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皆様からも面白く参考になる情報(正しい情報)をお寄せ下さい。

シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行
 2007年1月から、銀行のATMから「現金で10万円以上」を振り込むことが出来なくなった。国際的な要請に基づき、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与防止のための「本人確認手続きに関する法令」の改正に伴う措置のようだ。
 ATMからの現金振込みの制限については、早朝、夜間や祝祭日には無防備状態になるので、そもそも多額の現金を取引するためのものではなく、便宜を図るため小口現金の取引を時間を問わず行える施設であるので、理解は出来る。しかし、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与を意図する者であれば、何十回に分けても必死に実施するであろうから、「現金10万円以上の振り込み」規制は、実体上ほとんど意味をなさず、建前上の規制、責任逃れの規制の類に近い。
 しかし問題は、金融機関の窓口で現金10万円以上を振り込もうとする場合、可能ではあるが、運転免許証や健康保険証などの「本人確認」が行われ、「確認」だけでなく、「コピー」の作成、保管まで求められる。所属する組織の「身分証明書」などではダメである。写真入でも断られる。百歩譲って「本人確認」に応じるとしても、何故「コピー」の作成、保管まで強要するのだろうか。「確認作業」にはコピーは不要であろうし、個人情報保護の上で、むやみに個人の重要文書等のコピーを作成すべきではないのだろう。利用者側への配慮に欠けている。これも問題があった場合の責任逃れでしかないように見える。現実問題として、金融機関や証券、保険会社、また公的機関等の関係者による情報漏えいは絶えない。個人はいろいろの形での情報漏えい、従って、おれおれ詐欺などの犯罪の標的になり易い状況になっている。顧客軽視である。
 更に、ガスや電気などの公共料金の支払いや健康保健組合などの印刷された所定の振込用紙で、それぞれの企業、団体の指定銀行口座への振込みについても同様の手続きを求められる。自行の取引先の口座への振込みであり、自行の取引先をチェックすれば足りることではなかろうか。それともこれらの公共的企業や団体もマネー・ロンダーリングやテロ、麻薬取引などに関与していると考えているのだろうか。支払おうとしている現金は、日本国造幣局発行の真正な紙幣をもってしてもである。典型的な「一律・横並び」の過剰反応である。
利用者側の便宜や心情を全く考慮しない。国民や顧客を信用しない過剰反応である。それで、国民に銀行を信用して下さいと言えるのであろうか。藤原紀香さんのあるCMで、「あんたの疑い深い目エが、好っき~!」というのがあった。なんともユーモラスだった。しかし、銀行や役所の職員の過剰な程の疑い深い目は、好感は持たれないだろう。
 日本の銀行など、規制の強い産業は顧客サービス面で世界に大きく遅れをとっている。銀行の預金通帳で資金の出し入れをする場合、通帳を提示し、所定の用紙に「署名」した上、「押印」をする。その上で、高額の取引の場合、更に「本人確認」を求められることがある。銀行取引で、署名に加え印鑑を持ち歩かなくてはならないのは、先進工業国では日本くらいであろう。その上「本人確認」を求め、コピーまで取る。過剰だ。自分の預金口座から一定額を定期預金にする申し込みをしたら、「本人確認」を求められた。過剰だ。
 かつて日本の美徳とされていた高い貯蓄率は、最近において3.3%にまで低下し、比較可能な先進工業17か国の内、韓国と共に最下位になっている。日本の貯蓄率が低いのは、長期の景気低迷による所得水準の低迷が背景にあるが、実質ゼロ金利の長期化と高い「各種手数料」の継続による実質的なマイナス金利の中で、過度の「本人確認」を含むサービスの低下があると言えよう。
ところが年金不安や将来不安から、若い世代を含め、貯蓄意識は強い。しかし銀行に預けると長時間待たされ、手間ばかり掛かり、使い勝手が悪く、金利メリットは無いに等しい。そうであれば、安全性を犠牲にしても他の方法で保管することになる。制度、手続きなどが、顧客の利益、利便性に立っていないからだ。
 同様のことが、行政の電子政府化にも言える。普及率は2、3%前後でしかない。それに多額の予算と時間を使っており、予算の非効率が目立つ。認証を得るまで犯罪者扱いのような過剰な「本人確認」を求められ、実際の手続きも煩雑で分り難く、過剰である。行政の都合が優先し、国民、利用者の利便性を考慮していないからであろう。(09.04.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行
 2007年1月から、銀行のATMから「現金で10万円以上」を振り込むことが出来なくなった。国際的な要請に基づき、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与防止のための「本人確認手続きに関する法令」の改正に伴う措置のようだ。
 ATMからの現金振込みの制限については、早朝、夜間や祝祭日には無防備状態になるので、そもそも多額の現金を取引するためのものではなく、便宜を図るため小口現金の取引を時間を問わず行える施設であるので、理解は出来る。しかし、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与を意図する者であれば、何十回に分けても必死に実施するであろうから、「現金10万円以上の振り込み」規制は、実体上ほとんど意味をなさず、建前上の規制、責任逃れの規制の類に近い。
 しかし問題は、金融機関の窓口で現金10万円以上を振り込もうとする場合、可能ではあるが、運転免許証や健康保険証などの「本人確認」が行われ、「確認」だけでなく、「コピー」の作成、保管まで求められる。所属する組織の「身分証明書」などではダメである。写真入でも断られる。百歩譲って「本人確認」に応じるとしても、何故「コピー」の作成、保管まで強要するのだろうか。「確認作業」にはコピーは不要であろうし、個人情報保護の上で、むやみに個人の重要文書等のコピーを作成すべきではないのだろう。利用者側への配慮に欠けている。これも問題があった場合の責任逃れでしかないように見える。現実問題として、金融機関や証券、保険会社、また公的機関等の関係者による情報漏えいは絶えない。個人はいろいろの形での情報漏えい、従って、おれおれ詐欺などの犯罪の標的になり易い状況になっている。顧客軽視である。
