ウクライナ東部ドンバス地方で3姉妹の長女として育ったユリアさん。2014年にドンバス地方で親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘が始まり、自身の目の前で両親が親ロシア派の兵士に連れ去られた。現在も行方不明の両親について「全部私のせいだ」と自分を責め続けてきたのである。子どもに自責の念まで植えつけてしまう戦争の罪深さ。私はユリアさんへの取材を通じて、それを痛感させられた。
これに添えられる言葉はあるだろうか。どれもこれも適切さを覚えられない。あてがえる言葉がない。
リディア・リアシェンコさん(42)と夫のタラスさん(48)は、2014年の親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘で両親を失った孤児が続出していることを知る。リアシェンコ夫妻はその年、里親制度に申請した。2人の間には9歳と6歳になる息子がいたが、「親を失った子どもを支援したい」との思いから手を挙げたのだ。
夫妻は支援機関を通じて長女ユリアさん(当時11)、二女ヤナさん(当時8)、三女ポリーナさん(当時4)の3姉妹との面会を打診された。3人は両親が行方不明になった後、子どもだけで家に取り残されていたのを近所の住民に発見されている。ユリアさんは記憶を失い、うつ状態。ポリーナさんはストレスから言葉を話すことができず、息苦しそうにしていることが多かった。後になって分かったことだがこの時、喉頭がんを患っていた。3人の引き取り手はなかなか見つからなかった。里親といっても健康な子どもを求めるのが一般的である。心に深い傷を負った3姉妹を養育していくことは並大抵のことではない。このまま養育者が見つからなければ、姉妹は別々の児童養護施設に預けられてしまう。「両親がいなくなった上、姉妹までもがバラバラになってしまうのはあまりにも忍びない。孤児院で別々に過ごすよりは、私たちと一緒の方がいいじゃない」リアシェンコ夫妻はそう話し合い、3姉妹を引き取ろうと面会することを決めた。
極度のストレスは人としての日常を損なわせる。体調にもその片鱗が残る。
3姉妹がリアシェンコ一家の家族になってから、二女のヤナさんと三女のポリーナさんは次第に夫妻に甘えるようになり、2人の息子とも一緒に遊んで仲良くなっていった。家族の中で、ただ一人、長女のユリアさんだけが黙りこんだままだった。家族の前で感情を出すことはない。話す言葉は「ありがとう」、「はい」、「こんにちは」の三言だけ。無気力状態が続いていたが、一方で自分の顔を血が出るほど引っかくなどの自傷行為を繰り返していた。
言い表せてない内に、こもってる方の「本当」が芽吹いてる。失われない形で。
2014年にドンバス地方で親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘が行われた際、親ロシア派の兵士がユリアさんの家の呼び鈴を鳴らした。鍵を開けたのはユリアさんだった。
そのとたん銃をもった兵士が家に入り込み、父親を連れ去っていく。母親は父親を追って外に出たまま戻ってこなかった。
母は臨月が近く、お腹が大きかったという。ユリアさんはこの時の記憶を失っているが、二女のヤナさん(当時6歳)が一部始終を目撃して憶えていた。リディアさんはユリアさんの心の傷を癒そうと手を尽くし、心理カウンセラーや精神科医にも診てもらったが、回復の手がかりは見つからない。
地獄ではないか。
「ユリアは記憶を失ったことにして、辛い出来事を無理やり心の奥底に閉じ込めようとしているのかもしれない」リディアさんは、そう考えることもあるという。生き残った者が感じる罪悪感「サバイバーズ・ギルト」。それを11歳の少女はたった一人で小さな胸に抱えて生きてきたのだった。
ウクライナ人のユリアさん(19)は、11歳の時、ロシアの侵攻により、両親が連れ去られ、今も行方が分かっていない。その後、里親のリディアさんに迎え入れられたが、実の両親が行方不明になったのを「全部私のせい」と自分を責め続けている。
2015年、リアシェンコ一家の里子になってから半年ほどが経ったある日の出来事。ユリアさんは生まれ育ったドネツクが爆撃されたニュースを偶然見てしまう。突然、金属製のたらいを持ちだして庭に飛び出した。たらいを何度も何度も素手で殴りつけ「私のせいだ。全部、私のせいだ」と泣き叫んだ。その手は赤く腫れあがり、血が滲んでいたという。ユリアさんが家族の前で感情を露わにするのは初めてだった。慌てて追いかけた里親のリディアさんはユリアさんをぎゅっと抱きしめた。「あなたのせいじゃない。大丈夫よ。両親は必ず戻ってくるわよ」泣きじゃくるユリアさんに対し、言葉を続けた。「私たちがあなたを手助けして、一緒に探しましょう」。するとユリアさんが「ママ、助けてくれるの?」と言ったのだ。リディアさんはその言葉に耳を疑った。養子に迎えてから「ありがとう」、「はい」、「こんにちは」の三言しか口にしなかったユリアさんが、初めてリディアさんを「ママ」と呼んだのだ。翌朝、ユリアさんは憑き物が落ちたような顔をしていたという。「ママ、ありがとう」ともう一度言った。
これは人がはじめた地獄。人がいたからはじまった地獄。なぜロシアはこれをはじめたんだ?
