茫庵

万書きつらね

2012年08月02日 - 詩と技巧 11

2012年07月29日 17時40分45秒 | 詩学、詩論

 詩と技巧 11

 10を書いてから随分と間が開いてしまいましたがこのシリーズはまだ終わってはいません。ゆっくりと続けていきます。

 前回は詩学のほんのさわりとして西洋詩における詩脚と詩行についてとりあげ、日本語における詩脚はどのように表現されるか考察し、試しとして音数による 韻律の単位を組み合わせて1行とする方法を提言しました。そして、本格的な詩学的試みを怠っていると、日本語の詩は海外勢に乗っ取られる日がくる事を予言 したのでした。また、ゲーテの詩の一節を題材に、韻律を無視した訳詩は散文の翻訳と何ら変わるところはなく、原詩の持つ味わいやリズム感をまったく失わせ てしまっていて、これで原詩の詩情が伝わるといえるのか、という問題提起もしました。

 今回は、詩のレシピとしての詩学について考えていきます。

  やれ詩学だ技巧だというと、こういうものにすぐ拒否反応を示して「そういう難しいことはわかりません(=私には不要です)」と結論づける向きも見受けられ ますが、私にとっては詩学とは料理でいうレシピ集のようなものです。詩が知性的芸術である以上、ある程度難しいと感じられるのは当然の事であり、それを毛 嫌いして発展はありません。

 愛好家同士でお互いの成果を認め合い、共に楽しみを深めていく、というのはそれはそれで成立する世界です が、それを普遍的なものとして高みを目指す人にまで押し付けるのは、低迷と堕落を強要する以外の何物でもありません。一方、逆もまた真なりで、本稿はもと より芸術嫌い、技巧嫌いの人の事は範疇にありません。なので、レシピ集を紐解いて、先人たちが残した知恵と工夫に満ちた豊かな詩の世界を楽しむのか、そう いったものを放棄して、ひとりよがりの好みに任せて偏狭で好き勝手な世界にとじこもって良しとするのかは、それぞれが自由に選択すればよい事です。

  さて、詩学の役割は、各言語で書かれた詩の構造を明らかにしてどう解読すればよいかを説明するだけではありません。前稿で述べた様に、別言語からの詩型の 導入を検討したり、漢俳のように、異なる言語の詩型が合体して全く新しい詩型を生み出すのにひと役買ったりもします。すべて運用次第で、この運用方法に制 限を設けたりある事を禁止したりする理由はどこにもありません。

 そこで、本稿では西洋の詩型に日本語独自のレトリックをかぶせての詩作について検討してみたいと思います。レシピ的に言えば無国籍料理とか創作料理というものに近いのかもしれませんが、あくまでも日本語詩型として考えていきます。

例えば、次のような定型はどうでしょうか。

枕詞を使った可変詩脚型日本語ソネット

  日本語ソネットの各連の最初に枕詞を持ってきます。枕詞は古典ではおなじみですが、これを西洋詩型で用いるのは日本語の崩壊と見るのか、サバイバルと見る のかは人によるとは思いますが、言葉もまた生き物なので、このまま忘れ去られてしまうよりは色々な可能性を見せて欲しい、と私は思います。何と言っても外 国語には無い日本語独自の美を追求出来る言語技術なのですから。可変詩脚型というのは1行の詩脚のパターンおよび数を可変もしくは詩人指定のパターンにし よう、というものです。つまり、ソネットは原則弱強五歩格ですが、英語やドイツ語ソネットの中には五歩ではあっても弱音節が入り込んで必ずしも規則的に弱 強が並んでいる訳ではない、不規則なリズムを刻む作品もあります。日本語定型としても、七五調など、音数を固定化するのではなく、詩脚数を固定化して、中 のリズムをもっとフレキシブルにする、という詩作方法が考えられます。

雅や大和言葉、漢語を多用したバラッド

 枕詞も 雅ややまとことば、漢語も、もはや死にゆく言葉、捨て去られた言葉のように言われていますが、近代化を目指した明治政府の標準語教育の弊害でそう扱われて いるだけで用を為さないという明確な根拠がある訳ではありません。むしろこの国の2000年の文化の神髄を持つ民族的財産としての価値は計り知れません。

  こうしたものに再び生命を吹き込もうという試みが、時代の逆行なのかどうか、私には判断できません。ただ、今口語といわれている言葉は、もともとはお上の お仕着せで無理強いされて普及したものにすぎず、言語としての生命力が豊かな訳でもなく、実績もないので、これに固執する理由はない事は確かです。実際 は、これ等を使いこなす為には多くの人は最勉強しなければならず、相当多大な努力を要する事は間違いありません。私自身も新体詩の文体がすらすら理解出来 る訳ではありません。

 しかし、これは母国語とどう向き合い、後世に伝えていくかという意識の問題なのです。こういう訳で、本稿では安易 に現代口語の詩文を詩文とは認めないことにします。今標準語と呼んでいるこんな語法自体、明治政府の植民地主義的国策の元で進められ、もしかしたら100 年後にはなくなってるかもしれないのですから。

 


