なんだ、しれっと復帰するのか。
会見までやって、少しも悪びれる風もなく、もっともらしい事を述べていた。なんといっても女優さんなんだから、どうとでも振る舞えるという前提で見なければ騙される。実際、捕まるまでは嘘をつき通そうとしていたことを忘れてはならない。どのみち顔つきからして再犯は限りなく確実に近い。とんでもない極悪人だ。一般国民の目に触れる場所に置くべきではない。
一般人が同じ犯罪を犯したとして同じ扱いをするだろうか。
一般人の常識から見たら逃亡騒ぎまで起こした極悪人ではないか。
でも一方でこんなんでも歓迎する向きがあるのだろう。金になれば何でもいい、という芸能界と、とにかく見られればいいじゃないかという無責任なファン層。こうして駄目国民の馬鹿さ加減と駄目駄目加減に拍車がかかる。
マスコミも、こんな犯罪者の宣伝に一役買うのはやめて、総掛かりで無視すればよい。国民もそのうち忘れてしまうだろうから。
地獄編で地獄に落とされた人々の中にはキリスト教世界ではかなり偉いはずの法王もおり、当時腐敗しまくっていた教会の在り方について痛烈な諷刺 の一撃を加えている、という一面も伺えるなど、一応は自己批判も入れて本人なりにバランスを保とうとしているのかと思われるところがあります。
それにしても地獄編を読み始めてから何かひっかかるものをずっと感じ続けていたのですが、浄火(煉獄)篇に入ってからようやくそれが何か分かってきました。それは、、、。
既に死んで肉体を失っているはずの亡者が肉体の責め苦に喘いでいる
という事です。
「お前ら復活の日まで肉体ないんとちゃうんか? 何、痛がっとるんや?」
とまあ、そういう事なのです。地獄に堕ちると大変だよ、という事を表現するために色々な責め苦が生々しく描写されていて、それはそれで不気味でもあり悲惨でもあり、読者に恐れの念を抱かせるには十分なのですが、どこか絵空事で身に迫るリアリティが無い理由はまさにそこにあったのです。地獄の住人たちは、生きているダンテと同じように喋りもするし、相手の顔を見てそれと判断したりもします。虐められれれば血まで流すのですから。霊魂ってそういうもんでしたっけ?
ここから先は本当にそうなのか、誰も証明する事は出来ないし、逆に、そうではないとも言い切れない観念的な世界に入ってしまいます。言わばなんとでも言えるのです。ちなみに我々儒者は、「怪力乱神は論ぜず」といってこういった類の話題は口にしない、というのがならわしです。
岩波は煉獄(浄火)編、その他は地獄編を読んでいます。地獄編には作者の独断と偏見により落とされた人々が責め苦にあえいでいましたが、煉獄では救済のための罪の浄化が行われます。こうした考え方、即ち、重い罪に対して罰、それも恐ろしく過酷な体罰が用意され、軽い罪に対しては浄化の手段が用意され、天国に至る、という構成自体が非常に俗っぽいというか、人間的で、余り全知全能の神が用意したシナリオとしては陳腐に過ぎるのではないか、という印象を持ちます。これって、無法者が善良な市民を「言う事聞かへんかったら痛い目に遭わせたるでぇ」と凄んで脅しをかけているのとどこが違うのでしょう?