 更に、ガスや電気などの公共料金の支払いや健康保健組合などの印刷された所定の振込用紙で、それぞれの企業、団体の指定銀行口座への振込みについても同様の手続きを求められる。自行の取引先の口座への振込みであり、自行の取引先をチェックすれば足りることではなかろうか。それともこれらの公共的企業や団体もマネー・ロンダーリングやテロ、麻薬取引などに関与していると考えているのだろうか。支払おうとしている現金は、日本国造幣局発行の真正な紙幣をもってしてもである。典型的な「一律・横並び」の過剰反応である。
利用者側の便宜や心情を全く考慮しない。国民や顧客を信用しない過剰反応である。それで、国民に銀行を信用して下さいと言えるのであろうか。藤原紀香さんのあるCMで、「あんたの疑い深い目エが、好っき~!」というのがあった。なんともユーモラスだった。しかし、銀行や役所の職員の過剰な程の疑い深い目は、好感は持たれないだろう。
 日本の銀行など、規制の強い産業は顧客サービス面で世界に大きく遅れをとっている。銀行の預金通帳で資金の出し入れをする場合、通帳を提示し、所定の用紙に「署名」した上、「押印」をする。その上で、高額の取引の場合、更に「本人確認」を求められることがある。銀行取引で、署名に加え印鑑を持ち歩かなくてはならないのは、先進工業国では日本くらいであろう。その上「本人確認」を求め、コピーまで取る。過剰だ。自分の預金口座から一定額を定期預金にする申し込みをしたら、「本人確認」を求められた。過剰だ。
 かつて日本の美徳とされていた高い貯蓄率は、最近において3.3%にまで低下し、比較可能な先進工業17か国の内、韓国と共に最下位になっている。日本の貯蓄率が低いのは、長期の景気低迷による所得水準の低迷が背景にあるが、実質ゼロ金利の長期化と高い「各種手数料」の継続による実質的なマイナス金利の中で、過度の「本人確認」を含むサービスの低下があると言えよう。
ところが年金不安や将来不安から、若い世代を含め、貯蓄意識は強い。しかし銀行に預けると長時間待たされ、手間ばかり掛かり、使い勝手が悪く、金利メリットは無いに等しい。そうであれば、安全性を犠牲にしても他の方法で保管することになる。制度、手続きなどが、顧客の利益、利便性に立っていないからだ。
 同様のことが、行政の電子政府化にも言える。普及率は2、3%前後でしかない。それに多額の予算と時間を使っており、予算の非効率が目立つ。認証を得るまで犯罪者扱いのような過剰な「本人確認」を求められ、実際の手続きも煩雑で分り難く、過剰である。行政の都合が優先し、国民、利用者の利便性を考慮していないからであろう。(09.04.)(All Rights Reserved.)
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2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行
 2007年1月から、銀行のATMから「現金で10万円以上」を振り込むことが出来なくなった。国際的な要請に基づき、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与防止のための「本人確認手続きに関する法令」の改正に伴う措置のようだ。
 ATMからの現金振込みの制限については、早朝、夜間や祝祭日には無防備状態になるので、そもそも多額の現金を取引するためのものではなく、便宜を図るため小口現金の取引を時間を問わず行える施設であるので、理解は出来る。しかし、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与を意図する者であれば、何十回に分けても必死に実施するであろうから、「現金10万円以上の振り込み」規制は、実体上ほとんど意味をなさず、建前上の規制、責任逃れの規制の類に近い。
 しかし問題は、金融機関の窓口で現金10万円以上を振り込もうとする場合、可能ではあるが、運転免許証や健康保険証などの「本人確認」が行われ、「確認」だけでなく、「コピー」の作成、保管まで求められる。所属する組織の「身分証明書」などではダメである。写真入でも断られる。百歩譲って「本人確認」に応じるとしても、何故「コピー」の作成、保管まで強要するのだろうか。「確認作業」にはコピーは不要であろうし、個人情報保護の上で、むやみに個人の重要文書等のコピーを作成すべきではないのだろう。利用者側への配慮に欠けている。これも問題があった場合の責任逃れでしかないように見える。現実問題として、金融機関や証券、保険会社、また公的機関等の関係者による情報漏えいは絶えない。個人はいろいろの形での情報漏えい、従って、おれおれ詐欺などの犯罪の標的になり易い状況になっている。顧客軽視である。
 更に、ガスや電気などの公共料金の支払いや健康保健組合などの印刷された所定の振込用紙で、それぞれの企業、団体の指定銀行口座への振込みについても同様の手続きを求められる。自行の取引先の口座への振込みであり、自行の取引先をチェックすれば足りることではなかろうか。それともこれらの公共的企業や団体もマネー・ロンダーリングやテロ、麻薬取引などに関与していると考えているのだろうか。支払おうとしている現金は、日本国造幣局発行の真正な紙幣をもってしてもである。典型的な「一律・横並び」の過剰反応である。
利用者側の便宜や心情を全く考慮しない。国民や顧客を信用しない過剰反応である。それで、国民に銀行を信用して下さいと言えるのであろうか。藤原紀香さんのあるCMで、「あんたの疑い深い目エが、好っき~!」というのがあった。なんともユーモラスだった。しかし、銀行や役所の職員の過剰な程の疑い深い目は、好感は持たれないだろう。