2012年07月29日 - 西欧詩の原点

2012年07月29日 12時47分21秒 | 詩学、詩論

西欧詩の原点を味わう

 日本現代詩の原点を辿って、英語からフランス語やドイツ語の詩に遡って読み進み続けて、到達したのがラテン語と聖書でした。近代日本で新体詩調の翻訳詩が量産されたのには、賛美歌の和訳というニーズがあった、という事情もあり、このふたつはやはり避けて通れないもののようです。

 聖書はAndroidには数十の言語で読めるアプリが出ているので材料に事欠く事はありません。ラテン語の文例集もインターネットから入手。日本語、英語、ドイツ語の対訳つき読めます。文法はまだ全然理解していませんが、一応入門書はあるのでちょくちょく読み直ししています。

 西欧の詩の原点にあるもの。聖書表現もさることながら、亀、じゃない、神への祈りの文章、ギリシャ悲劇や歴史書、叙事詩などなど、捜せばいくらでも出る出る。

 あの、我々の通常から見れば、大袈裟で芝居がかった言い回しの原点ともいえる表現が、「随所にある」、というよりは、そういう表現だらけの文章世界が拡がっています。まさに堂々たる自己主張。誰が読んでも「どうだ、すごいだろう」と言わんばかりに迫ってきます。漢詩や日本の古い歌にもそういう趣向の物がない訳ではありませんが、あったとしても、私には、余り「美」が感じられません。

 考えてみれば、そういう表現が日本の文学にもともとあるものなら、明治に文士たちが顔色変えて西洋の文学に振り回される事はなかった訳です。それは新鮮で衝撃的である反面、私のように、一般読者の中にはいまいちピンとこないと感じる人も多かったのではないかと、と思われます。口語自由詩の流れは、前述のような、西洋詩の赤裸々で誇大な表現と、どんな題材でも表現世界に飲み込んでいく貪欲さを原点とし、今までの雅や侘び寂びの世界にはなかった新しい潮流となるはずのものでしたが、結局先人の思いとは裏腹に、口語で書かれる、という平易さのみが浸透し、肝心の表現世界の深淵さの開拓や読者層への浸透は置いていかれたまま現在に至っています。上っ面、殻だけの詩、白けきった読者。ひとつの詩がかつての様に日本の国民を熱狂させる様な現象が起きないのはそのためです。

 西欧の詩世界には、古典以来言語上に育まれた詩表現の土台が一般読者側にもあり、それを理解する事が読者側にとっても自身の知性と教養を示すステータスシンボルになっていたりもします。現代詩が衰退した、と言っても言語的に何の土台も持たず、読者と土台を共有していない、上っ面だけの日本現代詩とは根本的に事情が違います。

 西欧の古典の世界に足を踏み入れて、私は日本の詩も、いちど言語的な土台を組み直して読者とともに再出発した方が良いのではないか、という気がしてきました。表面だけ口語体だ、散文だ、と西欧の真似をしてみても、その前に置かれた言語的な環境が違い過ぎるので、同じ様にはいかないのは自明の理なのです。読者も詩人ももっともっと古典を勉強しなければなりません。


2012年07月22日 - 詩人ならラテン語くらい 2

2012年07月22日 13時30分30秒 | 詩学、詩論

ラテン語入門その後

 ラテン語の入門書を読んでます。解説よりも時折出てくる単語や短文にはっとする事が多いです。馴染みのある英語やドイツ語以外にも、日本語になってしまっているカタカナ単語の語源になっているものが結構沢山出てきます。そこで、AndroidのPlayストアでドイツ語や英語のラテン語文例集をダウンロードして読んでいく事にしました。もうひとつ、ラテン語の文例集として重宝しそうなのが聖書です。聖書ならフリーのオーディオブックも沢山あるのでこれも英語、ドイツ語と合わせてダウンロードしてきました。

 ラテン語の文章は一見イタリア語やスペイン語に見えますが、聴いた感じはどちらとも明らかに異なり、私が知る何語にも似ていない感じがします。

 ラテン語の詩は脚韻をとりません。ラテン語の詩脚はドイツ語のような強弱ではなく音の長短を構成要素とします。動詞と名詞の格変化は厳密で、語尾を見れば位置づけがわかるので、多くの場合主語としての代名詞は省略され、語順も概ね自由です。ということは、とても詩作向きという感じがします。詩作の都合で自由に語の並べ替えが出来るのですから。慣れれば英語などで作るよりも簡単かもしれません。などと期待しつつ、多読を目指して頑張ります。さしあたっての原書講読目標はホラーティウスといったところです。


2012年07月02日 - 詩人ならラテン語くらい 1

2012年07月07日 12時34分20秒 | 詩学、詩論

詩人ならラテン語くらい 1

 先月、そろそろ始動か、と思い立ってからやっていた事のひとつがラテン語です。

 以前から度々挑戦しては撃沈する、を繰り返してきたラテン語。
 またもや挑戦の運びとなりました。最初に挑戦したのは高校生の時。38年も昔のことです。大学書林の難しい本しかなく、何やらよくわからないうちに挫 折。それから度々読み返すなどしましたが、どうにも飲み込みが悪く、そのまま放置していました。最近では時代は大分変わって、お手頃なラテン語の入門書を そのへんの書店で見かける様にはなりましたが、ラテン語そのものが変わったわけではないので、また苦戦するでしょう。

