茫庵

万書きつらね

2013年03月30日 - 詩人との対話 11

2013年03月30日 22時07分50秒 | 名句、名言

世の人の 愚かぶり見て 呆れ果て 今更ながら
独り言 詮無き事と 知りつつも
繰れずにおれぬ 限りなき 憂い災い 渦巻く未来

「自分には出来る」
「自分なら大丈夫だ」

人はそう思い込んで余計な事をする
人はそう信じた気になって出来もしない事をする

そして後になって狼狽する
予想しない結果に直面して呆然とする

だが、傍から見ればそれは皆起こるべくして起こる
すべての事は成るべくして成るのだから

偶然や理不尽など存在しない
すべての事は必然としてやってくるのだから


 ところで最近の私のお気に入りはゲーテ「魔法使いの弟子」だった。

「何をたそがれているのかな?」
「あ、マイスター」
「それは私が若いころ書いた作かね?」
「はい」
「なんでまたそんなものを」
「現代ドイツではラップになってるんですよ、これ」
「ラップとは、アフリカのグリオのようなものかね」
「はい」
「ううむ。私がこれを書いた頃にはこんな朗誦は想定してなかったな」
「だと思いますが、これはこれでリズム感があって現代的な味わいがあります」
「若い人はそう思うか。確かにドイツ語ではあるな」
「JDDからリリースされてますよ」
「JDDというと?」
「私も最近知ったのですが、Junge Dichter und Denkerという詩と音楽のプロジェクトのことです」

http://jdd-musik.de/ueberuns

「なるほど」
「あなたの作品だけでなく、沢山の名詩やリート、バラッドなども現代風にアレンジして提供してます」
「時代によりスタイルは違っても、若い人が伝統的な詩に親しむのは良い事だ」
「現代日本語には詩が無いですから羨ましい限りです」
「そうかね。私は詩のない言語などあり得ないと思うのだが」
「数十年前、口語自由詩の主張者たちが詩というものを放棄してしまいました」
「日本語にも日本語の伝統や言語芸術があるだろう」
「伝統的な和歌や漢詩はともかく、現代詩はそれとは無縁のものです。そもそも詩でもないのですから芸術でもあり得ません」
「君が私の詩を愛誦するのは口語で書かれた日本語詩へのあてつけかね?」
「それもありますが、単に好きだからですよ」
「どこがそんなに好きかね?」
「韻律、ストーリー、登場人物、どれをとっても」
「そういえば、君もまたZauberlehrlingのひとりだったね」
「はい、種類は多少違いますが」
「では身近に感じられるわけだ」
「それもあります」
「君は教訓、とは言わないのだね」
「はい、教訓が入ってるからその詩が好き、という事にはつながりません。
 教訓は、入っていても入ってなくても詩は詩です」
「なるほど。君にも君なりの一貫した思想があるということか」
「はい」

 



Johann Wolfgang von Goethe

Der Zauberlehrling

Hat der alte Hexenmeister
Sich doch einmal wegbegeben!
Und nun sollen seine Geister
Auch nach meinem Willen leben.
Seine Wort´ und Werke
Merkt ich und den Brauch,
Und mit Geistesstärke
Tu ich Wunder auch.

Walle! walle
Manche Strecke,
Daß, zum Zwecke,
Wasser fließe
Und mit reichem, vollem Schwalle
Zu dem Bade sich ergieße.

Und nun komm, du alter Besen!
Nimm die schlechten Lumpenhüllen;
Bist schon lange Knecht gewesen:
Nun erfülle meinen Willen!
Auf zwei Beinen stehe,
Oben sei ein Kopf,
Eile nun und gehe
Mit dem Wassertopf!

Walle! walle
Manche Strecke,
Daß, zum Zwecke,
Wasser fließe
Und mit reichem, vollem Schwalle
Zu dem Bade sich ergieße.

Seht, er läuft zum Ufer nieder,
Wahrlich! ist schon an dem Flusse,
Und mit Blitzesschnelle wieder
Ist er hier mit raschem Gusse.
Schon zum zweiten Male!
Wie das Becken schwillt!
Wie sich jede Schale
Voll mit Wasser füllt!

Stehe! stehe!
Denn wir haben
Deiner Gaben
Vollgemessen! -
Ach, ich merk es! Wehe! wehe!
Hab ich doch das Wort vergessen!

