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シリーズ平成の本音-介護保険料引き上げ、反福祉政策が国民生活を直撃! (その1)

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音-介護保険料引き上げ、反福祉政策が国民生活を直撃! (その1)
 安倍自・公連立政権は、2016年度の予算編成の基本的な方針である概算要求基準を閣議で了解し、2020年度での財政の黒字化を目途に歳出を抑制することとし、その中で社会保障費の削減を図るとしている。財政の黒字化方針は、遅きに失しているものの評価されるところであるが、増税等で歳入を図る一方、歳出面では社会保障費の圧縮など、国民への負担増加、反福祉的な色彩が強い。
 1、介護保険料再三の引き上げが年金受給者の生活を既に圧迫
 介護保険料は、年金受給対象となる65歳以上に対しても、2000年―2002年の月額2,911円(加重平均)から2012年―14年の月額4,972円と78%もの増加となっており、年額で59,664円にも達している。2015年から介護保険料は更に引き上げられており、自治体や個人所得等によっても差があるが、65歳以上の住民税非課税者で月額5,780円、年額69,360円、住民税課税者では月額6,358円、年額76,296円以上にも達している。
 国民年金受給額(満額の場合)は、月額65,008円、年額780,096円であるので、介護保険料は国民年金受給月額のほぼ1か月分にもなる。
 自・公連立政権の下で、2014年6月18日に医療と介護制度を一体で改正する「地域医療・介護推進法」が成立し、基本的に利用者の「負担増・給付縮小」を強いるものとなっている。介護保険料については、年金給付の際天引きされる形となっており、事実上の年金給付額の引き下げとなっている上に、更に自己負担が倍となるので、年金給付額の実質的な引き下げになっている。比喩的に言えば、その他の固定報酬を得ていない国民年金受給者にとっては、1か月間飲まず食わずで生活しろと言っているようなものである。
 7月1日、走行中の東海道新幹線の車内で東京都杉並区在住の林崎春生容疑者(71歳)が石油を撒き焼身自殺し、多数の死傷者を出した。同容疑者は周囲に年金の受給額にたびたび不満を漏らし、‘生活できない’と話していたと伝えられている。このような身勝手で卑劣、凶悪な犯罪は決して許されるべきではないが、最近の老齢独居者の自殺や孤独死が生活苦などからであることも事実であり、老齢者の年金や介護保険を含む健康保険などの福祉の在り方を改めて見直して見る必要がありそうだ。
そもそも福祉とは、相対的に所得に恵まれている者が恵まれていないもの、或いは、定年等により所得が入らなくなる者に対して一定の所得の再配分を行うことを主な目的としている。そういうことからすると、退職年齢となり年金に頼る65歳以上の者から、受益者だからとは言え、年金の1か月分にも相当する介護保険料を徴収することは酷であり、反福祉と言えよう。
 基本的には、65歳になるまでの就労期間中に徴収するか、或いは年金給付額を相当分引き上げることが望まれる。そして65歳以上の者については、その他の固定報酬がない者については国民年金の半月分以下とし、例えば年収300万円以上の固定報酬を得ている者については、累進的に加算するような制度設計が望ましい。反福祉政策により固定報酬を得ていない年金受給者の生活を圧迫することは、福祉の理念そのものを理解しない失政と言われても仕方がない。
 もっとも財政が厳しく、政府、行政府・立法府各部が一丸となって実質的な節減、緊縮措置を実施しているのであれば、お互いに我慢することも仕方がないことであろう。ところが、現自・公連立政権は、国民に2重にも3重にも税負担や福祉減額を強いる一方、議員報酬や公務員給与は事実上の引き上げ、また定員削減なども手つかずのままで、極楽トンボどころか、反福祉、国民窮乏化政策を取っているかのようだ。

 2、増税、福祉切りに終わろうとしている「社会保障と税制の一体改革」 (その2に掲載)
(2015.7.31.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―五輪エンブレム、やはり出直しては!?

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―五輪エンブレム、やはり出直しては!?