 今回は、直接のきっかけはGoetheの詩を読んでいたらラテン語の添え書きに出くわした事でした。そういえば欧州の文化人、教養人は、日本では漢文を 当たり前のように嗜む様に、ラテン語やギリシャ語に堪能なのだった、と思い出して、現在日本現代詩の源流を探る歴史探訪の旅の途中でもあるし、欧州詩から ラテン語の詩に寄り道するのも悪くない、と考えて、再度挑戦を決めたのです。

 7月2日。ついに白水社の有名なシリーズのラテン語入門書を購入。CDつき2600円。安いです。今はラテン語入門のサイトが山ほどあるので、材 料には困りません。英独仏日語で勉強できます。ほんと、すごい時代になりました。辞書も、PC用、Android用それぞれフリーのラテン語辞書をダウン ロード出来たので、あとは自分のヤル気と実行力だけの問題です。

 目標は、多少でもいいからラテン語で書かれた詩文を読みこなせる様になること。
 意気込みだけはあるのですが、日本語現代詩への道のりは遠いです。

 日本の詩は西洋言語の詩の再現(新体詩)から始まっていますし、その西洋の詩の骨格的部分で大きな影響力を持っているのがギリシャ、ラテン語の詩と詩学 なのですから、欧州言語詩の源流に触れたいなら、ここは新たなる言語世界に足を踏み入れてみることとしましょう。詩を読んだり書いたりするのが好きなだけ でいいじゃないか、という向きもありますが、狭いボキャブラリーの中で好きな言葉しか用いず、思うにまかせて勝手気ままに詩文を綴るだけなら萩原朔太郎の言う、情にまかせて 獣が吠えているのと何ら変わる事がありません。そんなものを詩と呼んで良いのか、私はとても疑問に思います。詩である以上知的操作の高い芸術でなければな りませんし、素養も下知識も必要です。そのあたり、勘違いしている人が多いと思います。特に(自称)詩人という種類の人々の中に。敷居を下げて自分の不勉 強の言い訳にするなーーと言いたいです。

 そういう考えもあって、本稿は敢えて「詩人ならラテン語くらい」としました。


2012年03月25日 - 象徴詩 10

2012年03月25日 01時55分28秒 | 詩学、詩論

象徴詩 10

今回はBaudelaireのGuignonの第三聯と第四聯です。

 なお、云うまでもない事ですが、本稿で解説のために記述している日本語は、原詩の和訳ではないので元の意はそれぞれ原文にてご確認ください。念のためお断りしておきます。

 あまたの宝石が、
 つるはしもドリルも届かぬ位はるかに遠い所で
 暗闇と忘却に埋もれて眠る。

 たくさんの花が悔恨の情念とともに、
 とっておきのスィートな香水を、
 深い孤独の中に注ぎ込む。

 宝石が誰にも知られる事なく埋もれて眠っている、というのは、単に人が愚かでその存在を知らない、というだけでなく、つるはしや穴掘りドリルも届かない、はるか遠くで、というので、ある程度捜す能力を備えた専門家でもその価値に気付かず、はるかに遠い低次元の世界を彷徨っている、という事を意味します。宝石とは、ここでは前回登場したぽーちゃん、およびその作品、としましょう。愚かな一般大衆は仕方ないとして、いっぱしの専門家や芸術家でさえぽーちゃんの事を少しもわかってない。いわんやボクちゃんをや。ぼーちゃんのすね様が伝わってきます。

 そして、たくさんの花々が、後悔しながら、原文に近づけて表現すれば「秘密のように甘くソフトな香水」を、深い孤独の中に注ぎ込むのです。花はなぜ後悔するのでしょうか。深い孤独とはぽーちゃんが現在眠る場所であり、そこに花は手向けの香りを注ぐのです。その香りは普段は秘密にしておくような、ほのかで甘美な香りです。花にしてみたら、滅多に人前に出さないとっておきの香りを注ぐ、というのはぽーちゃんとポーちゃんの芸術に対するせめてもの哀悼の気持ちなのでしょう。

 花でさえそうなのに、あいつら、つまりつるはしやドリルを持ってるあいつらは何だ、未だにぽーちゃんの真価に気付かずに放ったらかしにしてるじゃないか。けしからん奴らだ。と、ぼーちゃんの怒りと哀しみが聞こえてきそうです。

 ここまで芸術に無理解なのはもはや罪です。世間は二人の転載にエールを贈ることをせず、無理解と無関心で応えたのでした。ぼーちゃんにしたって、詩集「悪の華」は一大スキャンダルになり、裁判騒ぎの末罰金刑を食らった挙句、当時の国家元首であるナポレオン三世に嘆願書を書いて負けてもらわなければならないほど貧乏だったのです。

 それにつけても気になるのは「遠い」「深い」「柔らか」「甘い」「香水」といった常套句がまたもや使われていること。イメージが貧困に思えてしまいます。このおやじだけの問題なのか、フランス語詩はみんなこんななのか、象徴派としては西洋のシンボリズムにはこういう表現しかそもそも出来ないほど貧困なのか。また、なんでこんなものが世界中の詩壇に大きな影響を及ぼしたのか。

