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ako po si パンダック

2009-12-01 | フィリピン
アロヨ大統領、次期下院選小選挙区への立候補表明。狙いは疑惑絡みの告発回避か
 
疑惑だらけのアロヨ政権。
任期中の弾劾裁判はいったい何件合ったのだろう。
人気期間中毎年数回あったよな記憶が。
弾劾裁判は別にアロヨ大統領だけにあったわけではなく、新たに大統領になって最初に選挙疑惑から始まって、半年もすれば「カヤガエー」で全員者も新大統領も代わらない利権獲得に国民の皆様はあきれ果てるようです。

「ピープルパワー2」で政権の座についたアロヨ新大統領。
政権交代の直接的きっかけとなったのは、上院で始まったエストラーダ大統領に対する弾劾裁判だった。この裁判で1月16日、大統領の有罪を決定付ける重要書類の開示が否決されたことからマンダルヨン市のエドサ・シュラインに市民が続々と詰めかけて抗議集会を行なわれた。
集会規模が徐々に膨らむとエストラーダ大統領は19日、重要書類を公開することを約束。しかしこの間に重要閣僚が次々と辞任や離反を表明したことから、追い詰められた大統領はこの日2度目のテレビ演説で、5月に繰り上げ選挙を実施すると発表。自分は選挙には出馬しないとした。事実上の退陣表明がおこなわれた。
アロヨ副大統領は20日正午過ぎ、ダビデ最高裁長官の立ち会いのもと、新大統領として責任を全うすることを宣誓し、第14代大統領に就任した。窮地に追いやられたエストラーダ前大統領はこの日午後2時過ぎ、ロイ夫人や娘のジャッキー氏などと一緒にマラカニアン宮殿を離れた。

サンディガンバヤン(公務員弾劾裁判所)は4月16日、収賄罪と偽証罪で前大統領に逮捕状を発行したが、前大統領は保釈金を支払って身柄拘束を免れた。
保釈金が認められない経済的略奪罪で逮捕状が発行されたのは4月25日。64歳の誕生日の6日後だった。前大統領と、息子でサンフアン町長のジンゴイ・エストラーダ氏が逮捕されたことから、エドサ・シュラインで前大統領派の抗議集会が開かれた。
集会にはエストラーダ派の議員が集結し、宗教団体「エルシャダイ」によるテレビ放送も手伝って、激しさを増す。集会開始から6日後の5月1日、市民らは抗議集会の舞台をマラカニアン宮殿周辺に移し、警戒に当たっていた警察や国軍兵士らと衝突した。これにより警官1人とエストラーダ派市民3人が死亡。負傷者は103人に上った。
アロヨ大統領は「騒乱状態」を宣言。市民を煽動したとして、フアン・ポンセ・エンリレ、グレゴリオ・ホナサン、ミリアム・デフェンサー・サンチャゴの各上院議員を逮捕するように命じた。2日までにエンリレ議員のほか、エルネスト・マセダ元米国大使や国軍将校2人など、市民を含む計100人以上が逮捕された。

アロヨ大統領は2日に暴動の終息を宣言、翌3日には収監中のエストラーダ氏と対面するなど前大統領派を取り込む作戦に転じた。大統領は7日午前0時に「騒乱状態」を解除。暴動の逮捕者を釈放するよう命令した。
これと前後して行われた調査では4月の景況感が上昇。将来期待指数、経済信頼指数もそれぞれ前回を上回った。大半のビジネスマンが前大統領の逮捕を支持する傾向が浮かび上がった。

5月14日の統一選挙では上院の改選13議席のうち、与党連合が8議席を獲得して野党を抑えた。一時は政権の合憲性までが疑われたが、この選挙でアロヨ政権は国民からの支持を受け、地盤を固めた。
国軍を見方にしたアロヨ政権の強さの象徴とも言えた。


アロヨ大統領誕生

98年5月の大統領選挙で、貧困層から多くの支持を受け、 ジョセフ・エストラーダ大統領が選出された。

2000年10月、違法とばく上納金着服疑惑からエストラーダ大統領への信任が低落。同12日にアロヨ副大統領が兼任の閣僚ポストを辞任したのに続き、11月2日にはロハス貿易工業長官も辞任した。

2001年1月16日、弾劾裁判でのエストラーダ大統領の不正蓄財疑惑に関する重要証拠の不開示が決定され、民衆の抗議行動が高まる中、主要閣僚が相次いで離反、最高裁判所長官の大統領職は空席であるとの判断のもとアロヨ新大統領が誕生した。

