言い知れぬ不安が胸中をよぎる深夜、
疑心暗鬼は巨大な妄想を作り上げ、
我が魂を追い詰める。
:
- Ô douleur ! ô douleur ! Le temps mange la vie,
Et l'obscur Ennemi qui nous ronge le cour
Du sang que nous perdons croît et se fortifie !
(ボードレール L'Ennemi より)
知らず。
一度は壊された我が心の庭園に、
再び麗しき神秘の実りが還るや否や。
気分よく浸っていたら、現実の世界から妻が一言。
「肥え太るのはあんたの脂肪でしょ」
依るべを失いさまよえる私の魂。
それはさながら保護者を失った幼児のよう。
リルケが私のために書いた(と思われる)詩文。
Ich bin Niemand und werde auch Niemand sein.
Jetzt bin ich ja zum Sein noch zu klein;
aber auch später.
:
(リルケDas Lied der Waise)
:
Ich habe nur dieses bißchen Haar
(immer dasselbe blieb),
das einmal Eines Liebstes war.
:
私とは、実は誰あろう、磯野波平だったのだ。
なんのこっちゃ。
蓼食う虫も好き好きというが、いちど思い込んだらこればっかりは理性でどうにかなるものではない。
傍から見たらなんでそこまで、と思う様な相手でも、当事者にはすべてが一大事。
その若者は毎日通勤電車の最寄り駅で、
向かい側のホームに佇む女性に興味を持った。
くる日も、くる日も、遠くから彼女を見つめ続けた。
ところが、ある日を堺に彼女は姿を消した。
若者はそれでも彼女を待ち続けた。
彼は毎朝起きるたびに自問自答するようになった。
Morgens steh' ich auf und frage:
Kommt feins Liebchen heut?
Abends sink' ich hin und klage:
Aus blieb sie auch heut.
(ハイネ 「Morgens steh' ich auf und frage」より・前半)
「こんなこと、本当にあったの?」
なんの気なしに私はハイネに聞いてみた。
「あるわけないっしょ。見てるだけなんて」
意外とそっけない答え。
「じゃ、なんでこんな詩作ったの?」
「気分、、かな」
「ほんと?」
「うっそだよーん」
ハインリヒは意外とおちゃめだった。
In der Nacht mit meinem Kummer
Lieg' ich schlaflos,wach;
Träumend,wie im halben Schlummer,
Wandle ich bei Tag.
(ハイネ 「Morgens steh' ich auf und frage」より・後半)
しかし、詩に描かれた結末は決しておちゃめではなかった。
突然想い人が消え去った人には身につまされるだろう。
原稿がなかなか進まない。締め切りは明朝。
そんな夜、頭痛の頭を抱えながら原稿書きに勤しんでいると、
昔名を馳せた天才たちなら、こんな苦労はしないだろう、などと、ついあやかりたくなる。
「そんな事を欲するより真に己の欲する場所に戻ったらどうだ?」
陶潜に笑われた。
小无适俗韵
性本爱邸山
误落尘网中
(陶潜:归园田居より)
「間違って世の中にのこのこ出てしまったのさ。お陰でとんでもない目に遭った」
陶潜は少し茶目っ気のある、しかし、深みのある笑みを浮かべた。
「今の日本じゃ田園で自給自足って訳にはいかないからなあ」
思っていると、それを察知したかの様に言う。
覊鸟恋旧林
池鱼思故渊
(陶潜:归园田居より)
「今に今居る場所を旧林や故淵にしてみせるさ」
ちょっと見栄を張って応えてみる。
既に気配はなく、静寂が私を包み込んだ。
私自身は詩というものに対してさほど関心を持たないのだが、詩の好きな妖精、Elenが私の夢にやってくる様になってから、なんとなく詩人たちとの距離感が縮まった。時代、国、民族を超えて読まれる詩人もいる事を知った。詩人の言葉は必ずしも勇気や喜びばかりを与えてくれるものではないが、いずれも圧倒的な存在感をもってのしかかってくる。これが超一流の詩人が発する言葉の重みか、と感じる一瞬。
詩人だからことさら人より高い人生を歩んでいる、ということは無い。彼らが違うのは、魂と言葉の結びつきについて他の人よりもよく知り得たという事に他ならない。彼らはどんな場面でどの言葉がどう人の心に響くかを計算し尽くして詩作に結実させる。逆にいえばそれが出来ない者は詩人とはいえない。詩人なら全身全霊をかけて選び出す、究極の一語というものを持っている。そこには人知れず底知れぬ悩み苦しみに耐え抜いた者だけが持つ孤高な叫びがある。