 読めば読むほど謎は尽きませんが、次回へ続きます。
 次回からは「前世 La Vie antérieure」を読んでいきます。


2012年03月22日 - 象徴詩 9

2012年03月22日 22時59分14秒 | 詩学、詩論

象徴詩 9

今回はBaudelaireのGuignonの第二聯です。

 前の聯では重荷を持ち上げるのはたいへんだ、という話でした。芸術は人生すべてを投じて挑むにはあまりにも長大だ、という痛々しい叫びともとれる一文で終わっていました。あまりにも重い荷物を負わざるを得なかったこの人物も、道途中で燃え尽きたのでしょうか。第二聯ではいきなり墓地の情景が描きだされます。

 数々の有名な墓などには目もくれず、
 遠くにひとつ、ぽつんとたたずむ、とあるお墓に向かって、
 わが心臓はヴェールをかけて音を押し殺した太鼓のように、
 葬送行進曲を叩きながら進んでゆく。

というほどの意味合いになります。ヴェールをかけた太鼓、というのはぐもぐもと鈍くこもった音、どんどんと高鳴る鼓動のような感じではありません。誰にも顧みられない、遠く離れたところにぽつんと立っている墓に眠る人物のために、主人公の心臓は葬送行進曲を演奏しながら向かうのです。この人物の偉大さを敬慕するのは自分しかいない、という自負と誇り、おまえらに分かってたまるか、という怒りが入り混じった感情も受け取れます。それが何を象徴しているのか、それを表現して作者は何が言いたいのか、という事なると更に別な事に思いを馳せる必要があります。

 沢山の人が賞賛するから素晴らしいとは限らない。むしろ忘れ去られてしまったものの中に輝ける真実が宿る場合もある。本能はその真実を求めるが、その真実とともに歩むという事は、想像以上の重荷を負う事になるだろう。また、あまりにも自己の存在はちっぽけで目標たる真実は長大である。世間では、もうその真実は滅び去ったと思われているが、自分は真実のために抑え気味の鼓動で葬送曲を奏でながら歩み続ける。自分の胸に去来するもの。それは、ただ前に進む、のみである。

 なんてところが筆者のイメージです。易でいえば、「占じてこの卦を得たら、人を欺いて密やかに己の誠を通すべし」などと解するところです。しかしながら、それでも答えは常にそれだけという訳ではありません。別な時に占えば、「己の理想破れ、墓中に、ただ休む」のような答えが出るかもしれません。


2012年03月20日 - 象徴詩 8

2012年03月20日 22時41分39秒 | 詩学、詩論

象徴詩 8

Baudelaireの Guignon を読んでいきます。

 今回はようやく、本詩の初聯に入ります。

ご機嫌斜めのぼーちゃん(画・風雷山人)

 服装や目や髪の色など分からなかったので適当ですが、有名な白黒の肖像から起こしたぼーちゃんとぽーちゃんです。

 それはさておき。

 最初の2行はこれといって問題なさそうですね。Sisypheという固有名詞が出てくる位です。次の2行、特に4行目は有名な一文で、Longfellowの「Psalm of Life」からの流用として知られているところです。総合すると、


  こんなにも重いお荷物を持ち上げるには、シーシュポスよ、あなたの勇気が必要だ。
  仕事に全身全霊を打ち込むといったって、芸術は永く、人生なんてすぐ終わってしまうんだ。

 のような意味合いになります。

 そんなご教訓をこんな不良おやじに垂れてほしくないです。ま、それもさておき、普通の詩として見るならこれはこれで良いのですが、象徴詩として見ると、これだけで終わってはいけない気がします。

 重いお荷物とは何の事でしょうか。なぜ4行目になっていきなり芸術、という言葉を持ちだしているのでしょうか。芸術が「永い」とはどういう事を云うのでしょうか。すべてエドガー・ポオの事を述べているからなのでしょうか。

 さしあたり、ポイントはそんな所でしょう。

 まず重荷を持ち上げること=仕事=芸術である事は、文脈上容易に想像できます。シーシュポスの勇気が必要なほどの、というのはただ努力しただけでは永遠にやり遂げる事は無理で、それでも報われない努力を重ね続けていこうとするほどの勇気、それは気の遠くなるほどの忍耐を伴うとしても辞さないほどの勇気。それが必要になる位の困難、という風にも取れます。要は普通に努力して出来る事ではない、という事です。常人ならとうてい諦めてしまうほどの努力を払ったとしても、芸術は永く人生は短いのです。

 こうしてみると、この苦労の主人公はやはり芸術家のことを言っていると見るのが自然です。しかし、それだと「象徴詩」ではなく単にある人物に捧げた詩、ということでよさそうです。なぜこれが象徴詩の一節になるのでしょうか。ここはやはりもうひとつ奥に入り込む必要がありあそうです。