 日本の銀行など、規制の強い産業は顧客サービス面で世界に大きく遅れをとっている。銀行の預金通帳で資金の出し入れをする場合、通帳を提示し、所定の用紙に「署名」した上、「押印」をする。その上で、高額の取引の場合、更に「本人確認」を求められることがある。銀行取引で、署名に加え印鑑を持ち歩かなくてはならないのは、先進工業国では日本くらいであろう。その上「本人確認」を求め、コピーまで取る。過剰だ。自分の預金口座から一定額を定期預金にする申し込みをしたら、「本人確認」を求められた。過剰だ。
 かつて日本の美徳とされていた高い貯蓄率は、最近において3.3%にまで低下し、比較可能な先進工業17か国の内、韓国と共に最下位になっている。日本の貯蓄率が低いのは、長期の景気低迷による所得水準の低迷が背景にあるが、実質ゼロ金利の長期化と高い「各種手数料」の継続による実質的なマイナス金利の中で、過度の「本人確認」を含むサービスの低下があると言えよう。
ところが年金不安や将来不安から、若い世代を含め、貯蓄意識は強い。しかし銀行に預けると長時間待たされ、手間ばかり掛かり、使い勝手が悪く、金利メリットは無いに等しい。そうであれば、安全性を犠牲にしても他の方法で保管することになる。制度、手続きなどが、顧客の利益、利便性に立っていないからだ。
 同様のことが、行政の電子政府化にも言える。普及率は2、3%前後でしかない。それに多額の予算と時間を使っており、予算の非効率が目立つ。認証を得るまで犯罪者扱いのような過剰な「本人確認」を求められ、実際の手続きも煩雑で分り難く、過剰である。行政の都合が優先し、国民、利用者の利便性を考慮していないからであろう。(09.04.)(All Rights Reserved.)
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2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」ー2重3重に本人確認を求める銀行
 2007年1月から、銀行のATMから「現金で10万円以上」を振り込むことが出来なくなった。国際的な要請に基づき、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与防止のための「本人確認手続きに関する法令」の改正に伴う措置のようだ。
 ATMからの現金振込みの制限については、早朝、夜間や祝祭日には無防備状態になるので、そもそも多額の現金を取引するためのものではなく、便宜を図るため小口現金の取引を時間を問わず行える施設であるので、理解は出来る。しかし、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与を意図する者であれば、何十回に分けても必死に実施するであろうから、「現金10万円以上の振り込み」規制は、実体上ほとんど意味をなさず、建前上の規制、責任逃れの規制の類に近い。
 しかし問題は、金融機関の窓口で現金10万円以上を振り込もうとする場合、可能ではあるが、運転免許証や健康保険証などの「本人確認」が行われ、「確認」だけでなく、「コピー」の作成、保管まで求められる。所属する組織の「身分証明書」などではダメである。写真入でも断られる。百歩譲って「本人確認」に応じるとしても、何故「コピー」の作成、保管まで強要するのだろうか。「確認作業」にはコピーは不要であろうし、個人情報保護の上で、むやみに個人の重要文書等のコピーを作成すべきではないのだろう。利用者側への配慮に欠けている。これも問題があった場合の責任逃れでしかないように見える。現実問題として、金融機関や証券、保険会社、また公的機関等の関係者による情報漏えいは絶えない。個人はいろいろの形での情報漏えい、従って、おれおれ詐欺などの犯罪の標的になり易い状況になっている。顧客軽視である。
 更に、ガスや電気などの公共料金の支払いや健康保健組合などの印刷された所定の振込用紙で、それぞれの企業、団体の指定銀行口座への振込みについても同様の手続きを求められる。自行の取引先の口座への振込みであり、自行の取引先をチェックすれば足りることではなかろうか。それともこれらの公共的企業や団体もマネー・ロンダーリングやテロ、麻薬取引などに関与していると考えているのだろうか。支払おうとしている現金は、日本国造幣局発行の真正な紙幣をもってしてもである。典型的な「一律・横並び」の過剰反応である。
利用者側の便宜や心情を全く考慮しない。国民や顧客を信用しない過剰反応である。それで、国民に銀行を信用して下さいと言えるのであろうか。藤原紀香さんのあるCMで、「あんたの疑い深い目エが、好っき~!」というのがあった。なんともユーモラスだった。しかし、銀行や役所の職員の過剰な程の疑い深い目は、好感は持たれないだろう。
 日本の銀行など、規制の強い産業は顧客サービス面で世界に大きく遅れをとっている。銀行の預金通帳で資金の出し入れをする場合、通帳を提示し、所定の用紙に「署名」した上、「押印」をする。その上で、高額の取引の場合、更に「本人確認」を求められることがある。銀行取引で、署名に加え印鑑を持ち歩かなくてはならないのは、先進工業国では日本くらいであろう。その上「本人確認」を求め、コピーまで取る。過剰だ。自分の預金口座から一定額を定期預金にする申し込みをしたら、「本人確認」を求められた。過剰だ。
 かつて日本の美徳とされていた高い貯蓄率は、最近において3.3%にまで低下し、比較可能な先進工業17か国の内、韓国と共に最下位になっている。日本の貯蓄率が低いのは、長期の景気低迷による所得水準の低迷が背景にあるが、実質ゼロ金利の長期化と高い「各種手数料」の継続による実質的なマイナス金利の中で、過度の「本人確認」を含むサービスの低下があると言えよう。
ところが年金不安や将来不安から、若い世代を含め、貯蓄意識は強い。しかし銀行に預けると長時間待たされ、手間ばかり掛かり、使い勝手が悪く、金利メリットは無いに等しい。そうであれば、安全性を犠牲にしても他の方法で保管することになる。制度、手続きなどが、顧客の利益、利便性に立っていないからだ。
 同様のことが、行政の電子政府化にも言える。普及率は2、3%前後でしかない。それに多額の予算と時間を使っており、予算の非効率が目立つ。認証を得るまで犯罪者扱いのような過剰な「本人確認」を求められ、実際の手続きも煩雑で分り難く、過剰である。行政の都合が優先し、国民、利用者の利便性を考慮していないからであろう。(09.04.)(All Rights Reserved.)