 東京オリンピック2020のエンブレムを巡って、組織委により採用された佐野氏のデザインが採用されたが、重要な部分がベルギーのリエージュ劇場のエンブレムに似ているとして、ベルギーのデザイナーから差し止めの訴えが行われ、撤回か修正が求められている。
 これに対し佐野氏は盗作を否定していたが、他のデザインのトレ-シング(なぞり)が新たに明らかとなり、盗作(パクリ)疑惑が内外に広がっている。
 これを受けてオリンピック組織委(会長 森元首相)の武藤事務総長(専務理事)が8月28日に記者会見を行い、選考過程を説明しつつ盗作疑惑を否定し、理解を求めた。それによると、‘佐野氏の原案は、現在のものとは異なるものであったが、既に存在する他のデザインに似ていることから、2度の修正を行い現在のエンブレムとなったもの’で、盗作などではないとした。
 確かに、佐野氏の原案はベルギーの劇場のエンブレムとは異なるものであり、修正されたものについてもパーツが似ているところはあるが、全体のデザインや色調が異なるので、盗作(パクリ)ではないように見える。
 しかし採用されたデザインは、結果として重要な部分において似ていることは事実であるので、‘佐野氏の原案が他のデザインと似ている’との理由で修正されたのだから、同様の理由で撤回又は修正するべきではなかろうか。しかも今回は訴訟までされている。
 このエンブレムは2020年夏まで5年近くの長期に使用されるもので、東京オリンピックのシンボルとして日本だけでなく世界の人々に親しまれるものでなければならない。このままでは、日本人だけでなく世界の多くの人々の疑惑が拭えず、日本の盗作(パクリ)の象徴として利用される恐れもある。気の毒だが、佐野氏のデザイン自身にも疑惑が付きまとうだろう。
 明年のリオ・オリンピックもこれからであるので、2020年東京オリンピックのエンブレムが本格的に世界中で使用されるのは2016年夏以降となろう。出直しする時間は十分ある。盗作(パクリ)などではないにしても、多くの人の心は離れている。それに固執することはマイナスの方が大きい。「間違いを正すに、はばかることなかれ」という諺がある。
 オリンピック組織委の説明は、人の心が離れているにも拘わらず、このエンブレムに固執しているが、どうも保身、組織防衛に聞こえる。オリンピック組織委は、新国立競技場の法外な建設費(実質3,000億円)と2019年のラグビー世界大会までの完成に固執し、対応が遅れ、一部発注してしまったため数十億円の損失を余儀なくされた。また同じ過ちを繰り返すべきではないだろう。
 いずれにしてもオリンピック組織委の度重なる不手際が明らかになっているので、明年夏のリオ・オリンピックまでに刷新し、出直すことが望ましい。
 また新国立競技場の事業主体の独立行政法人日本スポーツ振興協会も主体性がなく、無責任さを露呈したので、早急に刷新されることが望ましい。
新国立競技場建設問題で、数十億円の無駄をし、エンブレム問題で相当の損失が生じることなどを勘案すると、同振興協会の建物を高層ビルに建て替えるなどの計画(440億円内外か)は、贅沢であり、内装のリノベーションのみとするか自己資金又は民間資金で行うことはよいが、税金で賄われるべきではなく、その他のオリンピック関連建設経費なども節減を図り、税負担を軽減するなどし、損失への責任を取るべきなのであろう。
新国立競技場の出直し案についても、政府は8月28日、総工費1550億円を上限とすることを決定し、旧案の2650億円から削減が図られたとしている。しかし、旧案では大会時席数7.2万席、観客席・トラック上部も屋根付き(空調あり)が、新規案では大会時席数6.8万席、観客席のみ屋根付きで、観客席の空調も無しということで競技場自体が縮小されているにも拘わらず、総工費1550億円上限は可成り割高に映る。温暖化で夏期の暑さが心配されている中で観客席の空調も無しなど、質を落としスケールダウンされているのだからもっと節減が図られて良いのだろう。ダブダブと業界に予算(税金)を投入するだけでなく、一層の節減と関連業界からも資金を募り、官民で競技者にも観客にも快適な競技場として欲しいものだ。
  (2015.9.1.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―戦後70年首相談話、誰のためのお詫びか? (その2)

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―戦後70年首相談話、誰のためのお詫びか? (その2)
