凄い記事。
「反対のことを強調して押し付ければ、それがいつかまかり通る」程度の認識では、人の「心の移ろい」には浸透しないのです。言い換えちゃうけれど、条件反射的にハンターイといってるだけの文化では、なーんにも成就しないってこと。むしろ、その「思索の簡略化」が事態の把握を馬鹿みたいに簡素化し、深い思案を妨げます。
相手のことを慮った行動にならないのです。「自分の正義感の発露」だけを心地よくして、相手のことへの配慮からの所作にいたらないのです。自分勝手さだけでは、「自殺を考えてる」人の心に、寄り添えないのです。ただ「露骨に結果が出てるなあ」としか思いませんでした。
だから「自殺スポット」の喧伝にしかならなかったのです。事前に「そういう想像」のできる人の不在こそが、嘆かわしいのです。恥じるべきなのです。
「頑張れ」「死ぬな」では、自殺したがってる人の「原因」は緩和されず、負のきもちに苛まれている当人に、「正しい、正の気持ち」で蹂躙することによって、過分に負荷を与えるのです。まぶしがらせて、死に追いやる助力を足しているのです。どこまで「無理解」で押しやるのでしょう。なんという不感症!もはや害毒です。いや、猛毒に相当します。
「自分の方の、正しさ」では、他人の苦慮に重荷なだけです。相手に寄り添うつもりがないのなら、共生する覚悟もないのなら、せめて手出し無用で願いたいのです。まだ、それなら、生きられる。