茫庵

万書きつらね

2014年03月07日 - 「日本語の詩は縦書き」の無意味

2014年04月07日 01時35分09秒 | 詩学、詩論

ネットではさほど珍しくないのですが
日本語の横書きの詩を随分と見かけるようになりました。

一方、紙の詩集はというと
相も変わらず縦書が主流の様です。

縦書主義者の中にはごたくを並べて
縦書の正当性を主張する人がいますが

そんなに日本語の原点に帰りたいなら
そもそも日本語には文字がないのですから

漢字もかなも捨てて縦書も横書きもない
世界に入るべきです。

言語は生きていて時代とともに変わっていくもの。
漢字の輸入も仮名を発明もその現れです。

縦書主義者の主張は、自分に都合の良い事しか
認めず、言語を縛り付けておこうとするものです。

こういう態度は乱暴極まりないといえます。
こういう輩が言語の発展の妨げになるのです。

言語を虐待しているといえます。
野蛮極まりない、の一言に尽きます。

かく言う自分は横書き主義者かって?
いいえ。

私は詩の本質は音にあると思っていて
詩文を音とリズムを通して味わいます。

なので、文字を縦に書こうが横に書こうが
味わい方に変わりはありません。


2013年03月17日 - 名詩名曲お似合いの歌

2013年03月17日 17時07分42秒 | 詩学、詩論

名詩には名曲がつきもの
名曲がつかない名詩はない

名詩はそれ自体が調べを放ち
名曲はメッセージを唱和する

旋律は描く 象徴の輝き
詩文は醸す 知的情感

天上の旋律を紡ぐ音韻と律動
それは珠玉の芸術になる

音楽をまとわない詩はただの雑言にすぎず
詩と調和しない音楽はただの雑音でしかない

詩は音楽を害さず
音楽は詩を損わず

いずれが主でも従でもなく
一体となって遥かなる次元の彼方へと人を誘う



2013年01月20日 - 定型の韻文でなければ詩ではない

2013年01月20日 09時46分37秒 | 詩学、詩論

 

 近代以降の日本の詩は西洋詩の模倣からはじまった。
 しかし、西洋詩の伝統と本質を理解する前に
 自称「口語自由詩」が世の中にはびこった為に
 上っ面の言葉を並べただけでの自称「詩」が蔓延ってしまった。

 現代詩のほとんどは詩と呼べるしろものではない。
 それは散文に改行を入れただけの駄文だ。
 その言語は何の芸術性も創意も工夫も自由もないものだ。
 獣が本能と情に任せて吠えまくるのと何ら変わらない。

 上っ面の模倣からではなく、しっかりとした土台を先ず築いて
 その上に自分たちの言語表現技術を磨き上げて芸術世界を創造する、
 これがどの国でも歴史的に行われてきた芸術発展の正常な有り方だ。

 日本の自称詩人だけが、愚昧と怠惰と無責任によりそのプロセスを放棄して
 安易な奔放主義と無秩序な大衆迎合を普及、定着させている。
 こうして何の躊躇もなく本物の詩の誕生を妨げ続けているのだ。

 


2012年10月14日 - 詩人ならラテン語くらい 4

2012年10月13日 11時22分55秒 | 詩学、詩論

詩人とHexameter 1

http://de.wikipedia.org/wiki/Hexameter


 ラテン語の詩文を読む様になってから、なにかとついてまわるのがこれ。Hexameter自体が何であるかについては至る所に説明や解説が落ちているのでそれを読めば理解出来ますが、なぜひとつの形式であれほどに沢山の著作が書かれたのかについては不勉強な私にはまだ分かりません。日本語で検索するとムーミンパパの話題位しか出てこないのは情けない限りです。もちろんHexameterを和訳したものから原文がHexameterである事を伺える片鱗は何一つ見出せません。つまり、ホメロスやホラティウス以来の西洋詩を日本語でしか読まない人には一生かかってもHexameterが何であるかを知る事は出来ません。

 当然ですが、和訳しか読んでない人がホメロスやウェルギリウス、マニリウスなどを読んだ、とか、分かったとかいう事もあり得ない訳です。意味を知っている、とは言えるかもしれませんが、詩文を読んだとはほど遠い状態である事は言を待つまでもありません。そして、原文はおろか、和訳の詩文すら勉強しない詩人って、果たして詩人といえるのか、、と疑問も残ります。何といっても、今の日本の詩は西洋詩を日本語に導入するところから始まったのですから、その源流を知らないで詩人と名乗れるのでしょうか。それはともかく。。。

 Hexameterというひとつの形式でかくも多彩な内容について著述出来る、という不思議、そして、それがつい最近まで使われていたという不思議。この2つの不思議について、暫く時間をかけて自分なりに追求してみようと思います。