だが、例えば絵画の作品は視覚を通じて描いた物が直接鑑賞者の感受性に訴えかけてくるが詩の場合は違う。第一に言語を理解しなければ意味はおろか何と読むかすら分からない。意味が理解出来たところでそれはあくまでも言語的意味合いなだけで、詩として何を言おうとしたかまでは至らないのだ。逆に、作者が意図しなかった事まで感じ取る読者がいるかもしれないが、それは原語への理解があった先に来るべきものだ。
詩とは、作者にっとても読者にとっても、人類の知的活動のうちでも最も高度に言語的能力を働かせたものである。心に感じたものを素直に書いたらいい、感じれるままに読んだらいい、というのは世迷言でしかない。言語を理解しない者には何も伝わらないし、理解したとしても詩情を共有出来るとは限らない。詩は書く人をも読む人をも選ぶのだ。「誰でも」というのは傲慢と無知が言わしめる言葉である。どんな詩が誰を選ぶのかは誰にも分からない。
「まいど」
Elenが来た。どうやら色々と考えているうちに眠ってしまっていたらしい。
前回来た時にボードレールネタを頼んでおいたので、何が聞けるのか期待だ。
さて、今回の名言はマルティアルス。詩人にとって、詩が評価される事、評価されない事、それぞれどう受け止めるか。批評者への牽制とも負け惜しみともとれるこの一節。物書きをする身にとってはある面確かに真理といえるかも。
Lector et auditor nostros probat, Aule, libellos,
sed quidam exactos esse poeta negat.
non nimium curo: nam cenae fercula nostrae
malim convivis quam placuisse cocis.
(マルティアリス「Epigramma 9-81」より)
不透明な時代、心配ごとあれこれ。悶々と過ごしていたある夜、夢に、詩の好きな妖精のElenがやってきて、私に電話がつながっていると言ってS社のスマートホンを差し出した。なんでマイナーなS社? 後で考えたら私が持ってるやつのコピーらしかった。私にとって違和感のないように、私の身辺の物をそのままコピーするらしい。rさて、電話の向こうはハツラツとした男の声。やや古ぼったいドイツ語で、妖精から私の事を聞いて興味を持ったと語った。お互いに自国語で話しているのに言ってる事が分かるのは妖精の力が働いていたからなのか?
この男。ゲーテと名乗り、自らが書いたという詩を朗読してくれた。
Sorge
Johann Wolfgang von Goethe
Kehre nicht in diesem Kreise
Neu und immer neu zuruck!
Las, o las mir meine Weise,
Gonn', o gonne mir mein Gluck!
Soll ich fliehen? Soll ich's fassen?
Nun, gezweifelt ist genug.
Willst du mich nicht glucklich lassen,
Sorge, nun so mach' mich klug!
人生いろいろな事があるだろうが人生とはそういうものだから逃げる事は出来ない。何にしてもいちどこっちに遊びに来ないか、と言われた。いつか行ってみたいと答えると、いつでも歓迎するとの事だった。このオヤジは日本がどこにあるのか分かって言ってるのか?
夢の中では何でもアリで誠に結構だ。時空を超えて名詩は語り継がれる。それも結構。
この詩を書いた頃のゲーテは40歳。まもなくフランス革命の嵐がヨーロッパ中を席巻し、彼が身を寄せていたワイマール公国もナポレオン軍に蹂躙されるはずだ。だが、強靭な精神力と類まれなバランス感覚の持ち主でもあったこの詩人はその後も現代まで伝わる名作を書き続けることになる。
いにしえの詩文や詩人の残した名言から・・・
最近は便利な物、興味深い物が沢山目につく。つい買ってしまう物もある。そうすると更に次の物が欲しくなる。こうして次々に物を買い、いつしか我が家は物と本だらけになった。それでもあれが無い、これが欲しいと思う日々。ある日、夢の中でホラティウスに笑われてしまった。
Semper avarus eget.
(ホラティウス 書簡詩)
人の欲に際限無し。貧しい者ほと貪欲だ。浅ましさが益々己の品位をおとしめる。しかもそれを全く自覚しない。まるで中韓露米みたいだが、彼らに限ったことではない。そういう思いは大であれ小であれ我々の身近な所にも巣食っている。そう。あなた自身の中にも。かといって無欲になんかなれっこない。それは現実を活きる者にとっては無意味な事だ。本人は良いかもしれないが周囲に多大な迷惑をかけるだろう。とどのつまりはそこそこのポイントを見つけてそこに安住出来ればこんなに良い事はない。「吾、唯足るを知る」という言葉もある。「人の倍冨めば人の倍余計な苦労をする」という言葉もある。己の器に見合ったところで満足するのが人の道にはずれない目安なのだろう。