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2009-07-31 | Weblog
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 2007年1月から、銀行のATMから「現金で10万円以上」を振り込むことが出来なくなった。国際的な要請に基づき、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与防止のための「本人確認手続きに関する法令」の改正に伴う措置のようだ。
 ATMからの現金振込みの制限については、早朝、夜間や祝祭日には無防備状態になるので、そもそも多額の現金を取引するためのものではなく、便宜を図るため小口現金の取引を時間を問わず行える施設であるので、理解は出来る。しかし、マネー・ロンダーリングやテロ資金供与を意図する者であれば、何十回に分けても必死に実施するであろうから、「現金10万円以上の振り込み」規制は、実体上ほとんど意味をなさず、建前上の規制、責任逃れの規制の類に近い。
 しかし問題は、金融機関の窓口で現金10万円以上を振り込もうとする場合、可能ではあるが、運転免許証や健康保険証などの「本人確認」が行われ、「確認」だけでなく、「コピー」の作成、保管まで求められる。所属する組織の「身分証明書」などではダメである。写真入でも断られる。百歩譲って「本人確認」に応じるとしても、何故「コピー」の作成、保管まで強要するのだろうか。「確認作業」にはコピーは不要であろうし、個人情報保護の上で、むやみに個人の重要文書等のコピーを作成すべきではないのだろう。利用者側への配慮に欠けている。これも問題があった場合の責任逃れでしかないように見える。現実問題として、金融機関や証券、保険会社、また公的機関等の関係者による情報漏えいは絶えない。個人はいろいろの形での情報漏えい、従って、おれおれ詐欺などの犯罪の標的になり易い状況になっている。顧客軽視である。
 更に、ガスや電気などの公共料金の支払いや健康保健組合などの印刷された所定の振込用紙で、それぞれの企業、団体の指定銀行口座への振込みについても同様の手続きを求められる。自行の取引先の口座への振込みであり、自行の取引先をチェックすれば足りることではなかろうか。それともこれらの公共的企業や団体もマネー・ロンダーリングやテロ、麻薬取引などに関与していると考えているのだろうか。支払おうとしている現金は、日本国造幣局発行の真正な紙幣をもってしてもである。典型的な「一律・横並び」の過剰反応である。
利用者側の便宜や心情を全く考慮しない。国民や顧客を信用しない過剰反応である。それで、国民に銀行を信用して下さいと言えるのであろうか。藤原紀香さんのあるCMで、「あんたの疑い深い目エが、好っき~!」というのがあった。なんともユーモラスだった。しかし、銀行や役所の職員の過剰な程の疑い深い目は、好感は持たれないだろう。
 日本の銀行など、規制の強い産業は顧客サービス面で世界に大きく遅れをとっている。銀行の預金通帳で資金の出し入れをする場合、通帳を提示し、所定の用紙に「署名」した上、「押印」をする。その上で、高額の取引の場合、更に「本人確認」を求められることがある。銀行取引で、署名に加え印鑑を持ち歩かなくてはならないのは、先進工業国では日本くらいであろう。その上「本人確認」を求め、コピーまで取る。過剰だ。自分の預金口座から一定額を定期預金にする申し込みをしたら、「本人確認」を求められた。過剰だ。
 かつて日本の美徳とされていた高い貯蓄率は、最近において3.3%にまで低下し、比較可能な先進工業17か国の内、韓国と共に最下位になっている。日本の貯蓄率が低いのは、長期の景気低迷による所得水準の低迷が背景にあるが、実質ゼロ金利の長期化と高い「各種手数料」の継続による実質的なマイナス金利の中で、過度の「本人確認」を含むサービスの低下があると言えよう。
ところが年金不安や将来不安から、若い世代を含め、貯蓄意識は強い。しかし銀行に預けると長時間待たされ、手間ばかり掛かり、使い勝手が悪く、金利メリットは無いに等しい。そうであれば、安全性を犠牲にしても他の方法で保管することになる。制度、手続きなどが、顧客の利益、利便性に立っていないからだ。
