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現代人は忙しいわ、当事者過ぎるわで、基本的に真っ当で過ごしてる人らが、えてして冷たくなるのは正直わかんないでもない。
付き合いというものは糾える縄の如しの組っぷりが起こるので、どうしても煩雑も囲います。与してらんないのは「どこまで振り回されるか知れぬ」の予防措置でもある。
結果だけ教えて、という態度が頻発するし、中途の過程に噛んでいくとを疎ましそうに見やる目つきや姿勢も、そうならざるを得ないのも分かる。
常人ほど「キャパシティを越えさせられてる」に終始させられるまま、「気づけば年を召してた」という人生の終焉までが、青年、壮年の渦中で勘付けてる。
されど「乗っかってる」レールにハズレに行くつもりなんかもなく、「乗っかりながらなんとか」を目論む方を大方が選ぶので、大方と同じ目に遭うのは必定なので、ある意味得心してその苦境に甘んじもする。
そういう人には責任感がある。
家族を持ち、ローンを持ち、子を育ててれば「自分が投げ出した瞬間」何が起こるかは予想がつくし、迷惑の飛び火が「自分の他の生命」に火を灯すから、「もはやがんじがらめ」にまで自分を持っていったのも、自分とわかってる。
「みんなそうだから」となぐさめてみたところで、気が休まるでもない。
ただ、「その大勢の一員」になってる最中に、漠と「これでいいのか」とは思うのでしょう。
いいわけがないでしょう。
つらいんだから。
どこでしくじったか?
最初の方です。
方向転換できる機会は、どなたの誰の人生にもありました。
「そうしない」と決めましたから、の今なのです。
人生って「それっぽい」じゃダメなのです。
決めた風にしか、進みませんし、「進み具合」に「助けの手の方」にだって決める自由、ありますから。
誰だって隣の家の芝は綺麗に見えるっていいますよね。潤沢で、満ち足りてて、嬉しそうで、ほくほくして見える。「本当はどう?」まで掘り下げないから、「そう見える」だけでみるのを止める。
いいわけないですって。
どんな人のどんな生活も「見せていいとこ」だけみせてるんです。
どんな人の生活も「その生活の維持」のための苦難や我慢、そこならではの難儀が目白押しで、生涯を賭してるんでね、憧れるほどの満ち足りで済んでるはずないんです。
最初の話に戻しますけどね、「忙し過ぎて、『結果だけ教えといて』同士の間柄が頻繁で、常用になってる人」ってね、すべからく「冷たい」んです。
当人、そう思ってないですけどね、冷たくしてますよ。
深入りしないで済ませるし、救う回数も少なくさせるから、人への関与ってものが足りてない。
言い換えますと「おせっかいをしない」同士が、最適環境と思ってる。そしてそれが叶えちゃってる。
自身が損をとって、おせっかいに振り向ける絶対数が少ない、を「効率と日々の繁忙」のうちに肯定してる。
それくらいには、日々に必死すぎる。
それで「ことなかれ」と幸にしてる。
人はね、生まれ落ちたら「味わいに来たところ」が人生なんでね。
お節介も迷惑のかけ合いっこも、嬉しいこととか、悲しいことの分かち合いの妙味なんです。
それを介さないほど、生きるのにギリギリっていう「人にも迷惑をかけない」生き方だけでは、満ちた人生に成りようもないのです。
人の評価が「迷惑をかけない、いい人だったね」であっても、自身は・・・・どうなんでしょうね。
それこそ、こんなコラム書いてる私の慢心でしょうから、お読み飛ばしくださいな。
ただね、「冷たい人」ってね、同じ目つきするんだ。でね、伝染もする。
「かつてそうでなかった」人も、同じ目つきになっていくね。表情も基本的にのっぺらぼうかな。
「内に秘めて」いようともね、日々に使わぬものが、廃れて消えることをカウントできてない。
私は昔っから、冷たい人が嫌い。そして苦手。
そして、向こうも早々にそれに勘づく。すごく避けてくる。
だから距離が取れる。
向こうが賢いんで、「コイツめんどくさそう」フォルダにのっけから放り込んで、終生その態度枠から微塵も変えない。なーんせ賢いのよ。
いつも感じるよ「ああ、やっぱ冷てえな」って。
頭のいい人に比率的に多く、冷たくなるね。
連中、選んでそうしてるんで、「どうぞ御随意に」っておもうけど、損してるなあっていつも思う。
ほんと、そう思う。
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