キリスト教に限った事ではありませんが、そもそも人が作った宗教があまねく人を救えるはずはなく、必ずどこかに不備や矛盾を抱えているものです。聖書自体が分裂した教会勢力が寄り集まって政治的駆け引きの末決めた内容を受け継いでいるだけですし。所詮は人が作った神。人が愚かな見識と利害関係によって生み出した神。こんなものに人を救えるわけがない、というごく当たり前の理屈を持って読むならば、たちまちその欠陥はあらわになるでしょう。歴史的にもキリスト教会がこれまで残してきた数々の汚点と醜態は明らかです。およそ普遍的な価値など認められません。これは、教義の優劣ばかりでなく、それを信奉する人間がそもそも罪深くて愚かな生き物であるためです。
それでも信じる信じないはそれぞれ自分自身が決める事。私は他人の信仰をどうこう言う気はありませんが、この手の話は余り無条件に受け入れるべきではないし、受け入れられる物でもない、という考えでいます。ここまで読んでみてますますその思いを強くしました。
ダンテも「神曲」に陶酔、あるいは共感する人々も、一種の偏執狂に違いありません。
このシリーズはダンテ「神曲」のあらすじの紹介や和訳を掲載するのが目的ではありません。それについては既に優れた作品が世の中には沢山出回っています。ましてやダンテ研究といったマニアックなものでもありません。むしろ、翻訳や意味的解釈だけではとらえきれない詩文としての魅力を体感しながら自分の中にどんな刺激を取り込むか、という実験記録のようなものです。
さて、読書状況についてですが、昨日、岩波の地獄編を通読しました。途中で河出を追い抜かしてのゴール、とはいえ作者が描こうとした地獄の全貌はまだぼーっとしたままです。挿絵やイラストなど色々と出ていますがそれぞれ一場面を断片的にとらえたものなので全体像としてのつながりが持てないでいます。地獄ってまーるいの? 輪っかになってる? なんで? みたいな状態です。ですが、こうしたぼやけた状態になるのはいつものことです。私はひとつの作品を数度以上読み込まないと自分の中でイメージが出来上がらないのです。
次に、地獄編の一度めの通読を終えて思うこと。地獄には永劫に救われない魂がいて、日夜苦しみを味わい続けています。本作は客観的な存在として地獄があり、そこへ行ってきた作者が旅行記を書いた、というようなしろものではなく、あくまでも作者が「勝手に」思い描いた地獄です。ということは、そこにいる人々(の魂)もまた作者がそこにいるのがふさわしかろうと考えたからこそいるわけで、言い換えれば作者によって地獄に落とされたのであります。
言わば、ダンテは神でもないのに勝手に地獄の住民を決めてしまったわけですが、作者自身もまたその地獄で恐れおののきながらウェルギリウスに連れられてゆくだけの存在として描かれます。一方、作者の尊敬と陶酔の対象であったウェルギリウスはただの詩人とは思えないほど偉大な人物として描かれます。しかし、それでも天国には入れません。彼は「イェス・キリスト」以前の時えt代の人で、「本当の神を知らない」からです。ダンテにその点についていささかの妥協も例外もなく、スーパーマン、ウェルギリウスに「その先は、私よりもっと高貴な方の導きがある」と言わしめています。
このモチーフは、なかなか使えそうです。何でかわからないままに異界に降り立った主人公を、歴史上の偉大な人物が導く。その人物は知恵と力と勇気と、気高い人格を備え、他を圧倒するが、完全無欠ではなく、やがてその役目は更に気高い人物へと引き継がれる。ファンタジー系のお話や、ゲームにもなっていそうですね。
ダンテが最初に登場する森、そこで見つける山、遭遇する三頭のけものについては、その後に登場する怪物や風景、責め苦などと同じく、それぞれシンボリズム的解釈がついていますが、今はエリオットの言に従って、そういったものとは切り離して、言葉通りに受け止めて先に進むとしましょう。注釈など、細部に目を通すのは二週目以降でも遅くはありません。
次に地獄編読破を目指すのは、現在位置からいえば河出が最も近くにいますが、私の興味の深さからいえば、読み進み始めたばかりのPenguinBooks版です。他バージョンもそれぞれ少しずつ進み、岩波は煉獄編へと進みます。
ただ一点のみ。
野蛮人が始動する盗賊軍事国家、中国が
非道な主張を完全に引っ込め、以後一切関与しないこと。
それだけである。
これは侵略なのだから、侵略者が手を引く以外に平和的解決は無い。
なかなか読書が進まないなかで、Terzineで書かれた英語版(ペンギンbooks)を購入しました。同じTerzineで書かれた英訳は何種類も出ており、中には原詩と対訳になっているものもありましたが、全巻揃っている以下のシリーズを入手しました。
Penguin Books
The Comedy of Dante Alighieri
The Florentine
Cantia Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
Translated by Dorothy L. Sayers
ISBN-13: 978-0-140-44006-5