 同様のことが、行政の電子政府化にも言える。普及率は2、3%前後でしかない。それに多額の予算と時間を使っており、予算の非効率が目立つ。認証を得るまで犯罪者扱いのような過剰な「本人確認」を求められ、実際の手続きも煩雑で分り難く、過剰である。行政の都合が優先し、国民、利用者の利便性を考慮していないからであろう。(09.04.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」
 麻生首相が、G-8サミットから帰国し、7月13日に「21日以降に衆議院解散、8月30日に総選挙を実施する」との予告をし、21日、衆議院を解散した。
 自民党内には、「解散予告」がなされた後、解散するなら何故直ちに行わないのか、都議選での大敗の総括をすべし、支持率低迷の中で何故麻生首相・党総裁の下で選挙をするのかなど異論が続出している。「変」である。
 麻生首相は、安倍、福田両首相の突然の辞任を受けて、昨年9月、自民党新総裁となり首班指名された。福田前首相としては、支持率が低迷し、党内外から衆院選は新しい顔で戦えるようにとの配慮から禅譲したもので、交代後は速やかな解散、総選挙が予想されていた。
 ところが、同首相は、首相の座にしがみつき、「適当な時期に解散、総選挙する。解散は首相の権限」と繰り返し、解散を先延ばしして来た。衆議院議員の任期は9月10日までであることは分っており、任期が近付けば、任期切れ解散に追い込まれることは分りきっている。就任以来首相の座にしがみつき、失言のみでなく、景気対策においても選挙目当ての人気取りと思われる項目を含めるなど、公正を欠く面があり、支持率はジリ貧に終始した。国民は、景気対策の必要性は十分に認識していたし、一部の施策は評価されている。しかし失業者が増加し、住宅金融の返済に困るような家計が出ているにもかかわらず、不必要な「定額給付金」や1年限りの「幼児手当て」などや、有料高速道路の部分的引き下げは良いとしても、そのために5千億円もの税金を道路会社に注ぎ込むなど、選挙目当てと見られる予算のばら撒きを繰り返し、そのツケを国民の税金や国債の増額として転嫁している。国民の負担における景気対策であるとの認識に欠ける。国民にツケを回すのであれば誰でも出来る。本年度予算についても、国立マンガ・アニメ・センターの建設に117億円もの予算を付けており、これらを含め国会の内外で多くの無駄や国債発行の上積みなどが指摘されているにも拘わらず、また参議院で否決されたにも拘わらず、従来通り「修正協議」には一切応じていない。何のための両院協議会か。誰のための国会か。誰のための予算か。対応に適正を欠く。「変」である。
 与党側は、北朝鮮船舶の検査など、一部の法律案が廃案になるとして野党を批判する向きがあるが、勝手に解散予告をし、延長国会の会期前に解散したのは首相であり、一日も争って採択すべき法案であれば、野党と協議して、任期まで務め法案処理を優先すべきではなかったのか。責任転嫁も甚だしい。
 首相は、首相の解散権に拘泥し、“適当な時期に解散する”と言い続けていた手前、任期切れ解散となるのを恐れ、解散予告に追い込まれたのであり、「負け惜しみ解散」の様相が強い。その上、連立している公明党が東京都議選の応援に動員されていた傘下の宗教団体の会員を総選挙のために再配置するためなどに1ヶ月以上の時間を必要とすることなどから、「予告」、「解散宣言」という2段階方式を取らざるを得なくなり、任期切れぎりぎりの8月30日を投票日とせざるを得なかったのであろう。それで決断したとは言い難く、解散に追い込まれた負け惜しみ解散なのであろう。「変」である。
首相は、都議選の第一声で、普通であれば必勝を期して戦うと言うべきところを、例のごとく「惜敗を期して」戦うと言って、大敗を喫してしまった。
 政権延命を画策し、擁護し、解散・総選挙をここまで先送って来た森院政にも大きな責任がある。「政治空白を作らない」、「政局にしない」ことを大義名分としていたが、国民の明確な信託と支持を得ていない政権、政府を延命させることこそが民意に反する「政治空白」であり、国家、国民の利益に反することになる。ともすると一部マスコミがそれに迎合するかの論調であった。ここまで解散、総選挙の先延ばしを許した責任の一端はマスコミ側にもあるのかもしれない。民意を問うことは、民主主義のコストやある種の非効率になるにしても、基本中の基本であり、そのために1ヶ月前後の期間を費やしたとしても、民意を無視して政権を継続するよりも遥かにましであろう。「政治空白を作らない」という論理は、国民は信頼できず、「衆愚」であるという政権側や行政側の意識の反映でもある。そう言われないように、国民、有権者の賢明な選択を期待したい。(09.07.)