 私が一番知りたい事は、何故あまたの詩人たちがHexameterを使って詩作したかという事です。もともと叙事詩を書くための詩型ですから、叙事詩を書くのであればまだ採用する理由としては分かり易いのですが、その後の欧州で、非ラテン語諸国でもまた、言語の壁を超えてHexameterが採用されたという歴史的事実は何を意味するのでしょう。しかも、一旦廃れながら近世以降再び使われたりしているのです。余程魅力的な韻律であると言わねばなりませんが、Hexameterを持たない言語をネイティブとする日本人にはなかなか理解し難い所でもあります。

 単なる復古という事でいえば、我々現代日本人が万葉の歌を詠む様なものかもしれません。


2012年10月06日 - 韓国が国をあげて演じる三文狂言。慰安婦問題

2012年10月06日 22時00分33秒 | 詩学、詩論

http://www.sns-freejapan.jp/2012/06/01/1552/

http://alfalfalfa.com/archives/5581316.html

 韓国の元日本軍人の講演会の記事だ。こうした記事は捜せばいくらでも見つかる。いわゆるネトウヨの虚言なのか、ブサヨの妄想なのか、この論争自体まだまだどう決着するかわからない面はあるが、情報メディアとしては片方だけに偏向して流すのは宜しくない事だけは確かだ。この点、慰安婦問題にしても、南京虐殺問題にしても、片方しか取り上げない日本馬鹿マスコミの姿勢には大きな疑問が残る事は明らかだ。

 それにしても、最近ではこうした証言が出てきているとはいえ、相変わらず日本の側にも韓国人の腐った脳みそが考えた茶番な筋書きを鵜呑みにして声高に叫ぶ人々がいるのは困ったものだ。大方の政治屋とマスコミは皆この部類なのだが、そろそろ日本の人々もこうしたデマに惑わされる自虐史観から脱却して本当の日本国民として目覚めなければ国際社会に置いていかれてしまう。

 忘れてはいけない。韓国には親日的だというだけで罰せられる法律がある。それも親や祖先にまで遡って断罪される。親日は犯罪なのだ。徹底した反日。これがかの国の本質だ。

 そんな国のものを韓流などといってありがたがっている愚か者は誰だ?

 日本には「さわらぬかみにたたりなし」という言葉がある。いくら相手が悪だといっても戦争をしてやっつける必要はない。一切の接触を断って、害毒に晒される危険から退避する事が一番だ。放射能だって時間が経てば消滅していく。放射能と同じ位の気持ちでその減衰を待てばそれで事足りる。まずは一切影響を受けない体制を作れば済む事なのだ。日本人にはそれが出来るし、やらなければならない。


2012年10月05日 - ローマ諷刺詩を読んで

2012年10月05日 04時43分40秒 | 詩学、詩論


 漢詩にも諷喩というジャンルがあり、当世の政治や世相を批判する内容を謳い上げました。時には詩人が失脚したり命を落とした点も似ています。日本にも落首があって、面白おかしく御政道を皮肉ったりしました。こういう文化は洋の東西を問わず育つもののようです。

 それにしてもローマの諷刺詩は過激で長いですね。
 毒舌は当たり前なので、こういうのを沢山読むと相当性格が悪くなりそうですが、既に相当ひん曲がっている私のような人間は大丈夫でしょう。古いので研究書も沢山出ていて優秀な訳を読む事も出来、語学と詩の勉強の題材としては極めて優秀だと思います。

 では、こんな詩が書けるか、あるいは書きたいと思うか、というと、それはちょっと。。。内容的には自分なら散文で書くところです。実際似たようなものを書いてますが。詩文に乗せる主題はもう少し違ったものを選びたいです。


2012年10月03日 - ローマ風刺詩

2012年10月03日 08時01分26秒 | 詩学、詩論


 ローマ風刺詩を読み始めました。岩波文庫から出ているのですが、これが実に読み難いしろもので、これのどこが詩なのだろう、と思ってしまいます。散文体で訳してあるので仕方がないのですが、やはり散文は散文でしかない、という証明のような内容です。

 それを特に感じたのは、Google Book で同じ風刺詩の英語訳やドイツ語訳を見つけた時で、こちらは正真正銘の詩文となっていました。中世の訳では元のラテン語詩にはない脚韻まで揃えてあったりして、実に読み応えがあります。

 結局、ああいう風に、ヘキサメーターで書かれた元の詩文を置き換える詩文型が日本語には存在しない、つまり、志高き新体詩系詩人を排斥して主流になった口語自由詩の担い手(現代日本語詩の主流)が研鑽を怠ってきたせいで、日本語の詩学が未発達で、訳者もその現実を超えてまで訳詩に挑戦する力量と勇気を持ちあわせていなかった、という事だろうと思います。

