ないのが、
卑弥呼はセベクネフェル女王(第十二王朝BC1806~1801)
倭国の卑弥呼の発音がベイネフウで
倭国であるエジプトの女王がそれであると⁉
**************
木村鷹太郎氏は、ギリシャ哲学を研究中にギリシャ神話と日本神話とが非常によく似てることに気が付いた。
その民族は太古に中央アジアから降りて来た民族であり、地中海へ、それからインドへと移動し、
のちに日本人とギリシャ人に分かれたのであったと。
で、祖型となる民族からはヘブライ人もまた分かれたのだと。
イエスが言う「ギリシャに散りし者」とは
分離してギリシャ方面に行った人たちの事だと言う。
酒井勝軍はエジプトを訪れた後に、古代エジプトは
太古の日本人がつくったのもであり、日本にもピラミッドは存在すると発表、そのひな形となったのが
日本の自然ピラミッドだったと言い、黒又山も一つと。
ボストンの件はほとでした、ただ1984年の世界に到達してますね。超管理社会に入り「お天道様はいつも見ている」わけで、日頃から正しい行動をとるようにすればいいわけです。きっと素晴らしい世の中になるのではないでしょうか、僕はごめんですが…。