((All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」
 麻生首相が、G-8サミットから帰国し、7月13日に「21日以降に衆議院解散、8月30日に総選挙を実施する」との予告をし、21日、衆議院を解散した。
 自民党内には、「解散予告」がなされた後、解散するなら何故直ちに行わないのか、都議選での大敗の総括をすべし、支持率低迷の中で何故麻生首相・党総裁の下で選挙をするのかなど異論が続出している。「変」である。
 麻生首相は、安倍、福田両首相の突然の辞任を受けて、昨年9月、自民党新総裁となり首班指名された。福田前首相としては、支持率が低迷し、党内外から衆院選は新しい顔で戦えるようにとの配慮から禅譲したもので、交代後は速やかな解散、総選挙が予想されていた。
 ところが、同首相は、首相の座にしがみつき、「適当な時期に解散、総選挙する。解散は首相の権限」と繰り返し、解散を先延ばしして来た。衆議院議員の任期は9月10日までであることは分っており、任期が近付けば、任期切れ解散に追い込まれることは分りきっている。就任以来首相の座にしがみつき、失言のみでなく、景気対策においても選挙目当ての人気取りと思われる項目を含めるなど、公正を欠く面があり、支持率はジリ貧に終始した。国民は、景気対策の必要性は十分に認識していたし、一部の施策は評価されている。しかし失業者が増加し、住宅金融の返済に困るような家計が出ているにもかかわらず、不必要な「定額給付金」や1年限りの「幼児手当て」などや、有料高速道路の部分的引き下げは良いとしても、そのために5千億円もの税金を道路会社に注ぎ込むなど、選挙目当てと見られる予算のばら撒きを繰り返し、そのツケを国民の税金や国債の増額として転嫁している。国民の負担における景気対策であるとの認識に欠ける。国民にツケを回すのであれば誰でも出来る。本年度予算についても、国立マンガ・アニメ・センターの建設に117億円もの予算を付けており、これらを含め国会の内外で多くの無駄や国債発行の上積みなどが指摘されているにも拘わらず、また参議院で否決されたにも拘わらず、従来通り「修正協議」には一切応じていない。何のための両院協議会か。誰のための国会か。誰のための予算か。対応に適正を欠く。「変」である。
 与党側は、北朝鮮船舶の検査など、一部の法律案が廃案になるとして野党を批判する向きがあるが、勝手に解散予告をし、延長国会の会期前に解散したのは首相であり、一日も争って採択すべき法案であれば、野党と協議して、任期まで務め法案処理を優先すべきではなかったのか。責任転嫁も甚だしい。
 首相は、首相の解散権に拘泥し、“適当な時期に解散する”と言い続けていた手前、任期切れ解散となるのを恐れ、解散予告に追い込まれたのであり、「負け惜しみ解散」の様相が強い。その上、連立している公明党が東京都議選の応援に動員されていた傘下の宗教団体の会員を総選挙のために再配置するためなどに1ヶ月以上の時間を必要とすることなどから、「予告」、「解散宣言」という2段階方式を取らざるを得なくなり、任期切れぎりぎりの8月30日を投票日とせざるを得なかったのであろう。それで決断したとは言い難く、解散に追い込まれた負け惜しみ解散なのであろう。「変」である。
首相は、都議選の第一声で、普通であれば必勝を期して戦うと言うべきところを、例のごとく「惜敗を期して」戦うと言って、大敗を喫してしまった。
 政権延命を画策し、擁護し、解散・総選挙をここまで先送って来た森院政にも大きな責任がある。「政治空白を作らない」、「政局にしない」ことを大義名分としていたが、国民の明確な信託と支持を得ていない政権、政府を延命させることこそが民意に反する「政治空白」であり、国家、国民の利益に反することになる。ともすると一部マスコミがそれに迎合するかの論調であった。ここまで解散、総選挙の先延ばしを許した責任の一端はマスコミ側にもあるのかもしれない。民意を問うことは、民主主義のコストやある種の非効率になるにしても、基本中の基本であり、そのために1ヶ月前後の期間を費やしたとしても、民意を無視して政権を継続するよりも遥かにましであろう。「政治空白を作らない」という論理は、国民は信頼できず、「衆愚」であるという政権側や行政側の意識の反映でもある。そう言われないように、国民、有権者の賢明な選択を期待したい。(09.07.)
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シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」
 麻生首相が、G-8サミットから帰国し、7月13日に「21日以降に衆議院解散、8月30日に総選挙を実施する」との予告をし、21日、衆議院を解散した。
 自民党内には、「解散予告」がなされた後、解散するなら何故直ちに行わないのか、都議選での大敗の総括をすべし、支持率低迷の中で何故麻生首相・党総裁の下で選挙をするのかなど異論が続出している。「変」である。
 麻生首相は、安倍、福田両首相の突然の辞任を受けて、昨年9月、自民党新総裁となり首班指名された。福田前首相としては、支持率が低迷し、党内外から衆院選は新しい顔で戦えるようにとの配慮から禅譲したもので、交代後は速やかな解散、総選挙が予想されていた。
 ところが、同首相は、首相の座にしがみつき、「適当な時期に解散、総選挙する。解散は首相の権限」と繰り返し、解散を先延ばしして来た。衆議院議員の任期は9月10日までであることは分っており、任期が近付けば、任期切れ解散に追い込まれることは分りきっている。就任以来首相の座にしがみつき、失言のみでなく、景気対策においても選挙目当ての人気取りと思われる項目を含めるなど、公正を欠く面があり、支持率はジリ貧に終始した。国民は、景気対策の必要性は十分に認識していたし、一部の施策は評価されている。しかし失業者が増加し、住宅金融の返済に困るような家計が出ているにもかかわらず、不必要な「定額給付金」や1年限りの「幼児手当て」などや、有料高速道路の部分的引き下げは良いとしても、そのために5千億円もの税金を道路会社に注ぎ込むなど、選挙目当てと見られる予算のばら撒きを繰り返し、そのツケを国民の税金や国債の増額として転嫁している。国民の負担における景気対策であるとの認識に欠ける。国民にツケを回すのであれば誰でも出来る。本年度予算についても、国立マンガ・アニメ・センターの建設に117億円もの予算を付けており、これらを含め国会の内外で多くの無駄や国債発行の上積みなどが指摘されているにも拘わらず、また参議院で否決されたにも拘わらず、従来通り「修正協議」には一切応じていない。何のための両院協議会か。誰のための国会か。誰のための予算か。対応に適正を欠く。「変」である。
