結構な期間、私は「報われてほしい」と願っていたのです。
成したことに対し、その成果なり、報いなりは、やった分くらいには配分がなされて然(しか)るものだと期待をしました。
そうでなくては、と手前勝手に「相応なこと」をひとりごちました。
本当は、成したことは成したまでで完結しており、それに連結するかどうかは事態の自在に任されてて、必須に起こることが見舞われるわけではないのでした。
なんなんでしょうね、この人の気持ちって。
でもね、報われなくたってね
それを見てた人がちゃんといてさ、いくらか慰めのように優しくあってくれたりもするのね。
そのさ、見ててくれてたこととね、優しくあろうとするのは自由だなって、そうは思えたかな。
された側は嬉しくってね、ありがとうってなれる。
神様は采配したなにかで報いは必ず巡ってくる、なるものは幻想だし因果なんだしと外堀を埋めたがるよりも、自分の心のうちに湧き上がったものまでをすべてと心得直し、そこ以外は「誰かが、誰かにしてあげたい」だけであればいい。
それに完全な結果を求めるのは間違っています。
自分の都合のよい結果を求めるのは、人間の途轍もない無知です。
私がスマナサーラ師の言葉に心酔するのは、その突き放しの本当さににごりがないからです。
優しく接しよう、などというおせっかいさで「始まってなさ」がはつらつしています。
「結果よこせ目線」なんかで始めちゃえば、その理屈でバーターでなんかよこせ、はやっぱ欲深さしか伸びないものね。箴言・慧眼・啓蒙からこれらの概念を掴みに行くとすれば、その動機に含まれた満たされたがる毒由来の何某(なにがし)かで淀むは必定だもの。プレーンな気持だけが大事だって、次第に知れてくる。遠回りしないと、プレーンさや素直さの良さは、身にしみてこない。