日本アカデミー賞に、本家アカデミーの外国語映画賞
「おくりぶと」ブームで映画館は平日でも多くの人が集まっているようです。
俺もこの映画を素晴らしい作品だと思うのでうれしく思っています。
ロングラン上映されていますので、ご覧になった方も多いでしょうね。
皆さんボロ泣きされたんじゃないでしょうか。
今日のはちょっと、ネタバレな記事になるのですが
そろそろ観た方も多くなったかな?と思うのと、話題が集まっている今
こんな視点でもこの映画を見てもらえたらなと思い、書くことにしました。
映画の冒頭に登場する若い女性の納棺のシーン。
本木が体を清め、服を替えさせようとするのですが、
女性だと思ったら下腹部に何かがある
実は男性??
それはユーモアのあるシーンに思え、映画館内に笑いが起きるのですが
これは、とっても残酷なシーンでもあるのです。
学生時代は坊主頭で学ラン姿だった青年が、こんなに綺麗になって、自殺
「男性用の着付けをしましょうか?女性用でいたしましょうか?」と遺族に尋ねる山崎
母親は親族に対し恥ずかしい思いを抱きながらも、息子の名前を呼びながら、
息子が自分らしく旅立てるように、女性としての着付けを毅然と頼むのです。
亡くなった彼女の短い生い立ちを、いろいろに想像させるものがあります。
親子の関係も想像させます。
この田舎町での彼女の10代の時を、想像させます。
性同一性障がいであっただろう彼女に、何があって自殺しなくてはならなかったか?
同性愛者である俺は、彼女とはまったく立場が違うけれど
死後、自分たちは自分らしく扱われるのだろうか?と複雑な想いがよぎります。
自分が思うような扱いをされないとしたら、どうだろう?といたたまれなかった。
下半身を確かめるシーンは、なんとも笑いを誘うコミカルなものがあり
性的マイノリティを笑う定番ネタのように思え、なんとも嫌な気分で、
こういう演出しかなかったのかな?とも見たときは思っていました。
とはいえ、全体に流れる死者への想いも映画から感じられるところもあり
どうしようもなく許せないシーンにも思えなかったのです。
先日、TBSバラエティーニュース「キミハブレイク」の中で
「おくりびと」の中でアカデミーの審査委員もウケたシーンとして、そのシーンが
ほぼそのまんま放送され、世界に通用したコミカルなシーンとして話題にされていました。
そのテレビの取り上げ方も、なんとも嫌な感じで、テリー伊藤がそれを見て笑うのですが、
凱旋した監督が、そのシーンについて笑うことなく神妙に答えたのを聞いて納得しました。
「コミカルにこだわった訳じゃないんですね。たとえば先ほどのオカマさんの死は
実は本当は、彼がなぜ山奥で生まれ育って都会に移り、美しくなって、自殺しなけ
ればならなかったか、本当はその悲しさの部分が一番大切な部分だと思う。でもあ
あいうシーンを人は笑うじゃないですか?これを笑うってことは、すごく残酷なこ
となんだよね。そういう残酷なことが実際にあるんだよね・・」
監督は、このシーンを見て笑ってしまうということはどういうことか?を
考えて欲しいというメッセージだったのだとはっきり説明されていました。
俺も、その通りだったのだなと思いました。
あのシーンを笑ってしまった人は、あの映画を見終わって
何か深く感じずにはいられなかったはずなのです。
納棺師の仕事に対しても、社会からひどい扱いを受けるシーンが何度も出てきます。
そのことも、実際にある「仕事への偏見」というものに対して
見るものに問いかけていたものでした。
数々の亡くなった方の人生の物語が、簡単に済ませられるものでないことを
死者を前にして思い直し、見つめなおさせる。
それが、この映画の素晴らしいところだったな~と再確認したのでした。
ご覧になっていない皆さん
映画館で見ることが出来る今のうちに、ぜひどーそ。
「おくりぶと」ブームで映画館は平日でも多くの人が集まっているようです。
俺もこの映画を素晴らしい作品だと思うのでうれしく思っています。
ロングラン上映されていますので、ご覧になった方も多いでしょうね。
皆さんボロ泣きされたんじゃないでしょうか。
今日のはちょっと、ネタバレな記事になるのですが
そろそろ観た方も多くなったかな?と思うのと、話題が集まっている今
こんな視点でもこの映画を見てもらえたらなと思い、書くことにしました。
映画の冒頭に登場する若い女性の納棺のシーン。
本木が体を清め、服を替えさせようとするのですが、
女性だと思ったら下腹部に何かがある
実は男性??
それはユーモアのあるシーンに思え、映画館内に笑いが起きるのですが
これは、とっても残酷なシーンでもあるのです。
学生時代は坊主頭で学ラン姿だった青年が、こんなに綺麗になって、自殺
「男性用の着付けをしましょうか?女性用でいたしましょうか?」と遺族に尋ねる山崎
母親は親族に対し恥ずかしい思いを抱きながらも、息子の名前を呼びながら、
息子が自分らしく旅立てるように、女性としての着付けを毅然と頼むのです。
亡くなった彼女の短い生い立ちを、いろいろに想像させるものがあります。
親子の関係も想像させます。
この田舎町での彼女の10代の時を、想像させます。
性同一性障がいであっただろう彼女に、何があって自殺しなくてはならなかったか?
同性愛者である俺は、彼女とはまったく立場が違うけれど
死後、自分たちは自分らしく扱われるのだろうか?と複雑な想いがよぎります。
自分が思うような扱いをされないとしたら、どうだろう?といたたまれなかった。
下半身を確かめるシーンは、なんとも笑いを誘うコミカルなものがあり
性的マイノリティを笑う定番ネタのように思え、なんとも嫌な気分で、
こういう演出しかなかったのかな?とも見たときは思っていました。
とはいえ、全体に流れる死者への想いも映画から感じられるところもあり
どうしようもなく許せないシーンにも思えなかったのです。
先日、TBSバラエティーニュース「キミハブレイク」の中で
「おくりびと」の中でアカデミーの審査委員もウケたシーンとして、そのシーンが
ほぼそのまんま放送され、世界に通用したコミカルなシーンとして話題にされていました。
そのテレビの取り上げ方も、なんとも嫌な感じで、テリー伊藤がそれを見て笑うのですが、
凱旋した監督が、そのシーンについて笑うことなく神妙に答えたのを聞いて納得しました。
「コミカルにこだわった訳じゃないんですね。たとえば先ほどのオカマさんの死は
実は本当は、彼がなぜ山奥で生まれ育って都会に移り、美しくなって、自殺しなけ
ればならなかったか、本当はその悲しさの部分が一番大切な部分だと思う。でもあ
あいうシーンを人は笑うじゃないですか?これを笑うってことは、すごく残酷なこ
となんだよね。そういう残酷なことが実際にあるんだよね・・」
監督は、このシーンを見て笑ってしまうということはどういうことか?を
考えて欲しいというメッセージだったのだとはっきり説明されていました。
俺も、その通りだったのだなと思いました。
あのシーンを笑ってしまった人は、あの映画を見終わって
何か深く感じずにはいられなかったはずなのです。
納棺師の仕事に対しても、社会からひどい扱いを受けるシーンが何度も出てきます。
そのことも、実際にある「仕事への偏見」というものに対して
見るものに問いかけていたものでした。
数々の亡くなった方の人生の物語が、簡単に済ませられるものでないことを
死者を前にして思い直し、見つめなおさせる。
それが、この映画の素晴らしいところだったな~と再確認したのでした。
ご覧になっていない皆さん
映画館で見ることが出来る今のうちに、ぜひどーそ。