 という訳で、意味合いはこの文庫本にもう少し付き合うとして、詩としての味わいはラテン語、ドイツ語、英語で味わう事としました。


2012年10月02日 - 詩人入門者のための副読本

2012年10月02日 01時32分32秒 | 詩学、詩論

詩人入門に役立つお宝

 Google Books というサービスがあります。ここにGoogleが用意した電子ブックがあるのですが、著作権フリーの古文書のイメージコピーが電子ブック化されていて無料で読む事が出来る様になっています(当然ですがもっと新しくて著作権が生きているものは有料です)。今西洋古典を勉強中なので大変重宝しています。

 早速古代ローマの風刺詩と中世ドイツの子ども向けの詩集などを講読し始めました。風刺詩は英語、ドイツ語も併読しています。ただ、ドイツ語は昔の文字で印刷されているのでちょっとばかり読み難いです。昔のアルファベットを知る人でないと読めないかもしれません。

 このサービスはスマートフォンやタブレット端末からも利用出来るので、寝転んでペルシウスの風刺詩を読む、なんてことが気軽にできて重宝しています。今まで捜し方がよっぽど悪かったんだなと思う事しきり、です。

 ともかくも、これで存分に頑張れます。
 資料はほぼ思いのままに入手出来るのだから。


2012年09月30日 - (自称含む)詩人たちへ。ラテン語勉強しましたか?

2012年09月30日 13時12分39秒 | 詩学、詩論

http://www.johnpiazza.net/latinversecompositおion

 英国ではほとんどの偉大な詩人たちは母国語で詩作を始める前に、ラテン語による作詩の勉強をしました。それは、多くの英語詩の作法はそれを古代ギリシャ・ラテン語詩から移入し、詩という芸術についての原理原則やノウハウを習得するには、源流たるラテン語の方が英語よりも原則に忠実に構成する事が出来るからです。

 詩とは高度に知性的な操作を伴う言語による表現芸術であるので、詩を書く為にはとにかく沢山詩を読み、勉強しなければならない事は自明の理です。

 現代の(自称も含む)詩人は勉強しているでしょうか?
 和漢の古典に精通し、西洋の古典、現代の詩作を読み、その上で自国語の詩を書いているでしょうか?
 自国の詩学を打ち立て、その将来を展望し、詩学に法った作詩を行なっているでしょうか?

 私は現代詩手帖や詩と思想に並ぶ作品群にも時々目を通しますが、いずれ劣らぬ駄作のオンパレードで、およそ詩に見える物などひとつもありません。

 当然です。日本語、それも現代口語には、詩作に耐えるだけの体力がなく、日本語には誰もが認めるだけの詩学も成立しておらず、わずかに一部の詩人個人が提唱するローカルな詩学が散見されるにすぎないからです。しかも、その数少ないローカル詩学は読み手まで普及していません。つまり、多くの読み手は理解出来ない詩を読まされる事になっています。

 この事を当の自称詩人にぶつけてみても無視されるか嘲笑されるか誤魔化しの言い訳を聞かされるかのどれかで、一人としてまともな答えを返してくれた人はいません。彼らは自分が普段やっている安直な言葉並べ以上の事に興味はなく、日本語がどうなろうと、日本語の詩文化がどうなろうと構わないのです。当然こんな人たちの作品や詩作に対する向き合い方、態度から得られるものもありません。

 かく云う私はというと、現代口語による詩作はとうに捨てていて、日本語では散文しか作らない事を決めました。なお、私にとっては散文は詩ではないので、散文詩という選択はあり得ません。つまり、散文しか書かない=詩は一切書かない、を意味します。詩を作るときは、漢詩か英語詩に専ら力を注いでいます。将来はラテン語とドイツ語の詩作も行なっていきます。

 日本語で本物の詩が作れる様になるまでには、あと数百年はかかるでしょう。


2012年08月18日 - 詩人ならラテン語くらい 3

2012年08月18日 09時29分25秒 | 詩学、詩論

買いました、買いました。
ラテン語の原文が読める本。
ドイツのレクラム文庫です。
日本の文庫本よりちょっと小さいサイズです。

ホラティウスの詩集と、
ウェルギウスの濃厚詩。
ローマの大詩人の詩を対訳つき原文で読めます。

更に見つけたのがマルクス・マニリウスの天文・占星学。
ローマ時代の占星学がどんなだったのかが判る資料的価値も抜群。

うっかり購入したのがアリストテレスの詩学。
こちらは古代ギリシャ語との対訳でした。
既に岩波文庫の和訳を読んでいるので内容は把握してますが、
ギリシャ語の入門書も購入して対訳と合わせて読みなおす事にしました。

対訳はもちろん全部現代ドイツ語です。
ラテン語の詩文をドイツ語でどう置き換えているかも分かって
二倍楽しく読めます。

あと、ラテン語の文法ガイドもレクラムから出ていました。
持ち歩くのに便利そうなのでこれも入手。
日本語なら数千円する文法書と書いてある事はさほど変わらないです。

シリーズには更に沢山の著作が用意されているので
いずれ挑戦しようと思います。