2001年5月14日の中間選挙では、改選の上院13議席のうちアロヨ大統領率いる与党連合が8議席を獲得。結果、非改選の与党議員と併せて上院議員の過半数を与党側が確保した。

2001年8月7日、政府と反政府勢力のモロ・イスラム解放戦線(MILF)は停戦合意に達した。アロヨ政権は、前エストラーダ政権から180度方向転換し、MILFに対する和平政策を推し進めている。

2002年8月14日、日本とフィリピンの両国政府は自由貿易協定(FTA)などの経済連携に関する予備協議を東京で開催した。協議では、日比間の経済連携協定に向けた作業部会の設置が決定され、同年10月にマニラで第1回の会合が開催された。フィリピン側は日本とのFTA交渉において、サービス分野への市場開放を包括したい意向で、看護師や介護士の日本への派遣を希望している。

2003年7月28日、アロヨ大統領は就任後3回目の施政方針演説を行い、引き続き[1]雇用創出、[2]住宅供給、[3]教育、[4]反政府組織との和平、[5]食糧の供給を政策目標にしていくと発表した。また、強い共和国の実現を目指し、引き続きテロ、社会の不安定要因、病気、麻薬対策に取り組むと述べた。

2004年5月の総選挙で現職のアロヨ大統領が当選し、二期目の政権がスタートした。新たな任期は6年。同時に行われた副大統領選では、アロヨ氏と組んだノリ・デカストロ上院議員が当選した。

2005年6月、先の総選挙での、大統領の票操作疑惑が浮上。7月8日、閣僚級10名が辞任するとともに、大統領に辞任を要求。7月25日、野党が下院に大統領弾劾告発書を提出。しかし、弾劾発議に必要な議会の3分の2(79人)以上の署名が集まらず、9月6日、同告発書は却下された。他方、大統領は改憲による大統領制から議院内閣制への移行を目指し、憲法諮問委員会を立ち上げるなど、改憲の動きを加速させている。

2006年7月、アロヨ大統領は施政方針演説で、全国を北ルソン、メトロルソン、中部フィリピン、ミンダナオの4地域に分けた「スーパー地域構想」を推し進める考えを表明した。輸送インフラの整備を通じ、各地域の地勢や産業集積に応じた開発を進める。演説の大半は、これまでの経済実績や同構想の説明に割かれ、注目された改憲日程への言及は無かった。

2007年7月14日、比中央選挙管理委員会は、5月に行われた中間選挙上院選の最終当選者を与党所属の前下院議員ファン・ミゲル・ズビリ氏と発表した。改選12議席を巡り与野党が激しくぶつかった上院選は、野党が7議席を占め圧勝。与党の獲得議席はわずか3つに留まった。残る2議席は、無所属候補が獲得した。その結果、上院の勢力図(定数24議席)は、与党8議席に対し、野党13議席、無所属2議席、欠員1議席となり、野党が過半数を占めている。

2007年7月23日、アロヨ大統領は第14期国会の開会にあたり、就任以来7回目となる施政方針演説(SONA)を行った。大統領演説は、昨年のSONAで提唱したスーパー地域構想の実績紹介に多くの時間を割き、自らの強固な政権基盤を誇示する形で締めくくられた。有識者からは構想の財源を疑問視する意見が出ている。

2007年8月10日、祝祭日を月曜日に振り替え、週末からの3連休とする共和国法9492号(祝祭日合理化法)が発効する。政府は、同法の施行で企業の生産計画や観光業への好影響を期待しているが、識者からは経済効果を疑問視する声も出ている。

2007年10月2~6日、アロヨ大統領は中国とインドを訪問した。中国では胡錦涛国家主席と会談し、中国政府が支援する国家ブロードバンドネットワーク事業の契約破棄を伝え、中国側の了解を取り付けた。インドでは、両国関係の強化や対テロ協力などに関する9つの協定に調印した。またインドの経営者と会談し、総額20億ドルに及ぶ対フィリピン投資の確約を取り付けた。

2007年11月29日、トリリャネス上院議員とダニロ・リム准将を中心とする将兵らが11月29日、アロヨ大統領の退陣を求め、首都圏マカティ市内のホテルに立てこもった。国軍・警察が強行策をとったため、同議員らは午後5時半ごろに投降を宣言したが、この立てこもり事件を受け、政府は30日午前0時から午前5時までの夜間外出禁止令を発出した。

