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五木寛之さんの本で知った言葉ですが、出典元は歎異抄ですから、親鸞さんなんですね。気になる言葉なんです。
巡ってきたものが運良く災難へと押し出さないものであってくれただけのことで、自分が罪悪を為さずに済んでるだけのことを、威張りもできないし、ただ正しいのだからと、他者を諌めるに値する人であるわけでもない。
手を汚すことになってしまった人にも、わけがあり、いきさつも言い分もあったろうに。さりとてお咎めなしがいいとは言わないですが、自分が何か殺めるとか、害をなすことを「絶対にしない」なんて、ものがわからなすぎてると思うんです。
近頃頻発してる無差別に人を傷つけるニュースの怖いところは、事件そのものよりも、どこかで自分が「そっちの側」の人の心根に何かに、心当たりがあるかもしれないと言う、言葉にしてない内面じゃないかと思うんです。
「おとなしい人だった」「普通に見えた」人が、狂気にも似た殺傷を、突然すること、どうですか、本当に「自分は、しない」と言い切れるでしょうか。そこから物を言ってると、見ないで済ませてるものがありますし、その立場こそが温床ともいえなくもないのです。
いつ、どんな巡りがあるかもしれませんから、自分にも他人にも、軽々に正論で声高な態度にならないよう心がけておかなくちゃ。