Ach, das Wort, worauf am Ende
Er das wird, was er gewesen.
Ach, er läuft und bringt behende!
Wärst du doch der alte Besen!
Immer neue Güsse
Bringt er schnell herein,
Ach! und hundert Flüsse
Stürzen auf mich ein.

Nein, nicht länger
Kann ichs lassen;
Will ihn fassen.
Das ist Tücke!
Ach! nun wird mir immer bänger!
Welche Miene! welche Blicke!

O, du Ausgeburt der Hölle!
Soll das ganze Haus ersaufen?
Seh ich über jede Schwelle
Doch schon Wasserströme laufen.
Ein verruchter Besen,
Der nicht hören will!
Stock, der du gewesen,
Steh doch wieder still!

Willsts am Ende
Gar nicht lassen?
Will dich fassen,
Will dich halten
Und das alte Holz behende
Mit dem scharfen Beile spalten.

Seht, da kommt er schleppend wieder!
Wie ich mich nur auf dich werfe,
Gleich, o Kobold, liegst du nieder;
Krachend trifft die glatte Schärfe.
Wahrlich! brav getroffen!
Seht, er ist entzwei!
Und nun kann ich hoffen,
Und ich atme frei!

Wehe! wehe!
Beide Teile
Stehn in Eile
Schon als Knechte
Völlig fertig in die Höhe!
Helft mir, ach! ihr hohen Mächte!

Und sie laufen! Naß und nässer.
Wirds im Saal und auf den Stufen.
Welch entsetzliches Gewässer!
Herr und Meister! hör mich rufen! -
Ach, da kommt der Meister!
Herr, die Not ist groß!
Die ich rief, die Geister
Werd ich nun nicht los.

"In die Ecke,
Besen! Besen!
Seids gewesen.
Denn als Geister
Ruft euch nur, zu seinem Zwecke,
Erst hervor der alte Meister."

(eingesandt von Hans-Hermann Bartz: Kranz-Bartz@t-online.de )


人は時として自分の力量では手に負えない物を、
そうとは知らずに弄ぶ。

呪文とも駄文ともつかないコトバを並べて
「詩」を書いたと錯覚しているすべての「詩人」たちも、
無恥と怠惰を自ら証明しているだけだという事に
少しも気付く様子はない。

真の日本語の詩は外からやってくるに違いない。
その担い手は伝統的な日本語の美しさを愛する外国人だ。





 


2012年11月26日 - ダンテ「神曲」を読む 7

2012年11月22日 00時13分12秒 | 名句、名言


 地獄編で地獄に落とされた人々の中にはキリスト教世界ではかなり偉いはずの法王もおり、当時腐敗しまくっていた教会の在り方について痛烈な諷刺 の一撃を加えている、という一面も伺えるなど、一応は自己批判も入れて本人なりにバランスを保とうとしているのかと思われるところがあります。

 それにしても地獄編を読み始めてから何かひっかかるものをずっと感じ続けていたのですが、浄火(煉獄)篇に入ってからようやくそれが何か分かってきました。それは、、、。

 既に死んで肉体を失っているはずの亡者が肉体の責め苦に喘いでいる

 という事です。

 「お前ら復活の日まで肉体ないんとちゃうんか? 何、痛がっとるんや?」

 とまあ、そういう事なのです。地獄に堕ちると大変だよ、という事を表現するために色々な責め苦が生々しく描写されていて、それはそれで不気味でもあり悲惨でもあり、読者に恐れの念を抱かせるには十分なのですが、どこか絵空事で身に迫るリアリティが無い理由はまさにそこにあったのです。地獄の住人たちは、生きているダンテと同じように喋りもするし、相手の顔を見てそれと判断したりもします。虐められれれば血まで流すのですから。霊魂ってそういうもんでしたっけ?

 ここから先は本当にそうなのか、誰も証明する事は出来ないし、逆に、そうではないとも言い切れない観念的な世界に入ってしまいます。言わばなんとでも言えるのです。ちなみに我々儒者は、「怪力乱神は論ぜず」といってこういった類の話題は口にしない、というのがならわしです。


2012年11月26日 - ダンテ「神曲」を読む 6

2012年11月14日 22時57分03秒 | 名句、名言


  岩波は煉獄(浄火)編、その他は地獄編を読んでいます。地獄編には作者の独断と偏見により落とされた人々が責め苦にあえいでいましたが、煉獄では救済のための罪の浄化が行われます。こうした考え方、即ち、重い罪に対して罰、それも恐ろしく過酷な体罰が用意され、軽い罪に対しては浄化の手段が用意され、天国に至る、という構成自体が非常に俗っぽいというか、人間的で、余り全知全能の神が用意したシナリオとしては陳腐に過ぎるのではないか、という印象を持ちます。これって、無法者が善良な市民を「言う事聞かへんかったら痛い目に遭わせたるでぇ」と凄んで脅しをかけているのとどこが違うのでしょう?