 戦後70年を迎えたのに際し、8月14日、安倍首相は閣議において首相談話を承認し、同日夕、発表した。首相談話については、安倍首相は、かねてより未来志向の内容にしたいとの意向で発表に意欲を示していたが、同首相が国会審議の場において、従軍慰安婦問題や大東亜・太平洋戦争について‘侵略の定義はない’などとして‘侵略戦争’を否定する答弁などをしており、また‘戦後レジームからの脱却’を標榜するとともに、靖国神社参拝を‘内閣総理大臣’として行うなどから、中国や韓国などから懸念が表明されていた。
8月15日の終戦の日には、戦後50周年(1995年)に村山首相談話、60周年(2005年)に小泉首相談話が出されている。その中で、‘過去への反省’については安倍首相自身も既にいろいろな形で表明しているので問題視されることはないが、注目されている歴史認識は、‘侵略戦争’と‘植民地支配(統治)’、及び‘お詫び’である。この表現については、自民党や一部保守系知識人・マスコミ・評論家を中心とする保守層から根強い反発があることも事実である。
 今回の談話では、過去の談話を踏襲し、この3つの表現が入っており、‘過去への反省’を踏まえ、不戦を誓い、国際平和に積極的に貢献して行きたいとの姿勢が表明されたことは評価されるところであろう。しかしこれらの言葉は、歴代内閣で表明されたことを引用し、継承するとしており、いわば第三者的な表現となっており、また‘お詫び’についても、‘次の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない’として謝罪から解放されたいとの気持ちをにじませているとも言えよう。
 しかし、大東亜・太平洋戦争に関する‘お詫び’とは一体誰に対するものなのだろうか。談話には必ずしも明示されていない。
 1、中・韓両国を含むアジア諸国のためだけではない‘お詫び’ (その1で掲載)
 2、 原爆投下による広島、長崎での大量殺りくへの責任        
 原爆被爆後に広島(当時人口42万人)で死者、行方不明合わせて12万人強、長崎(人口24万人)では7万人強であったが、被爆後5年間に広島で約20万人、長崎で約14万人死亡し、広島で人口のほぼ50%、長崎では50%以上が死亡し、その多くは子供や女性を含む一般市民であったと記録されおり、凄惨な殺りくであった。このような被害は、日本が降伏後米国などの連合国の関係者も現地に入り、詳細に観察、記録しているので、厳然とした歴史的な事実である。
 米国は、この原爆使用を‘対日戦争を早期に集結させ、米国の被害を最小にするため’に必要だったとし、今日でも多数意見のようだ。1995年の太平洋戦争終結50周年に当たり、米国でも広島、長崎への原爆投下は必要なかったとする‘修正主義’と言われた主張があったが、全体の世論は原爆投下を止むを得なかったとする意見が多数を占めた。そして首都ワシントンのスミソニアン博物館に、原爆を投下した爆撃機‘エノラゲイ’が展示されることになった。
 確かに日本は、長崎への原爆投下から6日後に天皇の「玉音放送」により戦争を終結しているので、太平洋戦争の終結を早めたことは事実であろう。そしてそれにより米国は、沖縄を除き本土決戦を回避できたので、米国の被害を最小にしたことも事実であろう。しかし戦争とは言え、そのために原爆だけで34万人もの女性子供を含む一般市民を殺してもよいということになるのであろうか。これは今日的な表現をすれば、一般市民の大量虐殺と言えるのであろう。数字上でも、太平洋戦争における米国側の死者は16万人強と言われているが、日本側は310万人にも上る。因みに米国側の対独戦争での死者は約25万人と言われ、米国側の死者は欧州戦線の方が遥かに多い。大量虐殺ということであれば、沖縄戦での日本側死者数約20万人(半数以上が一般市民)、また東京空爆については1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)だけでも死者数は約8万から10万人、106回ほどの空爆で累計100万人とも900万人とも言われる死傷者を出したと言われており、東京は焦土と化した。数字から見ても、日本への攻撃は度を越した過剰防御、過剰攻撃ではなかったのではないだろうか。特に、当時の戦争法規(ハーグ陸戦法規、1899年採択、1907年改訂)などでも、非戦闘員である一般民間人や軍事目標以外の民用物への攻撃を禁じており、一定の人道性を規定している。
 ロシアのナルイシキン下院議長は、8月5日、原爆問題に関する専門家等との会議において、‘広島、長崎への原爆投下はまだ国際法廷で裁かれていない。しかし人道に反する罪に時効はない’との持論を展開したと伝えられている。現在の米・ロ関係を反映した米国へのけん制と見られるが、原爆は非人道兵器と認める発言であれば核不使用に繋がる認識とも受け取れ、注目に値する。
