高校や大学の文化祭で、女装を売りにするオカマバ―なるものや、女装コンテストがある
これは相当流行っている
最近の「男の娘」とされる人や、テレビでオネエタレントが取り上げられることにより思いつく企画なのだろう。
さては、自治体の春祭りや夏祭りで、おかま連と名乗る集団で(当事者ではない人が)出場し、盛り上げようとするケースもあるという。
これらはLGBTから見て、温かく眺めてられるものなのだろうか?
何か意味があると考えてみるが
・別の自分を発見し、男らしさの殻を破る解放だ!として、それで何か社会的な役にたつだろうか?
・女装男装コンテスト・・としても、出場者を見て笑いが出ない大会にできるのだろうか?
・化粧や服装でどれほど人は変わるか?という大会だとして、それは笑いを誘わないイベントであり得るのだろうか?
そんなことで終わってないのではないだろうな、嘲笑の対象としての再確認をしているだけだろう
結局は異性装とされるファッションや化粧をすることで、ウケを狙ったり、笑いをとろう、そしてそのことによる盛り上げを図ろうということしかないだろう。
これは差別的な問題イベントということになる。
おかまという表現は当事者自身が使う以外は蔑称だが、特にそのような意識無く使っていることが多い。
当事者からの厳しい注意がされてないことで、無邪気にいられるだけなのだろう。
他の人権課題を見比べてみても、過去にお笑いとして許されてた表現がだんだんと変わってきている。
性的マイノリティのこともそうなっていくだろう。
嫌な思いをしている当事者は多いはずだ。
でも、多くは仕方なく諦めて、自分に降りかからないよう、なるたけ関わらないようにしているだけだと思う。
楽しく盛り上がるイベント表現として放置されているこの現状は途方もありませんが、さて、そこに何の疑問を持ってなく笑っている人に、その問題をどう伝えるといいのでしょうね。
いや、そんなことを考える必要もない、楽しいイベントに水をさす必要もないし、問題行為でもないという捉え方ができるもんですか?
皆さんはどう考えるでしょう
誰かを貶め、差別助長をさせてしまう怪しいイベントは止めた方が良いと思いますが、こうやれば大丈夫ではないか?といった方法はあるもんですかね?
これは相当流行っている
最近の「男の娘」とされる人や、テレビでオネエタレントが取り上げられることにより思いつく企画なのだろう。
さては、自治体の春祭りや夏祭りで、おかま連と名乗る集団で(当事者ではない人が)出場し、盛り上げようとするケースもあるという。
これらはLGBTから見て、温かく眺めてられるものなのだろうか?
何か意味があると考えてみるが
・別の自分を発見し、男らしさの殻を破る解放だ!として、それで何か社会的な役にたつだろうか?
・女装男装コンテスト・・としても、出場者を見て笑いが出ない大会にできるのだろうか?
・化粧や服装でどれほど人は変わるか?という大会だとして、それは笑いを誘わないイベントであり得るのだろうか?
そんなことで終わってないのではないだろうな、嘲笑の対象としての再確認をしているだけだろう
結局は異性装とされるファッションや化粧をすることで、ウケを狙ったり、笑いをとろう、そしてそのことによる盛り上げを図ろうということしかないだろう。
これは差別的な問題イベントということになる。
おかまという表現は当事者自身が使う以外は蔑称だが、特にそのような意識無く使っていることが多い。
当事者からの厳しい注意がされてないことで、無邪気にいられるだけなのだろう。
他の人権課題を見比べてみても、過去にお笑いとして許されてた表現がだんだんと変わってきている。
性的マイノリティのこともそうなっていくだろう。
嫌な思いをしている当事者は多いはずだ。
でも、多くは仕方なく諦めて、自分に降りかからないよう、なるたけ関わらないようにしているだけだと思う。
楽しく盛り上がるイベント表現として放置されているこの現状は途方もありませんが、さて、そこに何の疑問を持ってなく笑っている人に、その問題をどう伝えるといいのでしょうね。
いや、そんなことを考える必要もない、楽しいイベントに水をさす必要もないし、問題行為でもないという捉え方ができるもんですか?
皆さんはどう考えるでしょう
誰かを貶め、差別助長をさせてしまう怪しいイベントは止めた方が良いと思いますが、こうやれば大丈夫ではないか?といった方法はあるもんですかね?