 キリスト教に限った事ではありませんが、そもそも人が作った宗教があまねく人を救えるはずはなく、必ずどこかに不備や矛盾を抱えているものです。聖書自体が分裂した教会勢力が寄り集まって政治的駆け引きの末決めた内容を受け継いでいるだけですし。所詮は人が作った神。人が愚かな見識と利害関係によって生み出した神。こんなものに人を救えるわけがない、というごく当たり前の理屈を持って読むならば、たちまちその欠陥はあらわになるでしょう。歴史的にもキリスト教会がこれまで残してきた数々の汚点と醜態は明らかです。およそ普遍的な価値など認められません。これは、教義の優劣ばかりでなく、それを信奉する人間がそもそも罪深くて愚かな生き物であるためです。

 それでも信じる信じないはそれぞれ自分自身が決める事。私は他人の信仰をどうこう言う気はありませんが、この手の話は余り無条件に受け入れるべきではないし、受け入れられる物でもない、という考えでいます。ここまで読んでみてますますその思いを強くしました。

 ダンテも「神曲」に陶酔、あるいは共感する人々も、一種の偏執狂に違いありません。




2012年11月13日 - ダンテ「神曲」を読む 5

2012年11月13日 01時07分00秒 | 名句、名言


 このシリーズはダンテ「神曲」のあらすじの紹介や和訳を掲載するのが目的ではありません。それについては既に優れた作品が世の中には沢山出回っています。ましてやダンテ研究といったマニアックなものでもありません。むしろ、翻訳や意味的解釈だけではとらえきれない詩文としての魅力を体感しながら自分の中にどんな刺激を取り込むか、という実験記録のようなものです。

 さて、読書状況についてですが、昨日、岩波の地獄編を通読しました。途中で河出を追い抜かしてのゴール、とはいえ作者が描こうとした地獄の全貌はまだぼーっとしたままです。挿絵やイラストなど色々と出ていますがそれぞれ一場面を断片的にとらえたものなので全体像としてのつながりが持てないでいます。地獄ってまーるいの? 輪っかになってる? なんで? みたいな状態です。ですが、こうしたぼやけた状態になるのはいつものことです。私はひとつの作品を数度以上読み込まないと自分の中でイメージが出来上がらないのです。
 
 次に、地獄編の一度めの通読を終えて思うこと。地獄には永劫に救われない魂がいて、日夜苦しみを味わい続けています。本作は客観的な存在として地獄があり、そこへ行ってきた作者が旅行記を書いた、というようなしろものではなく、あくまでも作者が「勝手に」思い描いた地獄です。ということは、そこにいる人々(の魂)もまた作者がそこにいるのがふさわしかろうと考えたからこそいるわけで、言い換えれば作者によって地獄に落とされたのであります。

 言わば、ダンテは神でもないのに勝手に地獄の住民を決めてしまったわけですが、作者自身もまたその地獄で恐れおののきながらウェルギリウスに連れられてゆくだけの存在として描かれます。一方、作者の尊敬と陶酔の対象であったウェルギリウスはただの詩人とは思えないほど偉大な人物として描かれます。しかし、それでも天国には入れません。彼は「イェス・キリスト」以前の時えt代の人で、「本当の神を知らない」からです。ダンテにその点についていささかの妥協も例外もなく、スーパーマン、ウェルギリウスに「その先は、私よりもっと高貴な方の導きがある」と言わしめています。

 このモチーフは、なかなか使えそうです。何でかわからないままに異界に降り立った主人公を、歴史上の偉大な人物が導く。その人物は知恵と力と勇気と、気高い人格を備え、他を圧倒するが、完全無欠ではなく、やがてその役目は更に気高い人物へと引き継がれる。ファンタジー系のお話や、ゲームにもなっていそうですね。