2008年7月15日、アロヨ大統領は石油や食糧価格高騰の悪影響を緩和するため、貧困層を対象に40億ペソ(1ペソ=約2.4円)の追加支出を行う考えを閣議で表明した。政府は6月に電気代補助など40億ペソの貧困層支援をとりまとめたばかりで、支出総額は80億ペソに膨らむ。

2008年7月28日、アロヨ大統領は施政方針演説で「不人気な石油製品へのVAT課税という難しい決断が、世界的な経済危機から国家を守った」と指摘。物価が一斉に値上がりする中、VATを財源とする貧困層支援策が成果を挙げつつあると自賛した。さらにVAT撤廃が燃料消費の84%を占める富裕層の利益になるだけだと強調、廃止するよりも、石油価格上昇で増えた税収を貧困層支援に充てる方が得策だと訴えた。

2008年10月8日、批准が遅れていた日比経済連携協定(JPEPA)は批准に必要な3分の2(16人)の賛成を得て上院で承認され、成立した。反対派は「憲法抵触」「有害廃棄物持ち込み」などの問題があると主張していたが、上院の承認を覆すには至らなかった。これにより日比双方に貿易・投資拡大への期待が高まるとともに、長期間にわたり協定の発効を期待し、準備が進められていた介護士・看護師の日本への受け入れがようやく実現することになる。

2009年6月17日、アロヨ大統領が訪日、20日まで滞在する。麻生首相との首脳会談などで、2008年12月に発効した日フィリピン経済連携協定(JPEPA)の促進など経済関係強化を確認する。

2009年7月27日、アロヨ大統領は2010年6月の任期満了を控え、任期中最後の施政方針演説を行った。就任後の実績について、大統領は金融危機の克服と安定した経済環境の実現、インフラ事業による国内開発、雇用対策・人材育成などを挙げた。野党が懸念を示している改憲による任期延長問題については「一度も求めたことはない」と表明したが、明確に可能性を否定しなかったため、疑念を残す結果となった。

2009年10月21日、フィリピンのエストラダ元大統領が2010年の大統領選挙に、正式に立候補することを表明した。憲法で再選は禁止されているため、立候補が認められるかは不明。

2009年10月30日、国営ラジオ局を通じて次期下院選小選挙区への立候補を表明した。選挙区は地元パンパンガ州第2区。届け出最終日の1日、同州入りして立候補を届け出る。現職を含む大統領経験者の下院選出馬はフィリピン革命(1898年)後、初めてとなる。

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6 コメント

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マタリーノ ナマン ポ、イカウ (nga-nga)
2009-12-02 19:49:05
 貴兄の博学を再認識させられまた。
ぁ炉よさんの政治史、そうでしたね。復習させていただきました。ありがとうございます。
 SONAの度に貧困の根絶ですか?自分の資産だけは、2倍に膨れ上がったらしいですね。自分の貧困(?)の根絶をSONAで訴えてたんですね。よく解りました。
 ぁ炉よさんの選挙区、ここパンパンガ2区立候補者は、彼女だけとの事。無風選挙!
対立候補が立てば、はたまた 
     ”パンパンガ虐殺事件”
が起こるかもしれませんからね。納得しました。
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パンダック (nga-nga)
2009-12-02 19:54:51
 忘れてました!
”パンダック”??、教えて下さい。
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暇人 (PP)
2009-12-04 10:44:45
nga-nga様 なんてことはないです。単なる暇人と適当人生を邁進しているだけです。公証2倍。韓国からの中古車輸入などの利権からしても0を一個隠しているようにも思い増す。
パンダックて小人のことを言うのだそうですが、ここでは一般にちびというようです。
本当に小さいですね。w
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salama pot (nga-nga)
2009-12-04 14:35:22
ありがとうございました。
『Ako po si "pandak".』
 (亜炉よさんが自分のこと言ってるんですよね?)
 私の返事、『オオ、パンダク イカウ、ペロアサワモ ダグル(dagul)。アリアリアン モ ヂン ピーナカ マラキ ナ ガヨン 。バキット?』
返信する
salama pot (nga-nga)
2009-12-04 14:35:28
ありがとうございました。
『Ako po si "pandak".』
 (亜炉よさんが自分のこと言ってるんですよね?)
 私の返事、『オオ、パンダク イカウ、ペロアサワモ ダグル(dagul)。アリアリアン モ ヂン ピーナカ マラキ ナ ガヨン 。バキット?』
返信する
opo (PP)
2009-12-04 17:24:41
nga-nga様 シェンプレイ アコ ポ シ アイ ドロボウ
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