リディアさんはこう振り返る。「あの子は両親が連れ去られたのは自分のせいだと抱え込んでいました。その上、元の家族を忘れなければならない、と自分をさらに追いつめていたのです。私たちが『本当の両親を忘れる必要はないのよ。一緒に探そうね』と言ったことで、安心したのだと思います。これを機にユリアの人生が変わりました。生きがいを見せるようになったのです。まさに生き返ったようでした」
人は自分のアイデンティティに関わる部分を口外したい訳じゃない。黙ってるうちにこそ、真なる思いが醸成されていく。感情の深い人ほど、その深度は深く、滅多に顔を出しようがない。
ユリアさんがショックで記憶を失ったため、実の両親の名前や当時、住んでいた住所などは明らかになっていない。このためリアシェンコ夫妻はユリアさんの名字をあえて旧姓のまま残している。実の両親を見つける際に役に立つ可能性があるという判断からだ。ウクライナで兵士として戦っているウラディスラフさんの身を案じると、ユリアさんは居ても立っても居られない。
いたたまれない。息がしにくい。
ウクライナ人のユリアさん(19)は、2度目となるロシアの侵攻により、ウクライナからモルドバへと避難せざるを得ず、ウクライナで兵士として戦う婚約者のウラディスラフさんと離れて暮らしている。しかし、結婚するためにはユリアさんがウクライナに一時帰国する必要がある。ウラディスラフさんは出国することができないからだ。「今、ウクライナに戻ることは危険だから、絶対に止めたほうがいい」と周囲からは猛反対された。背中を押してくれたのは里親のリアシェンコ夫妻だった。「あなたが自分の意思で決めたことなのだから、家族で応援しましょう」
この異常の連続の中、かくも強い心で支持した里親の心根の良さを覚える。
ウラディスラフさんと再会した際、一言挨拶した後、二人は抱き合ったまま何も話さなかったという。「ロシアの侵攻で人生を変えられたと強い憤りを感じていましたが、彼と会った瞬間、全てが吹き飛びました。彼を抱きしめていれば、言葉はいりませんでした」
ウクライナで結婚式を挙げた後、モルドバに戻ったユリアさんのお腹には新たな命が宿っていた。里親のリアシェンコ夫妻は喜びを隠さないが、ユリアさんは少し想定外だったようだ。「びっくりして、まだ実感が沸きません」と話す。それでも「男の子でも女の子でもいいから、元気な子どもが生まれてくれさえすればいいです」と自身のお腹をさすっていた。
わずか11歳の時に「両親を連れ去られたのは自分のせいだ」と責め続け、自傷行為を繰り返していたユリアさん。今、妻となり、母親にもなろうとしている。9年前、家族として迎え入れてくれたリアシェンコ一家への感謝の思いは格別だ。「この家の里子になるまでは私たち3姉妹は別々の施設に預けられていました。あの時、バラバラになっていたら、私は今でも妹たちを必死に探し続けていたでしょう」「今の両親と2人の弟が私たちを家族として温かく迎えてくれました。この家族がなければ違う人生だったと思います。今のような幸せな生活は送れていませんでした」。そう話すユリアさんの目は潤んでいた。
戦争、戦争、戦争さえなければ。戦争のせいで。