 Edgar Allan Poeはアメリカの詩人、作家、評論家、哲学者として知られていますが生前はとても不運だったそうです。なので、そのPoeを仏訳し続けたBaudelaireがPoeの不運への抗議意識でこの詩を書いたとしても不思議ではありません。しかし、事はひとりPoeについてだけではなく、人と過酷な運命と芸術のせめぎ合いにまで及んでいるのではないか、と私には思えます。

  芸術を志す者たちよ、覚悟せよ。
  御身等が思うほど世間は御身等を大事には思わぬぞ。
  やるべき事は無限にあり、与えられた時間はわずかなのだ。
  心せよ、そして辛苦を自ら選ぶほどに勇敢なれ。

 といった、若き芸術家に向けてのメッセージも感じられます。当時、おそらく大半の芸術家も読者もそのような危機意識も緊張感も持ってなかったのでしょう。それに対する抗議も含めて「おまいらにはどうせ分からないだろ」という思い込めて、こういった作品を搾り出したのだと考えると心中いかばかりかという思いも湧いてきます。象徴詩には、人が分かってない事に対する揶揄や警告が込められていたりするので、この作品にも社会や人々に対する揶揄や批判が根底に流れているとすると、まだまだ出てきそうな気がしますが、ここから先は読者それぞれの領域としましょう。

 最後にBaudolaireがこよなく愛した(かどうかは聞いた訳ではありませんが)Edgar A. Poe ことぽーちゃんを紹介して今回の幕引きにしたいと思います。

ハの字眉毛のぽーちゃん

ぼーちゃんと同じく白黒の絵から起こしたので色は今ひとつです。

 

2012年03月20日 - 象徴詩 7

2012年03月20日 17時33分33秒 | 詩学、詩論

象徴詩 7

Baudelaireの Guignon を読んでいきます。

 とあるチェコのBaudelaireサイトの解説文によると、この詩はアメリカの作家、評論家、詩人であるEdgar Allan Poe の事を書いているそうです。まあ、BaudelaireはPoeの翻訳家として確固たる地位を築いていた人なので、自分の詩作でPoe本人の事をお題にしてもおかしくはありません。別な文献でも同じ事を書いているのを読んだ事があるので、嘘ではないのかもしれません。

 前回触れた流用部分についてですが、有名な一文、「L'Art est long et le Temps est court.」は古代から知られた名言で、古くはHippocrates、下ってはアメリカの詩人、Longfellowの「Psalm of Life」にも見られます。これも含めて4-8行は流用で、9-11行も英国詩人、ケンブリッジ大学教授Thomas Grayの「Elegy Written in a Country Churchyard」からの流用である、と同解説文では書かれています。

 今回は訳詩を挙げておきます。ドイツ語と、微妙に差異のある簡体字、繁体字の中国語訳です。波特萊爾(波bō 特tè 莱lái 尔ěr )で検索すると、出る出る。中国語圏の文学研究熱はすごいです。「恶之花」紹介文に芥川龍之介の「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉が添えられていたりします。ドイツ語版は前回と同じ、Stefan George です。中国語の簡体字版には注釈も含めてPinyinを振りました。日本語と英語の訳詩は目にする機会も多くいくらでもあるでしょうから今回はパスします。

 ただ、詩が本来持つ韻律が各言語にどのように導入されているかはなんとなく感じ取れるのではないかと思います。


UNSTERN
            Stefan George

Um solche lasten zu heben
Braucht es des Sisyphus mut ·
Und wär unser wille auch gut:
Lang ist die kunst · kurz das leben.

Fern von ruhmreichen malen
Nach einsamem totenwall
Zieht meine seele in qualen
Zu trauernder trommel schall ...

Mancher edelstein ruht
Verscharrt in der finsternis hut
Und weit von stichel und brille ·

Manche blume spart
Ihren duft wie geheimnis so zart
Vergebens in einsamer stille.

 以上、http://de.wikisource.org/wiki/Unstern から引用。


è yùn
恶运

yào fù qǐ rú cǐ de zhòng dàn,
要负起如此的重担,
dé yǒu xī xī fú ① de yǒng qì
得有西西弗①的勇气!
jǐn guǎn rén men yǒu xīn nǔ lì
尽管人们有心努力,
què yì shù cháng ér guāng yīn duǎn
却艺术长而光阴短。

yuǎn lí nà xiē zhù míng de fén
远离那些著名的坟,
cháo zhe yī zuò huāng pì de mù
朝着一座荒僻的墓,
wǒ de xīn rú fā mēn de gǔ
我的心如发闷的鼓,
zài sòng zàng de qǔ zhōng qián jìn
在送葬的曲中前进。

  duō shao zhēn bǎo shuì dé sǐ sǐ
——多少珍宝睡得死死,
mái zài hēi àn hé yí wàng lǐ
埋在暗和遗忘里,
yuǎn lí zhe tiě hào hé tàn zhēn
远离着铁镐和探针;

duō shao xiān huā kòng zì tàn jiè
多少鲜花空自叹嗟,
jì shēn yú shēn shēn de jì mò
寄身于深深的寂寞,
sàn fā zhe yǐn mì de wēn xīn
散发着隐秘的温馨。


 xī xī fú yòu yì xī xù fú sī,
  西西弗又译西绪福斯,
 xī là shén huà zhōng kē lín sī de wáng,
 希腊神话中科林斯的王,
 xī là shén huà zhōng kē lín sī de wáng sǐ hòu bèi fá zài míng jiè tuī yī jù shí shàng shān,
 死后被罚在冥界推一巨石上山,
 jiāng jí shān dǐng,shí yòu gǔn xià,rú cǐ fǎn fù bù zhǐ。
 将及山顶,石又滚下,如此反复不止。