 与党側は、北朝鮮船舶の検査など、一部の法律案が廃案になるとして野党を批判する向きがあるが、勝手に解散予告をし、延長国会の会期前に解散したのは首相であり、一日も争って採択すべき法案であれば、野党と協議して、任期まで務め法案処理を優先すべきではなかったのか。責任転嫁も甚だしい。
 首相は、首相の解散権に拘泥し、“適当な時期に解散する”と言い続けていた手前、任期切れ解散となるのを恐れ、解散予告に追い込まれたのであり、「負け惜しみ解散」の様相が強い。その上、連立している公明党が東京都議選の応援に動員されていた傘下の宗教団体の会員を総選挙のために再配置するためなどに1ヶ月以上の時間を必要とすることなどから、「予告」、「解散宣言」という2段階方式を取らざるを得なくなり、任期切れぎりぎりの8月30日を投票日とせざるを得なかったのであろう。それで決断したとは言い難く、解散に追い込まれた負け惜しみ解散なのであろう。「変」である。
首相は、都議選の第一声で、普通であれば必勝を期して戦うと言うべきところを、例のごとく「惜敗を期して」戦うと言って、大敗を喫してしまった。
 政権延命を画策し、擁護し、解散・総選挙をここまで先送って来た森院政にも大きな責任がある。「政治空白を作らない」、「政局にしない」ことを大義名分としていたが、国民の明確な信託と支持を得ていない政権、政府を延命させることこそが民意に反する「政治空白」であり、国家、国民の利益に反することになる。ともすると一部マスコミがそれに迎合するかの論調であった。ここまで解散、総選挙の先延ばしを許した責任の一端はマスコミ側にもあるのかもしれない。民意を問うことは、民主主義のコストやある種の非効率になるにしても、基本中の基本であり、そのために1ヶ月前後の期間を費やしたとしても、民意を無視して政権を継続するよりも遥かにましであろう。「政治空白を作らない」という論理は、国民は信頼できず、「衆愚」であるという政権側や行政側の意識の反映でもある。そう言われないように、国民、有権者の賢明な選択を期待したい。(09.07.)
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シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」

2009-07-31 | Weblog
シリーズ平成の「変」-“惜敗を期す?!”麻生政権の衆院解散・総選挙の「変」
 麻生首相が、G-8サミットから帰国し、7月13日に「21日以降に衆議院解散、8月30日に総選挙を実施する」との予告をし、21日、衆議院を解散した。
 自民党内には、「解散予告」がなされた後、解散するなら何故直ちに行わないのか、都議選での大敗の総括をすべし、支持率低迷の中で何故麻生首相・党総裁の下で選挙をするのかなど異論が続出している。「変」である。
 麻生首相は、安倍、福田両首相の突然の辞任を受けて、昨年9月、自民党新総裁となり首班指名された。福田前首相としては、支持率が低迷し、党内外から衆院選は新しい顔で戦えるようにとの配慮から禅譲したもので、交代後は速やかな解散、総選挙が予想されていた。
 ところが、同首相は、首相の座にしがみつき、「適当な時期に解散、総選挙する。解散は首相の権限」と繰り返し、解散を先延ばしして来た。衆議院議員の任期は9月10日までであることは分っており、任期が近付けば、任期切れ解散に追い込まれることは分りきっている。就任以来首相の座にしがみつき、失言のみでなく、景気対策においても選挙目当ての人気取りと思われる項目を含めるなど、公正を欠く面があり、支持率はジリ貧に終始した。国民は、景気対策の必要性は十分に認識していたし、一部の施策は評価されている。しかし失業者が増加し、住宅金融の返済に困るような家計が出ているにもかかわらず、不必要な「定額給付金」や1年限りの「幼児手当て」などや、有料高速道路の部分的引き下げは良いとしても、そのために5千億円もの税金を道路会社に注ぎ込むなど、選挙目当てと見られる予算のばら撒きを繰り返し、そのツケを国民の税金や国債の増額として転嫁している。国民の負担における景気対策であるとの認識に欠ける。国民にツケを回すのであれば誰でも出来る。本年度予算についても、国立マンガ・アニメ・センターの建設に117億円もの予算を付けており、これらを含め国会の内外で多くの無駄や国債発行の上積みなどが指摘されているにも拘わらず、また参議院で否決されたにも拘わらず、従来通り「修正協議」には一切応じていない。何のための両院協議会か。誰のための国会か。誰のための予算か。対応に適正を欠く。「変」である。
 与党側は、北朝鮮船舶の検査など、一部の法律案が廃案になるとして野党を批判する向きがあるが、勝手に解散予告をし、延長国会の会期前に解散したのは首相であり、一日も争って採択すべき法案であれば、野党と協議して、任期まで務め法案処理を優先すべきではなかったのか。責任転嫁も甚だしい。
 首相は、首相の解散権に拘泥し、“適当な時期に解散する”と言い続けていた手前、任期切れ解散となるのを恐れ、解散予告に追い込まれたのであり、「負け惜しみ解散」の様相が強い。その上、連立している公明党が東京都議選の応援に動員されていた傘下の宗教団体の会員を総選挙のために再配置するためなどに1ヶ月以上の時間を必要とすることなどから、「予告」、「解散宣言」という2段階方式を取らざるを得なくなり、任期切れぎりぎりの8月30日を投票日とせざるを得なかったのであろう。それで決断したとは言い難く、解散に追い込まれた負け惜しみ解散なのであろう。「変」である。
首相は、都議選の第一声で、普通であれば必勝を期して戦うと言うべきところを、例のごとく「惜敗を期して」戦うと言って、大敗を喫してしまった。
 政権延命を画策し、擁護し、解散・総選挙をここまで先送って来た森院政にも大きな責任がある。「政治空白を作らない」、「政局にしない」ことを大義名分としていたが、国民の明確な信託と支持を得ていない政権、政府を延命させることこそが民意に反する「政治空白」であり、国家、国民の利益に反することになる。ともすると一部マスコミがそれに迎合するかの論調であった。ここまで解散、総選挙の先延ばしを許した責任の一端はマスコミ側にもあるのかもしれない。民意を問うことは、民主主義のコストやある種の非効率になるにしても、基本中の基本であり、そのために1ヶ月前後の期間を費やしたとしても、民意を無視して政権を継続するよりも遥かにましであろう。「政治空白を作らない」という論理は、国民は信頼できず、「衆愚」であるという政権側や行政側の意識の反映でもある。そう言われないように、国民、有権者の賢明な選択を期待したい。(09.07.)