 ダンテが最初に登場する森、そこで見つける山、遭遇する三頭のけものについては、その後に登場する怪物や風景、責め苦などと同じく、それぞれシンボリズム的解釈がついていますが、今はエリオットの言に従って、そういったものとは切り離して、言葉通りに受け止めて先に進むとしましょう。注釈など、細部に目を通すのは二週目以降でも遅くはありません。

 次に地獄編読破を目指すのは、現在位置からいえば河出が最も近くにいますが、私の興味の深さからいえば、読み進み始めたばかりのPenguinBooks版です。他バージョンもそれぞれ少しずつ進み、岩波は煉獄編へと進みます。


2012年11月10日 - ダンテ「神曲」を読む 4

2012年11月10日 11時21分30秒 | 名句、名言


 なかなか読書が進まないなかで、Terzineで書かれた英語版(ペンギンbooks)を購入しました。同じTerzineで書かれた英訳は何種類も出ており、中には原詩と対訳になっているものもありましたが、全巻揃っている以下のシリーズを入手しました。

Penguin Books
The Comedy of Dante Alighieri
The Florentine
Cantia Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
Translated by Dorothy L. Sayers
ISBN-13: 978-0-140-44006-5

 既にインターネットでフリーのテクストをいくつかダウンロードしてはいましたが、ページを行ったり来たりするのに不便ということで、自宅限定で読む事にしていました。スマートフォンに入れてみましたが、文字が小さすぎて目が疲れてしまうので大変でした。フォントを拡大したら部分しか表示されず、端に行く度にスクロールするのが結構面倒で、時々どこを読んでいるか見失ったりするのでこれまた不便。手軽に持ち歩けるペーパーバック版が見つかってよかったです。更に、集英社文庫の邦訳版も入手。これで我が家にはダンテ「神曲」の紙の本はレクラム、岩波、河出、ペンギン、集英社の各バージョンが揃った事になります。言語的には以下のようになります。

ドイツ語
 レクラム文庫(Terzineではない)
 インターネット(Google Books)(Terzine)
英語
 ペンギンブックス(Terzine)
 インターネット(Google Books)
日本語
 岩波(文語+漢語)、河出(口語)、集英社(文語っぽい口語)の各文庫
 インターネット(Google Books)
中国語
 インターネット(中国系電子ブック)(Terzineではない)


 原詩がどうなっているか、私には理解出来ないのでどれが元の詩意を伝えているかの判断は出来ませんが、詩型的には英語とドイツ語それぞれに踏襲したものがあるので先ずはそこに狙いを絞って読んでいます。それでも英語版には複数の選択肢があり、選択に困るところですが、とりあえず全巻揃っているものを揃えました。

 現在岩波の文語訳版が最も進んでいて25曲。河出が20曲、独英はそれぞれ5曲あたりで行っおたり来たりしていますがどれを読んでも語彙力不足でいまいち分からないところがあり、まだまだ消化不良状態が続いています。

 ここまでで見えてきたものは、作者は地獄に現世の様々な物を持込み、現世における人のあり方や価値観や行いなどがどう裁かれるかを描く事で、作者の持つ信念や価値観を描いているという事です。それは、必ずしも世界一般で受け入れられる様な普遍的な物ではありません。大多数の日本人にはキリスト教的世界観は理解出来ないのでなおさらです。もっともこれが教義に基づいているかというと私にはかなり違和感があります。実際、私が通っていた協会では牧師が地獄の事など牧師が話す事はありませんでした。もっともプロテスタント系協会はまだ存在すらしてなかったのでダンテの時代、フィレンツェでは別に珍しい内容ではなかったのかもしれませんが。

 このあたりの情報はダンテ研究者が巷には沢山ある様ですが、私はまだ目を通していません。なので、この先もっと明らかになってくると思います。ま、そこはその都度自分の情報を更新していくということで。


2012年11月04日 - ダンテ「神曲」を読む 3

2012年11月04日 19時21分37秒 | 名句、名言

 仕事に追われる毎日の行き帰りと昼休みにダンテ「神曲」をひもとくこの頃。

 元はTerzineという詩型で書かれていて、ドイツ語版、英語版、いずれもその形式を踏襲して3行を一連として書かれています。但し、各言語それぞれ散文訳もあれば脚韻無視の訳もあります。色々なバージョンを見つけて比較してみると、日本語訳については、私は3行ひと組になっているというだけの散文訳、という感を強くしただけでした。意味は理解出来ますが、それだけです。詩と呼べるしろものではありません。幾分詩情的にましなのが文語訳の岩波文庫版でしょうか。現代語の河出文庫版は読みやすさと理解しやすさは抜群ですが、詩というよりは冒険小説を読んでいるみたいです。