 ここで70年も昔の行為を国際法廷で裁くなどと言う積りはない。日・米間においては、経済関係や日米安全保障取り決め、両国間の幅広い交流などを通じ和解が進展している。そして日本政府は過去の戦争について、関係アジア諸国等に対し‘お詫び’の気持ちを今回も表明している。米国がもし日本の同盟国であると言うのであれば、米国側より広島、長崎への原爆投下による市民の大量殺害に対し、またその後放射線障害により苦しみ続けている多くの被害者に対し、お詫びの気持ちが表明されてもよいのではなかろうか。
(2015.8.14)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―戦後70年首相談話、誰のためのお詫びか? (その1)

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―戦後70年首相談話、誰のためのお詫びか? (その1)
 戦後70年を迎えたのに際し、8月14日、安倍首相は閣議において首相談話を承認し、同日夕、発表した。首相談話については、安倍首相は、かねてより未来志向の内容にしたいとの意向で発表に意欲を示していたが、同首相が国会審議の場において、従軍慰安婦問題や大東亜・太平洋戦争について‘侵略の定義はない’などとして‘侵略戦争’を否定する答弁などをしており、また‘戦後レジームからの脱却’を標榜するとともに、靖国神社参拝を‘内閣総理大臣’として行うなどから、中国や韓国などから懸念が表明されていた。
8月15日の終戦の日には、戦後50周年(1995年)に村山首相談話、60周年(2005年)に小泉首相談話が出されている。その中で、‘過去への反省’については安倍首相自身も既にいろいろな形で表明しているので問題視されることはないが、注目されている歴史認識は、‘侵略戦争’と‘植民地支配(統治)’、及び‘お詫び’である。この表現については、自民党や一部保守系知識人・マスコミ・評論家を中心とする保守層から根強い反発があることも事実である。
 今回の談話では、過去の談話を踏襲し、この3つの表現が入っており、‘過去への反省’を踏まえ、不戦を誓い、国際平和に積極的に貢献して行きたいとの姿勢が表明されたことは評価されるところであろう。しかしこれらの言葉は、歴代内閣で表明されたことを引用し、継承するとしており、いわば第三者的な表現となっており、また‘お詫び’についても、‘次の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない’として謝罪から解放されたいとの気持ちをにじませているとも言えよう。
 しかし、大東亜・太平洋戦争に関する‘お詫び’とは一体誰に対するものなのだろうか。談話には必ずしも明示されていない。
 1、中・韓両国を含むアジア諸国のためだけではない‘お詫び’
 中・韓両国を含むアジア諸国については、日本軍の侵攻、統治を通じ多くの死傷者や各種の被害、損害を与えたことは事実であり、時代的、歴史的な背景があったにせよ私達の先達が行ったことであるので、それに対し真摯に‘お詫び’するしかないであろう。国家間においては、戦後賠償として物的な償いは行われている。
 しかし私達の先達が主導した大東亜・太平洋戦争により、沖縄が陸上決戦地となり、広島、長崎が原爆投下被害に遭った他、東京ほか主要都市が集中的な空爆被害に遭い、南太平洋に展開されていた軍人の他、一般民間人、女性や子供を含め約310万人もの日本人が犠牲となり、都市が焦土と化し、多くの悲劇を生んだことなど、日本人自体に甚大な被害を与える結果となったことを忘れてはならない。
 首相が改めてアジアの関係諸国の国民に‘お詫び’をするのであれば、日本国民、特にご遺族の方々にも‘お詫び’をすべきではないのだろうか。
 昭和天皇の責任についてはなかなか難しい。昭和天皇が危険を冒して1945年8月15日に終戦宣言を行っていなかったら、第3、第4の原爆の犠牲が出たであろうから、その悲劇から救ってくれた。また日本の天皇制は、日本統一の基礎を築いた神武天皇以来の約2500年の長期にわたる文化的、社会的な遺産であり、世界でも類のない人間遺産であり、また象徴として多くの国民に親しまれている。更に実体的に昭和天皇は、専制君主ではあったが、軍事政権に服さざるを得なかったのであろう。だが昭和天皇は軍事大権を持っており、軍の最高指揮者であったので、全般的な監督責任や結果責任は残る。
 この点は、時の政権や軍部が伝統的な権威者を祭り上げて政権を牛耳じることになると、専横化しあらぬ方向に暴走するという歴史的な教訓ともなる。

 2、 原爆投下による広島、長崎での大量殺りくへの責任     (その2に掲載)
    (2015.8.14)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―新国立競技場見直しの責任問題、当事者能力の無さを露呈!