 以上、http://www.wenhuacn.com/wenxue/xd_shige/ezhihua/012.htm から引用。

惡運

要肩負起如此重擔,
得有薛西弗斯的勇氣!
儘管人們有心努力,
卻藝術長只見光陰短。
         
遠離那些著名的墳,
朝覑一座荒僻的墓,
我的心如發悶的鼓,
在送葬的曲中前進。
         
──多少珍寶睡得死死,
埋在暗和遺忘裏,
遠離覑鐵鎬和探針;
         
多少鮮花空自嘆嗟,
寄身於深深的寂寞,
散發覑隱秘的溫馨。

 以上、http://www.wisdomgarden.com.hk/fcnscs/bdly.htm から引用。



2012年03月18日 - 象徴詩 6

2012年03月18日 11時11分02秒 | 詩学、詩論

象徴詩 6

 今回からBaudelaireのLe Guignonを読んでいきます。まずは全文から。

Le Guignon   Charles Baudelaire

Pour soulever un poids si lourd,
Sisyphe, il faudrait ton courage!
Bien qu'on ait du coeur à l'ouvrage,
L'Art est long et le Temps est court.

Loin des sépultures célèbres,
Vers un cimetière isolé,
Mon coeur, comme un tambour voilé,
Va battant des marches funèbres.

— Maint joyau dort enseveli
Dans les ténèbres et l'oubli,
Bien loin des pioches et des sondes;

Mainte fleur épanche à regret
Son parfum doux comme un secret
Dans les solitudes profondes.

以上、http://fleursdumal.org/poem/110 より引用。

 

 この詩、他の英語詩からの流用部分があります。その流用元も示しておきます。結構長いので、今回はここまでとします。

A PSALM OF LIFE
          Henry Wadsworth Longfellow

Tell me not in mournful numbers,
"Life is but an empty dream!"
For the soul is dead that slumbers,
And things are not what they seem.

Life is real! Life is earnest!
And the grave is not its goal;
"Dust thou art, to dust returnest,"
Was not spoken of the soul.

Not enjoyment, and not sorrow,
Is our destined end or way;
But to act, that each to-morrow
Find us further than to-day.

Art is long, and Time is fleeting,
And our hearts, though stout and brave,
Still, like muffled drums, are beating
Funeral marches to the grave.

In the world's broad field of battle,
In the bivouac of Life,
Be not like dumb, driven cattle!
Be a hero in the strife!

Trust no Future, howe'er pleasant!
Let the dead Past bury its dead!
Act -- act in the living Present!
Heart within, and God o'erhead!

Lives of great men all remind us
We can make our lives sublime,
And, departing, leave behind us
Footprints on the sands of time;

Footprints, that perhaps another,
Sailing o'er life's solemn main,
A forlorn and shipwrecked brother,
Seeing, shall take heart again.

Let us, then, be up and doing,
With a heart for any fate;
Still achieving, still pursuing,
Learn to labour and to wait,

 以上、http://www.blupete.com/Literature/Poetry/PsalmA.htm より引用。


ELEGY WRITTEN IN A COUNTRY CHURCH-YARD
                                                     Thomas Gray

The curfew tolls the knell of parting day,
The lowing herd winds slowly o'er the lea,
The ploughman homeward plods his weary way,
And leaves the world to darkness and to me.

Now fades the glimmering landscape on the sight,
And all the air a solemn stillness holds,
Save where the beetle wheels his droning flight,
And drowsy tinklings lull the distant folds:

Save that from yonder ivy-mantled tower
The moping owl does to the moon complain
Of such as, wandering near her secret bower,
Molest her ancient solitary reign.

Beneath those rugged elms, that yew-tree's shade,
Where heaves the turf in many a mouldering heap,
Each in his narrow cell for ever laid,
The rude Forefathers of the hamlet sleep.

The breezy call of incense-breathing morn,
The swallow twittering from the straw-built shed,
The cock's shrill clarion, or the echoing horn,
No more shall rouse them from their lowly bed.

For them no more the blazing hearth shall burn,
Or busy housewife ply her evening care:
No children run to lisp their sire's return,
Or climb his knees the envied kiss to share,

Oft did the harvest to their sickle yield,
Their furrow oft the stubborn glebe has broke;
How jocund did they drive their team afield!
How bow'd the woods beneath their sturdy stroke!

Let not Ambition mock their useful toil,
Their homely joys, and destiny obscure;
Nor Grandeur hear with a disdainful smile
The short and simple annals of the Poor.

The boast of heraldry, the pomp of power,
And all that beauty, all that wealth e'er gave,
Awaits alike th' inevitable hour:-
The paths of glory lead but to the grave.