 さて、Terzineは行1+2+3、4+5+6、7+8+9、、、と、3行を一組とする連を任意に続けていき、最後だけ4行目を置いて終わり、という形式です。なお、私は原詩を見ていませんが、その3行はaba、bcb、cdc、、のように脚韻を踏む、と、とある詩学の説明には書いてありました。実際、ドイツ語版でも英語版でもそのルール通りに脚韻を踏んでいるものがちゃんとありました(踏んでないものもあります)。もちろんこの詩型はイタリア生まれなのでもともとドイツ語にはありません。ドイツ語世界ではダンテの「神曲」を徹底的に研究してこの詩型をものにした、とある本には書いてありました。異国の詩型を導入する為に、ドイツ語圏の先人たちは、日本の口語自由詩運動以来の怠惰なで不遜な詩人とは違って、多大な努力を惜しみなく払ったのです。

 詩人たちが努力しなかったお陰で日本語には原詩の詩情を十分に感じられる名訳は存在せず、詩学の発展もなかったせいで日本語には西洋の詩型を移植出来る日本語詩の詩型が未だにありません。もともと日本現代詩は西洋詩を真似るところから始まったのに、です。先ず詩学的な発展が遂げた詩人や学者が提言を発表し、実作による読者への普及があり、詩の世界は作り手にとっても受け手にとっても豊かに拡がっていくものなのですが、日本には新しい詩型の発表も詩学の読者への普及の動きもありませんでした。

 もっとも私は口語自由詩など詩とは認めない派なので、こんな人々がどうなろうと関心はありません。自分に考えつく限りに日本語の詩型への試みを求めていくだけです。

 詩型について、つらつらと考えながら読み進みます。いちど読んだだけではなかなかどういう内容なのか把握出来ません。詩としての面白さや味わいどころか言語としての意味すらよく分からないのです。私は洋の東西を問わず、古典を最初に読むとたいていこんな第一印象なので、これ自体は別に珍しい事ではないのですが、どこかに自分に合った訳がないものかとインターネットを捜し回り、英語版とドイツ語版それぞれに見つける事が出来ました。とりあえずはそれを自分の底本として他のバージョンも読み比べる、という進め方でいきます。


2012年10月28日 - ダンテ「神曲」を読む 2

2012年10月28日 20時54分41秒 | 名句、名言


 さて、早速第一印象について述べてみたいと思います。現在地獄編を読み進めています。

 まず驚くのはページ数の違いです。本文と注釈合わせて山川訳は327ページ。平川訳は468ページ。ドイツ語訳は169ページ。英語版は紙の版ではないのですが235ページでした。文字の大きさの違いもありますが、余りに差があるのは日本語にはHexameterに相当する文体がなく、特に現代口語において冗長さが著しくなってしまうという特徴が際立ってしまったのではないかと思います。

 ドイツ語版、英語版、現代語訳それぞれ3行で1連のような構成になっています。ドイツ語版と英語版はアクセントを6つ持った美しい詩行が展開されていて、読む者を言語特有の恍惚感に導きます。日本語版にはもちろんそれは全くありません。いえ、この口語体訳にも文語体訳にもそれを伺わせる工夫がありません。

 私はここで七五調で書け、とかいう事を言っているのではありません。口語自由詩が台頭して以降、新体詩の先人たちが試みようとしていた詩体の開発がすっかり廃れてしまい、日本詩学の開発発展も放棄された状態が続いている、という事を改めて指摘しておきたいのです。何故か。今日本語で「詩」と称されているものが本当に「詩」といえるしろものなのか、私は常々疑問に思っているからなのです。訳詩を朗読を聴いてみれば分かりますが、れっきとしたHexameterで書かれた英文や独文は、明らかに普通の会話や散文とは違います。日本語訳だけが詩文としての区別がつきません。多くの現代詩には韻律がないからです。