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―新国立競技場見直しの責任問題、当事者能力の無さを露呈!
東京オリンピック2020の目玉となる新国立競技場の建設について、放漫な建設計画として各界からの批判が強いことを背景として、迷走の挙句、安倍首相とオリンピック組織委会長の森喜朗元首相との会談後、白紙撤回され新たな建設計画に着手されることになった。
ところが総工費が2,520億円(実体的には3,000億円内外)となったことや、各界から強い批判があったにも拘わらず迷走し、対応を誤ったことについては、首相が‘最終的に責任は自分にある’と言っている以外、文科大臣、事業主体の(独法)日本スポーツ振興会理事長、オリンピック組織委会長・事務総長のいずれからも責任が表明されず、責任のたらい回し状態となっている。
 2020年東京オリンピック実施については、これまで文科大臣の下で、オリンピック組織委があり、国立競技場の事業主体である(独法)日本スポーツ振興センターがあるので、いずれにも責任がある。しかし安倍首相とオリンピック組織委会長の森喜朗元首相との会談後にやっと白紙撤回され、新たな建設計画に着手することになったことから、元の案に固執し迷走を長期化させた責任はオリンピック組織委会長にあったえことは誰の目からも明らかだ。
 それを検証する第三者委員会は、6人の委員で構成され、8月7日に初会合を開き、柏木昇東大名誉教授を委員長に選び、9月中旬にも報告書を取りまとめることされている。第三者委員会に責任を検証させなくてはならないこと自体が無責任な体制を露呈した形だが、第三者委員会は独立の権限があるわけではない上、委員長の東大名誉教授は、文科省所管の国立大学の公務員であるので、担当大臣に責任があるなどとは言える立場ではない。また文科省が所掌する(独法)日本スポーツ振興センターや組織委の会長に対しても同様で、結論は曖昧なものになることが見えている。
 元オリンピック選手の為末大氏が委員になっているが、スポーツは文科省の所掌であり、担当大臣やスポーツ関係団体上層部の責任を追及するようなことは出来ないであろう。他の4人の委員もそれぞれ経理、法律、建築技術等の分野の専門家でしかない。
 報告書の原案は事務方が作成し、若干のコメント等は行うとしても、他のこの種有識者会議同様、基本的には第三者委員会はこれを了承するという形となるのであろう。
 政府は、各種審議会、委員会の他、最近では‘有識者会合’と称する外部委員の会議を多用しているが、今回の第三者委員会同様、構成する委員が国・公立大学の教授等の公務員で政府関係部局が所管する下部組織関係者であったり、直接の利益関係者であったりすることが多いので、公平性、客観性において偏向が強い上、事務は行政当局が担当するので、あたかも外部の意見も聞いたという体裁を整える、或いは蒸気抜き的なもの以上の効果は期待できない。また首相の下の経済諮問委員会などで、‘民間議員’という用語が保守系紙などで使われているが、‘議員’というのは選挙で国民から選ばれた者として一般的に使われており、国民から選ばれた者でもない民間人をあたかも選ばれた者のように‘民間議員’と呼ぶのは、紛らわしいだけで不適切だろう。
 各省庁の審議会や委員会については、独立の権限もなく屋上屋の無駄であり整理すべしとの指摘がなされて来たが、有識者会合や第三者委員会等についても、乱用は責任逃れと受け取られ、必要性自体が問われても仕方がないであろう。(2015.8.9.)