既にインターネットでフリーのテクストをいくつかダウンロードしてはいましたが、ページを行ったり来たりするのに不便ということで、自宅限定で読む事にしていました。スマートフォンに入れてみましたが、文字が小さすぎて目が疲れてしまうので大変でした。フォントを拡大したら部分しか表示されず、端に行く度にスクロールするのが結構面倒で、時々どこを読んでいるか見失ったりするのでこれまた不便。手軽に持ち歩けるペーパーバック版が見つかってよかったです。更に、集英社文庫の邦訳版も入手。これで我が家にはダンテ「神曲」の紙の本はレクラム、岩波、河出、ペンギン、集英社の各バージョンが揃った事になります。言語的には以下のようになります。
ドイツ語
レクラム文庫(Terzineではない)
インターネット(Google Books)(Terzine)
英語
ペンギンブックス(Terzine)
インターネット(Google Books)
日本語
岩波(文語+漢語)、河出(口語)、集英社(文語っぽい口語)の各文庫
インターネット(Google Books)
中国語
インターネット(中国系電子ブック)(Terzineではない)
原詩がどうなっているか、私には理解出来ないのでどれが元の詩意を伝えているかの判断は出来ませんが、詩型的には英語とドイツ語それぞれに踏襲したものがあるので先ずはそこに狙いを絞って読んでいます。それでも英語版には複数の選択肢があり、選択に困るところですが、とりあえず全巻揃っているものを揃えました。
現在岩波の文語訳版が最も進んでいて25曲。河出が20曲、独英はそれぞれ5曲あたりで行っおたり来たりしていますがどれを読んでも語彙力不足でいまいち分からないところがあり、まだまだ消化不良状態が続いています。
ここまでで見えてきたものは、作者は地獄に現世の様々な物を持込み、現世における人のあり方や価値観や行いなどがどう裁かれるかを描く事で、作者の持つ信念や価値観を描いているという事です。それは、必ずしも世界一般で受け入れられる様な普遍的な物ではありません。大多数の日本人にはキリスト教的世界観は理解出来ないのでなおさらです。もっともこれが教義に基づいているかというと私にはかなり違和感があります。実際、私が通っていた協会では牧師が地獄の事など牧師が話す事はありませんでした。もっともプロテスタント系協会はまだ存在すらしてなかったのでダンテの時代、フィレンツェでは別に珍しい内容ではなかったのかもしれませんが。
このあたりの情報はダンテ研究者が巷には沢山ある様ですが、私はまだ目を通していません。なので、この先もっと明らかになってくると思います。ま、そこはその都度自分の情報を更新していくということで。
仕事に追われる毎日の行き帰りと昼休みにダンテ「神曲」をひもとくこの頃。
元はTerzineという詩型で書かれていて、ドイツ語版、英語版、いずれもその形式を踏襲して3行を一連として書かれています。但し、各言語それぞれ散文訳もあれば脚韻無視の訳もあります。色々なバージョンを見つけて比較してみると、日本語訳については、私は3行ひと組になっているというだけの散文訳、という感を強くしただけでした。意味は理解出来ますが、それだけです。詩と呼べるしろものではありません。幾分詩情的にましなのが文語訳の岩波文庫版でしょうか。現代語の河出文庫版は読みやすさと理解しやすさは抜群ですが、詩というよりは冒険小説を読んでいるみたいです。
さて、Terzineは行1+2+3、4+5+6、7+8+9、、、と、3行を一組とする連を任意に続けていき、最後だけ4行目を置いて終わり、という形式です。なお、私は原詩を見ていませんが、その3行はaba、bcb、cdc、、のように脚韻を踏む、と、とある詩学の説明には書いてありました。実際、ドイツ語版でも英語版でもそのルール通りに脚韻を踏んでいるものがちゃんとありました(踏んでないものもあります)。もちろんこの詩型はイタリア生まれなのでもともとドイツ語にはありません。ドイツ語世界ではダンテの「神曲」を徹底的に研究してこの詩型をものにした、とある本には書いてありました。異国の詩型を導入する為に、ドイツ語圏の先人たちは、日本の口語自由詩運動以来の怠惰なで不遜な詩人とは違って、多大な努力を惜しみなく払ったのです。
詩人たちが努力しなかったお陰で日本語には原詩の詩情を十分に感じられる名訳は存在せず、詩学の発展もなかったせいで日本語には西洋の詩型を移植出来る日本語詩の詩型が未だにありません。もともと日本現代詩は西洋詩を真似るところから始まったのに、です。先ず詩学的な発展が遂げた詩人や学者が提言を発表し、実作による読者への普及があり、詩の世界は作り手にとっても受け手にとっても豊かに拡がっていくものなのですが、日本には新しい詩型の発表も詩学の読者への普及の動きもありませんでした。
もっとも私は口語自由詩など詩とは認めない派なので、こんな人々がどうなろうと関心はありません。自分に考えつく限りに日本語の詩型への試みを求めていくだけです。
詩型について、つらつらと考えながら読み進みます。いちど読んだだけではなかなかどういう内容なのか把握出来ません。詩としての面白さや味わいどころか言語としての意味すらよく分からないのです。私は洋の東西を問わず、古典を最初に読むとたいていこんな第一印象なので、これ自体は別に珍しい事ではないのですが、どこかに自分に合った訳がないものかとインターネットを捜し回り、英語版とドイツ語版それぞれに見つける事が出来ました。とりあえずはそれを自分の底本として他のバージョンも読み比べる、という進め方でいきます。