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 麻生首相が、G-8サミットから帰国し、7月13日に「21日以降に衆議院解散、8月30日に総選挙を実施する」との予告をし、21日、衆議院を解散した。
 自民党内には、「解散予告」がなされた後、解散するなら何故直ちに行わないのか、都議選での大敗の総括をすべし、支持率低迷の中で何故麻生首相・党総裁の下で選挙をするのかなど異論が続出している。「変」である。
 麻生首相は、安倍、福田両首相の突然の辞任を受けて、昨年9月、自民党新総裁となり首班指名された。福田前首相としては、支持率が低迷し、党内外から衆院選は新しい顔で戦えるようにとの配慮から禅譲したもので、交代後は速やかな解散、総選挙が予想されていた。
 ところが、同首相は、首相の座にしがみつき、「適当な時期に解散、総選挙する。解散は首相の権限」と繰り返し、解散を先延ばしして来た。衆議院議員の任期は9月10日までであることは分っており、任期が近付けば、任期切れ解散に追い込まれることは分りきっている。就任以来首相の座にしがみつき、失言のみでなく、景気対策においても選挙目当ての人気取りと思われる項目を含めるなど、公正を欠く面があり、支持率はジリ貧に終始した。国民は、景気対策の必要性は十分に認識していたし、一部の施策は評価されている。しかし失業者が増加し、住宅金融の返済に困るような家計が出ているにもかかわらず、不必要な「定額給付金」や1年限りの「幼児手当て」などや、有料高速道路の部分的引き下げは良いとしても、そのために5千億円もの税金を道路会社に注ぎ込むなど、選挙目当てと見られる予算のばら撒きを繰り返し、そのツケを国民の税金や国債の増額として転嫁している。国民の負担における景気対策であるとの認識に欠ける。国民にツケを回すのであれば誰でも出来る。本年度予算についても、国立マンガ・アニメ・センターの建設に117億円もの予算を付けており、これらを含め国会の内外で多くの無駄や国債発行の上積みなどが指摘されているにも拘わらず、また参議院で否決されたにも拘わらず、従来通り「修正協議」には一切応じていない。何のための両院協議会か。誰のための国会か。誰のための予算か。対応に適正を欠く。「変」である。
 与党側は、北朝鮮船舶の検査など、一部の法律案が廃案になるとして野党を批判する向きがあるが、勝手に解散予告をし、延長国会の会期前に解散したのは首相であり、一日も争って採択すべき法案であれば、野党と協議して、任期まで務め法案処理を優先すべきではなかったのか。責任転嫁も甚だしい。
 首相は、首相の解散権に拘泥し、“適当な時期に解散する”と言い続けていた手前、任期切れ解散となるのを恐れ、解散予告に追い込まれたのであり、「負け惜しみ解散」の様相が強い。その上、連立している公明党が東京都議選の応援に動員されていた傘下の宗教団体の会員を総選挙のために再配置するためなどに1ヶ月以上の時間を必要とすることなどから、「予告」、「解散宣言」という2段階方式を取らざるを得なくなり、任期切れぎりぎりの8月30日を投票日とせざるを得なかったのであろう。それで決断したとは言い難く、解散に追い込まれた負け惜しみ解散なのであろう。「変」である。
首相は、都議選の第一声で、普通であれば必勝を期して戦うと言うべきところを、例のごとく「惜敗を期して」戦うと言って、大敗を喫してしまった。
 政権延命を画策し、擁護し、解散・総選挙をここまで先送って来た森院政にも大きな責任がある。「政治空白を作らない」、「政局にしない」ことを大義名分としていたが、国民の明確な信託と支持を得ていない政権、政府を延命させることこそが民意に反する「政治空白」であり、国家、国民の利益に反することになる。ともすると一部マスコミがそれに迎合するかの論調であった。ここまで解散、総選挙の先延ばしを許した責任の一端はマスコミ側にもあるのかもしれない。民意を問うことは、民主主義のコストやある種の非効率になるにしても、基本中の基本であり、そのために1ヶ月前後の期間を費やしたとしても、民意を無視して政権を継続するよりも遥かにましであろう。「政治空白を作らない」という論理は、国民は信頼できず、「衆愚」であるという政権側や行政側の意識の反映でもある。そう言われないように、国民、有権者の賢明な選択を期待したい。(09.07.)
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