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シリーズ平成の本音―民主党を食いつぶした防衛専門家!

2015-10-24 | Weblog
シリーズ平成の本音―民主党を食いつぶした防衛専門家!
 防衛専門家の森本毅拓殖大学特任教授が10月16日付で中谷防衛相の政策参与に任命された。同氏は、民主党政権下で防衛相を務めており、大臣だった人が防衛相の政策参与になるという摩訶不思議な人事だ。森本氏は、民主党政権での防衛相から自民党政権下の防衛大臣の下の政策参与に鞍替えしたことにもなる。
 降格か、加齢なる転身か?処世術のスペシャリストか、日和見評論家か?摩訶不思議な変わり身ではないだろうか。いかにも節操が無さ過ぎる。ご都合で寝返るので、その言動は信用出来そうにない。
 同氏は、テレビ番組でコメンテーターなどをしているが、元防衛相というのが売りのタイトルとなっている。しかし野田内閣或いは民主党政権ということが消えている。もともと同氏は、保守政権側の評論家であった。討論会でも自民党政権下で政権側についていた。元に戻ったということであろうが、民主党は食いつぶされた形だ。
 森本防衛相参与は、沖縄の普天間基地(米国海兵隊空港)の移転先となっている辺野古の沿岸の埋め立て工事に関連し、沖縄知事が埋立て工事許可を取り消したことに関連し‘安全保障は国の権限であり、国に任せてほしい’旨述べている。しかし辺野古への米軍基地建設は安全保障と関連しているが、75%近くの米軍基地が集中している沖縄県辺野古での米軍基地建設であるので、沖縄県での基地建設問題であり、地権者との関連を含めて国内問題である。更に政治的には、辺野古基地建設反対が県民の選択である。国が勝手に何処でも米国の軍事基地を作って良いということではない。もしそうであれば、沖縄以外のどこかに勝手に建設できるではないか。辺野古沖にはサンゴ礁が広がっており、希少動物のジュゴンの生息地でもある。周辺住民の生活環境や風紀の問題等もある。米兵については、日本側に裁判権もない。
 安倍政権は、沖縄県の経済開発ため今後5年間で年3000億円の財政支援を提案し、辺野古移設に慎重であった仲井間知事(当時)の説得に努めた結果、同知事は2013年12月に辺野古沖の埋め立てを認め、また埋め立てのための岩礁破砕を承認し、これを受けて防衛省は辺野古沿岸の調査、準備を開始した。
しかし仲井間知事は、2014年11月16日の知事選において辺野古移設に反対、普天間基地の早期返還を公約にした翁長雄志氏(自民党県連を脱退)に敗れ、落選した。更に、同年12月の衆院総選挙において、自民、公明両党は同県の4つの1人区で1議席も確保できなかった上、2年前の選挙で獲得した3議席を失った。また2014年1月に行われた辺野古の地元である名護市長選挙でも、辺野古移設反対の稲嶺進氏が当選した。自民党側は、与党候補支援のため500億円の財政支援を示唆したが、与党推薦候補は敗れた。
政治的には同県の民意は明らかだ。市レベルはもとより、県レベル、国政レベルでも辺野古移設反対が沖縄の民意と言えよう。民主党政権が発足した際、同県の民意を尊重し、‘普天間基地の移転先を県外他’と提案して本土での受け入れ先を探したが見つからず、頓挫した。その際、‘移転先は辺野古が唯一の選択肢’と主張していたのは自衛隊出身の森本氏だ。今回沖縄県の民意は明らかであり、民主党政権の判断は正しかったと言えそうだ。
国内に米軍基地や自衛隊駐屯地を建設するような国内の問題を、同氏が主張するように、‘安全保障は国の権限であり、国に任せてほしい’ということで沖縄県の民意を踏みにじるわけにはいかないだろう。それは同県の地方自治を踏みにじることにもなる。同氏のような専横的考えでは、国の安全保障上の問題と判断すれば、国民に銃を向けることにもなり兼ねない。(2015.10.17.)(All Rights Reserved.)
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