 独文も英文も元のイタリア語とは異なる特性を持ち、そのままのHexameterを導入する事は出来ませんでした。それぞれの国では詩人や学者たちが自国の言語に合う形でHexameterを詩学の中に取り入れ、詩作をするまでになったのです。そればかりでなく、読者にも受け入れられているのは、詩形の普及や教育に対する努力が歴史的に積み重ねられてきたからなのです。日本の詩人はそうした努力を払っていません。怠惰の中で個人の言語世界の中にのみ耽溺し、誰にもわからない呪文のような作品を作っては自己満足に興じているだけです。読者も詩に対する関心が薄れ、また、新しい詩学の息吹を感じる事もなく、世界の文学から置き去りにされているのです。

 勉強不足で意識の低い日本の詩人たち。言い訳やごたくを聞くのにはもううんざりです。実力も向上心もない詩人たちは置いておいて、私は一介の読者としてよき詩とは何か、よき詩を作るといはどういう事か、道を探る試みを続けていくつもりです。


2012年10月28日 - ダンテ「神曲」を読む 1

2012年10月28日 09時10分29秒 | 名句、名言

ダンテの「神曲」を読み始めました。

 この作品について前置きは不要でしょう。詳しい説明が既にあちこちにあるからです。筆者が利用したサイトの一部は以下になります。

http://www.epischel.de/Dante/dante.html
http://www.poetryintranslation.com/klineasdante.htm
http://de.wikipedia.org/wiki/G%C3%B6ttliche_Kom%C3%B6die
http://www.booksshouldbefree.com/book/Gottliche-Komodie-Die-Holle

 更にlibrivox.orgにオーディオブックもあります。

http://librivox.org/the-divine-comedy-by-dante-alighieri/
http://librivox.org/die-gottliche-komodie-das-fegefeuer-by-dante-alighieri/
http://librivox.org/die-gottliche-komodie-das-paradies-by-dante-alighieri/
http://librivox.org/die-gottliche-komodie-die-holle-by-dante-alighieri/


 現在訳本のみで、原語バージョンはありません。私はトスカーナ方言は現在全く理解出来ないので今すぐに原語版に挑戦する予定もありません。

Reclam Helman Gmelin訳(ドイツ語)
Naxos audiobook Benedict Flynn(英語)
河出書房 平川祐弘訳 全3巻
岩波書店 山川丙三郎訳 全3巻
ダウンロード Henry Wadsworth Longfellow訳(英語)
ダウンロード John Ciardi訳(英語)


 今まで名前だけは知っていた、という程度。いきなり読み始めて読み終えられるのかどうか、全くわかりませんが、ともかくやり始めない事には何も分かりません。

 さて、今回挑戦に踏み切った最大の理由はHexameterを体感し、理解をすすめる事にあります。古典以来脈々と受け継がれてきたこの叙事詩を紡ぐ偉大な詩型のどこにそんな魅力があるのか、いまいち私には実感出来ずにいます。叙事詩が書けない日本語での訳は、この目標にとっては本来まったく意味がないのですが、一応先人たちがこの偉大な作品にどう取り組んできたかを知る、という意味で採用しました。実際、日本語訳は意味を知る事はできますが、その訳文にはどんな詩であったかを伺わせる部分は全く残っていません。ドイツ語訳や英語訳も訳には違いないのですが、Hexameterでは書かれているので本来の目標には十分適合すると考えます。

 私がよく読んでいる英語詩やドイツ語詩にとっては、Hexameterは結構長いと感じられる詩型です。私にとって、ドイツ語詩で読みやすく馴染みのあるものは1詩行に2音節(弱強)4詩脚のものがほとんどで、3音節(強弱弱)6詩脚のHexameterが長く感じられるのは当然といえば当然なのですが、なかなかこの長さについていけないというのがこれまで読んだ限りの感想です。

 Hexameter理解の手始めとして、私はフランス語での読解を試みましたが、独英とは異なる律動を持つフランス語の詩文を読む事は、結局新たな課題をひとつ上乗せしただけでした。しかしながら、それにより更なる原点回帰を促された私は古代ローマのHexameterで書かれた文献を読む為にラテン語の勉強を始め、少しはその律動を体感出来る様になってきたので、今回、更にそれを進めて言語的に馴染みの深い独英二ヶ国語でHexameterで書かれた本格的な詩文に挑戦する運びになったものです。




2012年09月19日 - 詩人との対話 10

2012年09月19日 01時47分38秒 | 名句、名言


 残暑きびしく 寝つけも悪く
 時間は過ぎる 眼は冴える
 仕方がないので 本でも読んで
 眠気が来るのを 待つ夜


Einsamkeit

Die Einsamkeit ist wie ein Regen.
Sie steigt vom Meer den Abenden entgegen;
von Ebenen, die fern sind und entlegen,
geht sie zum Himmel, der sie immer hat.
Und erst vom Himmel fällt sie auf die Stadt.