Nor you, ye Proud, impute to these the fault
If Memory o'er their tomb no trophies raise,
Where through the long-drawn aisle and fretted vault
The pealing anthem swells the note of praise.

Can storied urn or animated bust
Back to its mansion call the fleeting breath?
Can Honour's voice provoke the silent dust,
Or Flattery soothe the dull cold ear of Death?

Perhaps in this neglected spot is laid
Some heart once pregnant with celestial fire;
Hands, that the rod of empire might have sway'd,
Or waked to ecstasy the living lyre:

But Knowledge to their eyes her ample page,
Rich with the spoils of time, did ne'er unroll;
Chill Penury repress'd their noble rage,
And froze the genial current of the soul.

Full many a gem of purest ray serene
The dark unfathom'd caves of ocean bear:
Full many a flower is born to blush unseen,
And waste its sweetness on the desert air.

Some village-Hampden, that with dauntless breast
The little tyrant of his fields withstood,
Some mute inglorious Milton here may rest,
Some Cromwell, guiltless of his country's blood.

Th' applause of list'ning senates to command,
The threats of pain and ruin to despise,
To scatter plenty o'er a smiling land,
And read their history in a nation's eyes,

Their lot forbad: nor circumscribed alone
Their growing virtues, but their crimes confined;
Forbad to wade through slaughter to a throne,
And shut the gates of mercy on mankind,

The struggling pangs of conscious truth to hide,
To quench the blushes of ingenuous shame,
Or heap the shrine of Luxury and Pride
With incense kindled at the Muse's flame.

Far from the madding crowd's ignoble strife,
Their sober wishes never learn'd to stray;
Along the cool sequester'd vale of life
They kept the noiseless tenour of their way.

Yet e'en these bones from insult to protect
Some frail memorial still erected nigh,
With uncouth rhymes and shapeless sculpture deck'd,
Implores the passing tribute of a sigh.

Their name, their years, spelt by th' unletter'd Muse,
The place of fame and elegy supply:
And many a holy text around she strews,
That teach the rustic moralist to die.

For who, to dumb forgetfulness a prey,
This pleasing anxious being e'er resign'd,
Left the warm precincts of the cheerful day,
Nor cast one longing lingering look behind?

On some fond breast the parting soul relies,
Some pious drops the closing eye requires;
E'en from the tomb the voice of Nature cries,
E'en in our ashes live their wonted fires.

For thee, who, mindful of th' unhonour'd dead,
Dost in these lines their artless tale relate;
If chance, by lonely contemplation led,
Some kindred spirit shall inquire thy fate, --

Haply some hoary-headed swain may say,
Oft have we seen him at the peep of dawn
Brushing with hasty steps the dews away,
To meet the sun upon the upland lawn;

'There at the foot of yonder nodding beech
That wreathes its old fantastic roots so high.
His listless length at noontide would he stretch,
And pore upon the brook that babbles by.

'Hard by yon wood, now smiling as in scorn,
Muttering his wayward fancies he would rove;
Now drooping, woeful wan, like one forlorn,
Or crazed with care, or cross'd in hopeless love.

'One morn I miss'd him on the custom'd hill,
Along the heath, and near his favourite tree;
Another came; nor yet beside the rill,
Nor up the lawn, nor at the wood was he;

'The next with dirges due in sad array
Slow through the church-way path we saw him borne,-
Approach and read (for thou canst read) the lay
Graved on the stone beneath yon aged thorn.'

        The Epitaph

Here rests his head upon the lap of Earth
A youth to Fortune and to Fame unknown.
Fair Science frowned not on his humble birth,
And Melacholy marked him for her own.

Large was his bounty, and his soul sincere,
Heaven did a recompense as largely send:
He gave to Misery all he had, a tear,
He gained from Heaven ('twas all he wish'd) a friend.

No farther seek his merits to disclose,
Or draw his frailties from their dread abode
(There they alike in trembling hope repose),
The bosom of his Father and his God.

 以上、http://www.blupete.com/Literature/Poetry/Elegy.htm より引用。


2012年03月17日 - 象徴詩 5

2012年03月17日 23時47分11秒 | 詩学、詩論

象徴詩 5

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第四聯です。

 いよいよ最後の聯です。前回までは自然が寺院だ、という話から始まって、香り、光(色)、音の混然一体となった感応の世界が繰り広げられてきたのでした。

 最後の聨はこの詩の結論を述べます。単純に訳語を並べるとざっと以下に述べるような感じ。最後の行の主語は前の聯にあります。これはこの聯を読みだしてから気付いたのですが、よーく見ると第三聯は文章としては終わっていませんでした。もっと大きなフォントで見ればよかった、などと思いつつ、改めて読み込んでみると、

 香水がある。それは、子どもの体のようにみずみずしくて、オーボエのようにやわらかで、草原のように緑を成す、
 --それでいて他方では爛熟して豊潤で誇らしげで、
 限りなく事物の拡がりを保ちつつ、琥珀や麝香や安息香や純粋さのように、
 精神と感覚の呼応を謳い上げる。