Regnet hernieder in den Zwitterstunden,
wenn sich nach Morgen wenden alle Gassen
und wenn die Leiber, welche nichts gefunden,
enttäuscht und traurig von einander lassen;
und wenn die Menschen, die einander hassen,
in einem Bett zusammen schlafen müssen:

dann geht die Einsamkeit mit den Flüssen...
 (リルケ 「Einsamkeit」 形象詩集より)

 一人で起きている深夜、
 静寂の中で雨なんか降ってくるのを聞いていると、
 つい、自分の感覚が夜の世界に拡がって、
 雨のダイナミズムが自分を通りすぎてゆく寂寥感と重なる。

「どうだい、君にわかるか、このEinsamkeitが」 リルケの問いかけが聞こえた。
「だがね、Einsamkeitは自然界を循環するものではないと思うよ」 私は答える。
「ちっちっ。そうじゃないんだ。人間はすべて大宇宙に包まれて生きている。
その大宇宙にEinsamkeitは満ちていていて、時折人の世界に降り注ぎ、
静かに流れ去っていくのだよ」
「なんでそんな事が言えるんだい?」
「人は皆、たった一人で生まれてきて、たった一人で死んでゆくだろ」
「まあ、それはそうだ」
「それを宇宙の中でやっている光景を思い浮かべてみたまえ」
「宇宙ねぇ」
「この広大な宇宙空間にたった一人、浮かんでいる自分。この孤独、この静寂。
それは雨が振って外の世界を閉ざしてしまった時に似ているとは思わないか?」
「べつに」
「君には想像力というものが無いのか?」
「無いかも」
「病んでいる。病んでいるよ、君」
「まあまあ、世界にはいろんな奴がいるってことで、、」
「それは理屈だが。。。」

 とめどもなく話は続き、いつしか私は眠っていたらしい。
 気がつくと、あたりは明るくなっていた。



2012年09月09日 - 詩人との対話 9

2012年09月09日 07時48分47秒 | 名句、名言

 九月九日は菊(重陽)の節句。
 易経ではお馴染み、陽を代表する数字である九が2つ重なるからこう呼ばれる。
 今では余り聞かないが、この日には、日本でも中国から伝来した風習が行われていた。家族親戚揃って高い場所を目指して遠足に行く、というものだ。中国では須臾の実を頭につけたという。更に、菊の花びらを浮かべて酒を飲み、邪氣を払い、長寿を祈願したという。

 酒といえば陶潛。このおっちゃんは、何かというと酒、酒、という印象が強いが、きっちりそのものの詩を残している。

饮酒其七

秋菊有佳色
裛露掇其英
泛此忘忧物
远我遗世情
一觞虽独进
杯尽壶自倾
日入群动息
归鸟趋林鸣
啸傲东轩下
聊复得此生

(陶潜 饮酒其七より)

 私自身は滅多に酒を飲む事はないのでこの気持ちは少しも理解出来ないが、少なくともこの詩を見る限りでは、私が大嫌いな、何人かでつるんで酩酊し、醜態をさらす醉っぱらいの類いではないらしい。まあ、好きな酒を飲みながら感慨に浸る、私が日頃お茶でやってる様なものなのだろう。

「何言ってんの、あーた」
淵明さん?」
「好きなのに饮めないこと辛さ、酒を解さないあーたにゃわからんでしょ」
「それは、まあ」
「読んでくれた?挽歌诗」
「なんで晉代の淵明さんが簡体字で話すかなぁ。。。」
「生きてる时はろくに饮ましてもらえなかったのに、
 死んでからなみなみと杯やら利やらお供えされてもさぁ、
 嫌味じゃないの、これ?」
「あれは詩の中の話でしょ?」
「それが案外そうでもなかったのよ、これが。。。」

 それから何十分つき合わされたか。陶潛は酒がどんなに素晴らしい物であるかを説き、自分が本当に生前ろくに飲めなかった酒を死後に供えられて閉口している事をさんざん愚痴っていった。

やっぱり酒呑みは嫌いだ。