のような文になっています。この人の文体には動詞が少ないのでどこで切ったら良いのか判断に苦しみます。

 ともあれ、これで一通りの内容が揃いました。この内容から何を象徴として感じ取るかは読者に任されています。作者のおっさんは何を意図してこう表現したのでしょうか。読者の我々はどう向きあえば良いのでしょうか。私はここに来るまでの間にちょくちょく述べてきた如く、象徴としては物足りない感で一杯で、本作で述べられた感覚の呼応や一体化のような主張についても、既に梅花心易の世界ではもっと高度な形で述べられている事なので「いまさら」と思ってしまいます。西洋近代詩の信奉者の中には中国にはこの手の神秘主義が無い、と指摘する向きもありますが、梅花心易創始者の邵雍はいわゆる市井に在って当代の名士とも交流のあった、れっきとした大儒であり、歴史に名を残した詩人でもあるので此等の指摘は単に著者が知識不足である事を露呈しているにすぎません。

 あと、呼応、感応、あるいは万物照応などと訳される本作ですが、半分を「香水」ないしは「香り」「匂い」についてだけ述べている点もなんだかアンバランスに感じます。フランス人は風呂嫌いなので体臭がきついからフランスでは香水が発達している、などと、どこかで聞いたか読んだかしたことがありますが、もしかしたら単にそれだけのことなのかもしれません。命の象徴としての匂いは視覚や聴覚などよりも鮮烈なイメージなのかもしれません。が、そのあたりの事は、これから先、更に他の象徴詩を読んでいくにつれ、変化していくかもしれないところです。

 詩文としての本作は、ソネットとしてはもとより、対句的表現、リズミカルな語の組み合わせなど、声に出して読む面白さも備えた一編だと思います。ただ、色々と批評等を調べてみると、Baudelaireは技巧的にはそれほど上手とはいえないそうなので、ひょっとしたら私が読みにくいと感じたのはそれ故なのかもしれません。フランス語ではどういう詩が巧いのか、まだ自分では判断出来ないのでなんとも言えませんが、そのあたりはこれからの研鑽で読み取れる様になっていきたいと思います。

 最後に本作のドイツ語と英語の訳詩を挙げておきましょう。私にとってはドイツ語版が一番読みやすく、詩としてもしっくりきます。ちなみにこの訳はドイツの詩人、Stefan GeorgeとEric Boernerの訳と、A.Z.Formanの英語訳を紹介します。東西を問わず、名詩人たちはおしなべて語学に達者な人が多く、外国語の詩に影響を受けたり、外国語で詩を書いたりしていますね。ちゃんとした詩を母国語で書けるようになるにはやはりこれは不可欠かな、と思ったりします。

EINKLÄNGE
              Stefan George

Aus der natur belebten tempelbaun
Oft unverständlich wirre worte weichen ·
Dort geht der mensch durch einen wald von zeichen
Die mit vertrauten blicken ihn beschaun.

Wie lange echo fern zusammenrauschen
In tiefer finsterer geselligkeit ·
Weit wie die nacht und wie die helligkeit
Parfüme färben töne rede tauschen.

Parfüme giebt es frisch wie kinderwangen
Süss wie hoboen grün wie eine alm –
Und andre die verderbt und siegreich prangen

Mit einem hauch von unbegrenzten dingen ·
Wie ambra moschus und geweihter qualm
Die die Verzückung unsrer seelen singen.

 以上、http://de.wikisource.org/wiki/Einkl%C3%A4nge より引用。


Entsprechungen
                 Eric Boerner

Die Natur ist ein Tempel: durch Säulen voller Leben
Zuweilen wirre Worte sich ergehn;
Der Mensch durchschreitet Wälder von Symbolen,
Die, ihn betrachtend, mit vertrautem Blick begegnen.

Im tiefen und dunklen Zusammenhang
Des Echos, das weit entfernt wieder erwacht,
So lang wie der Tag und lang wie die Nacht,
Entsprechen sich Farben, und Düfte, und Klang.

Der frische Geruch von kindlichem Fleisch
Ist süß wie Oboen, wie Wiesen so grün –
Und anders: verdorben, begeisternd und reich,

Wie endlose Dinge in Ewigkeit blühn;
Wie Ambra und Moschus und Weihrauch erklingen,
Das Wandeln des Geists und der Sinne besingen.

 以上、http://home.arcor.de/berick/illeguan/baude1.htm より引用



Correspondances
                                               A.Z.Forman

Nature’s a shrine where living columns stand
And now and then breathe a confounded phrase,
Man wanders there amid a forestland
Of symbols, followed by their intimate gaze.
As long-drawn echos blent from far away
together into dark deep unison,
As huge as night and like the light of day,
perfumes and sounds and colors join as one.

There are scents fresh as flesh of any child,
Meadow-green, mellow as an oboe tone,
- and others: rich, corrupt, triumphant, wild
expanding like the infinite alone
like ambers, musks and orient frankincense
that sing the rapturings of soul and sense.

 以上、http://poemsintranslation.blogspot.com/2010/04/baudelaire-correspondances-from-french.htmlより引用。


 次回からはBaudelaireの次の詩にいきたいと思います。Le Guignon「不運」です。